人間の認識の限界
(空間と時間軸の認識の限界ーでも限界を破るべき)
人間というのは何事認識する意識するということに特徴がある
認識というときいろいろあってもまず空間認識がある、なぜならその住んでいる場所の空間認識は自ずと無意識にでもそなわる
でも空間認識にしても狭いのである、だから日本列島を空間認識すること自体難儀になる大平洋側で海から昇る太平洋を見ているのと日本海のように山から太陽が昇り海に沈んでゆくのを見るのとまるで違った空間認識になるからだ
また山国だと山から太陽が昇り山に太陽が沈む、この感覚もまた相当に違っている
その場所場所で空間認識は違ったものとして育つのである
京都だと盆地だから東山というと太陽が昇る山であり京都では意識される
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」
これは東山から見る風景である、でも海側に住んでいると山から昇る太陽をいつも見ていないから感覚的にわからないのである
それで近江に行って湖西方面から太陽が昇るのを見た、それは東(あづま)の方向だったのである、あんなところから太陽が昇るのを見て意外だった
そして湖西というと西であり日の没る場所だったのである、それも感覚的にわからなかった、だからいかに地理を頭だけでなく認識することがむずかしいかである
これは地理の本を見てもテレビで見てもわからないのである
その場に立って認識しないとわからないのである
基本的に太陽が昇る方向と太陽が沈む方向で方向を知る、でもこれが太平洋側と日本海では逆になるから認識できなくなる、そして人間の認識はそこに定着していないとできない一時的に旅してもまた同じ場所にいればその感覚が薄れてわからなくなる
アメリカのカリフォルニアなどは海岸は西になり太陽は西に沈むのである
また韓国では日本海は東海であり太陽が昇る場所なのである、それだけ地理の感覚は場所により正反対にもなっているのである
もちろん地理を本とかテレビとか映像だけでもわからない、それは一部分を切り取ったものであり全体を知り得ようがないからである、体感できないからである
そして外国に行ったとしてもそこはさらに一回くらい行っても地理も認識するのはむずかしい、確かに大雑把には認識するから行かないよりはいいとしてもその土地を離れると
記憶もうすれてく、特に外国はそうである、写真をとったとしてもそこがどこかもわからなくなっているのだ、見慣れない物があり認識することがむずかしいのである
ただ何回も行けば違っている、でもそんなことは普通はできないのである
地理を認識するときでは今なら飛行機でヨ−ロッパでもどこでも行ける、でも飛行機で行ったとしても地理は認識できない、飛行機に乗って見えるのは外は闇だけで何も見えないのである、でも船で一か月でもかかってヨ−ロッパなどに行けばまるで違った認識になる途中に港によるし大陸を遠望したりと認識することが違ってくる
それは車でそうである、車はただ目的地まで早く行くというだけであり途中が省かれるからだ、だから歩いて旅すれば地理を体感できる自転車でもできる、坂で苦労して上るからである、それで坂を越えたとき新たな世界が開ける感覚になる
それは近くの飯館村に行くときそうなのである
その峠が長くつづくからである、標高でも飯館村は600メートルとかあり高いのであるだから自転車で行くとその峠を越えるのが一苦労なのである
でも峠をやっと越えた時達成感がある、その感覚は車だと得られないのである
日本は山が多く峠が多い、だから峠というのは日本が作った漢字なのである
ともかく人間の認識は空間と時間軸で決められる、でもその範囲が狭いのである
また時間軸でも短いのでる、そこに人間の認識の限界がある
たとえ飛行機であれ空間を認識することが容易になったとしても現実的には認識できない大陸には長大な川があるとしてその一部を見てもわからない、その川を上から下まで下った時わかる、ナイル川でもそうである、私は船で川を下っても一部だった
河自体が長大だからそれを認識することもまたむずかしいのである
それは中国の揚子江でも黄河でもそうである、そんな大きな川が日本がにないから認識できないのである
空間認識というとき宇宙旅行で月まで火星まで行ったとしても宇宙の広さを認識することは不可能である、なぜなら何億光年のかなたの星があるとしてその空間の広大さを認識できないからである、そこに人間の限界がある
