コスモス、カーネーション、朝顔など(ようやく秋になる)
ニチニチソウ
紫のカーネーションと母
庭に来た四十雀
我に向き十数輪咲くひまわりやカンナの赤く映えにけるかな
三色の朝顔咲きぬ板塀に今日も通りて心なごみぬ
三色のコスモス壺にさしにけりここに調和し心なごみぬ
カーネーション紫濃しや我が母の遺影ににあう家を支えぬ
我が向かい一つきらめく秋の星神の御意にそかなうべしかな
夜のふけて幽かに一匹虫の声心の奥にひびきけるかな
カーネーションの花は母の日に送るものだった、カーネーションにはいろいろな色がある紫色もある、これは濃い紫だが薄い紫色もある
これこは仙台市で買ったものである、仙台市だといろいろな花の種類を売っている
この辺では仙台市から花を買っている、花の市場は仙台市にあるからだ
そこには外国からも入ってくるからだ
ただ今のところ自分の住んでいる町には一軒しか花屋がなくなった
花屋も維持するのがむずかしい
この紫のカーネーションは自分の母にあっていた、何か控えめであり地味だからである
もう一人の母親ははでなのである、でもここで問題なのは必ず二人の母親がいたから
どうしても二人を差別するとまずいのである
だからもう一人の母親には明るい大きな花があっているから挿すことにする
フラワーアレンジメントは野の花をとってでもできる、コスモスは川の土手に咲いていたものだからである、ただ壺も関係している、だから壺をある程度集める必要がある
私が買ったガラスの壺は安いものである、別に安くてもいいのである
何でも高価なものがいいとは限らない、その花にあったものが必要だとなる
いつも通る道にも三色の朝顔が咲いている、色が違って調和していることに心がなごむ
まずこの世の中とにかく色を一つにされる、学校などでも何か黒い制服でありユニホームを着せられる、自由がないのである
カルト教団とか軍国主義とかにもなるナチスのように一色にされる、そこは黒一色の世界なのである、個性は認められないのである
そこに調和なく心がなごむことはないのである、神の創った世界は様々な色があって調和しているのである
今日は涼しかった、ようやく秋になる、読書するとかにはいい季節である
夜がふけて一人幽かに鳴く虫の声を聴く、結局一人くらいならその悩みとか不満でも聞ける、もう五人くらい来てもその声を聴くことはむずかしくなる
今付き合っているのは一人くらいしか自分にはいない、人と付き合うのが疲れるからだ
それで引きこもりにもなったのである
ともかく人間は死んでも死んだ人と語り続けるものだと思った、何か認知症になった老人が死んだ人と話しつづけている
それを聞いて奇妙に思った、病気だからそうなったのかと思った
でも実際は普通でも死んだ人と語り続けているのである、そして死んでもすぐ忘れる人はそれだけ印象に残らなかった人なのである、でも延々と語り続けられる人は依然として生者の中に生き続けているのである