そして地理を知ることのむずかしさはそのように広大すぎてそれを知るには相当な時間を費やさないとできない、もし一億年光年の星に到達するとなるとどうにもならないなる
光の速さの乗り物ができても行けないのである
ただもし人間の寿命が200年とかなればそれだけ空間認識は深まる
なぜなら何度も旅したりして認識を深めることができるからだ
一回だけではない何回も行けるとなるからだ
ただ人間の歴史は空間を広げるものとしてもあった、歩いていただけでは空間認識は広がらない、でも馬に乗れば空間認識は飛躍的に広がった、またそれからテクノロジーの発展で鉄道が生まれて車が飛行機が生まれて飛躍的に広がったとなる
コロンブスとかのアメリカ発見も空間認識を広げたのである
そして地球には未知の領域がなくなった、でも狭い所でも地形とかは複雑であり探求することはいくらでもあるとなる
ここで問題になるのは時間のことである、時間もまた限られているからだ
そこで人間の認識の限界が生まれる、限られた時間内でしか認識できないからである
だからまず人間の空間認識はどうしても限られてくる
時間でも老人になればわかる、あっという間にに過ぎてしまったとなるからだ
30過ぎると体力でも下り坂になるとか40で白髪がはえるとかすぐに老いてくる
それも人間の限界になる、旅するにしてももう体力がないとかなる
要するに人間はみんな個々にわずかのことを認識して死んでゆくとなる
お釈迦様と孫悟空が神通力比べをした話しですが、孫悟空は、自分の神通力一杯で空を飛んで、これ以上遠いところは無かろうと思ったところに大きな山を見つけました。そこで、「これは良し、自分がここまで来た証拠をこの山に残してやろう」と思って「悟空参上!」と大きく書きました。戻って来て、お釈迦様にそれを報告した所、お釈迦様が「そなたが書いた言葉は、これか!」と手を広げられたところ、その手の指に「悟空参上!」と書いてあったという話しです。
これは人間の限界を語っている、それは実際は今でも同じなのである、いくら飛行機で外国に行き宇宙まで月や火星まで行っても空間の広さを実感することは不可能である
まず外国は一回くらい旅してもわからないのだ、空間認識にしても何度も行きその場に立てば自ずと深く認識できるようになる、その空間認識が場の認識がアイディンティティにもなる、でもとても一回くらい外国旅行しても認識できないのである
日本だと私は全国を旅しているから認識する、それでふりかえって俳句とか短歌とか詩にしたりする、それは日本がだからできることである、外国になるとむずかしくなる
大陸だと広すぎて空間認識することが不可能になるからだ
中国に三回行ってもとても空間認識できなかった、アメリカは一回だから余計できない
アメリカだとホイットマンでも空間克服することが詩になる、あれだけ広ければ果てしない空間の中で人間はとまどうのである、そこで人間が一体感を持つことは困難になる
一つの州でも日本より広くなるし砂漠もあるしとなると認識できなくなる
でも人間は空間でも時間でも限界を越えるものだとなる
それを目指している、限界を越えよということである
だからこそ神は人間に時間を越える永遠の命を与えたのである
永遠に生きるということは時間の限界がないことである
そうなれば空間認識でもいかに広くても時間が永遠にあるとすればできるとなる
全能の神は人間に限界を越えさせるのである
それは科学技術でも成されてきたとしてもそこにも限界がある
とても長寿がかなうよにうになっても永遠に生きることはできないからである
老化を止めることができないからである
そういう限界を破る力を与えるのは全能の神だとなる
人間に限界を設けてはいけないのである
もう限界だよということはあらゆることに言ってはならないのである
それは個々人でも俺はこんなもんだとか俺には才能はないとか何がないないとなる
それは自ら限界をもうけて小さくしているのである
人間には限界があってはならないのである、限界を越える力を神が与えるのである
限界を越えよ、限界を越えて新たな世界を見よ
汝を低く狭く見積もるな
神は汝に新たな世界を開く
限界を越えよ、限界を設けるな
限界を突き破れ、神に限界なし
また限界を決めてもそこを深く知れ
神の与えた地を深く耕せ
広く知り狭きも深く知れ
神はさらに汝に天の国を与える
汝はそこで尽くす
その時間も限りなくあれば・・・・
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