2022年08月13日

車社会を見直すべき    (歩く旅のことがわからない、人間的感覚が喪失した―俳句で偲ぶ昔)


 車社会を見直すべき

 (歩く旅のことがわからない、人間的感覚が喪失した―俳句で偲ぶ昔)

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高齢者が日常の買い物や通院のために自分で車を運転しなければならない街は、単純に不便で暮らしにくいということです。高齢者にとって、公共機関と徒歩で利用可能な施設は不可欠で、利便性の高い地域に施設が集まっていることが大切になります。また、居住地域が一定範囲内に収まっていれば、送迎・訪問介護等の福祉サービスも効率よく提供できることになります。

なぜ車社会の街は暮らしにくい? 3つの要因で今後注目の「コンパクトシティ」とは

https://magazine.aruhi-corp.co.jp/0000-2950/

車がないと買い物ができない。
車がないと仕事にも行けやしない。
とどのつまり車がないと生きていけない。


地方で普通の生活をするにはテレビより洗濯機より何より、車が必需品なのです。まさにマストアイテム。
地方でそれなりの暮らしを実現しようとしたら1家に1台ではなく1人1台なんです。
電車・バスの生活に不便がないので、よっぽどのことが無い限り車を持つという発想にもなりません。

つまり都会の人々は歩きます。
この地に足着いた「歩く」という行為が、街の活性化にはとても重要だったんです。
https://onl.bz/E7iXyq9

●歩く感覚で見れなくなった社会

くるま社会というとき車によって社会が適応したとなる、社会があって車があるのではない、車があって社会がある、するともともと共同体として機能していた社会が車社会になり共同性すら失われる、社会の問題をいろいろ追求してゆくと車社会にこそ問題があるということを社会全体で追求しないのである
それはトヨタの車が今や日本の輸出品だとかなっていることも関係している

それもあるが今や車無しの生活が考えられなくなっている
まず車ありきの社会である、本当に車無しでは仕事もできない、車持っていない人は本当に変人であり社会で役立たない人達だとなる
だから私は自転車に乗る人とは話しする、でも車持っている人と話ししないのである
そして変なのだがニートとか良く合う、田舎でもまたこうして働かない若い人達が普通にいるようになったのである、その人達は車を持っていないのである
だから車も持てないとういことはもう社会人として能力がないとも見られる
第一車なしでは働くこともできないからである

農家の人でも農地に行くのに必ず車で行くからである、また荷物を載せるにも必要であるつまり農業でも車なしではできないのである、前はリヤカーとか馬車で荷物を運んでいただからそもそも遠くへ荷物を運ぶこと自体簡単にはできない、すると回りにある物だけで自給自足の生活になる
それで農家では納豆でも油までも自家生産だった、カヤの木の実から油をとっていたとかなる、つまり何かを買うということはまれだった
だから村と村でもたいして離れていなくても交わることもなかったのである
隣の村から麦つきに来ていた若者が蛇だったとかいう伝説が残るのもそもそも隣の村でも遠くなっていたからである
今は歩かないから歩く感覚で社会を見れないのである
それで飯館村の大倉村と佐須村で明治になり合併しようとしたができなかった
その理由が民情が違うからだとなっていたのである
民情とは何かとなるとわかりにくいが何かそこでわかりあえないものがあったとなる

私が大倉村から佐須村まで自転車で行くと結構遠いと感じる、そこは山間の道であり余計にそう感じた

そこを歩いたらどうなるのか?

5,6キロでも相当に遠く感じる、つまり歩くということはそれだけ近くても遠くなってしまうのである、自転車でも遠く感じる、でも車だとあっという間につくとなる
それで不思議なのは現代の人間とは遠くが近くなり近くが遠くなったのである
近くが遠くなったというとき近くの人間関係が希薄になったということでもある
なぜなら私の子供の時は私の家では店をしていたが近所の人達が客となり近間で用をたすほかなかったからである、歩いて生活するとなると遠くには行けないからである
歩いていたから商店街もありえたのである
今は車でも郊外のイオンとかに行くから買物でも車なしでは生活できないとなる
それでシャッター通りになったのである

●鉄道の時代

そもそも街自体が駅前通りがあったように鉄道があって通りができた
鉄道が交通の要になっていたときはそうである、原町市(区)は駅前通りができたのは鉄道が開通したからである、原町区は常磐線の機関区にもなっていたからである
福島県では昔のの平駅今のいわき駅とが機関区になっていたのである
そしていわき市には常磐炭田があり石炭を運んだり資材を木材や木を運んだ
森林鉄道がありそれが高瀬川から葛尾村の方まであり岩をけずったトンネルが残っている森林鉄道が網の目のようにめぐらされていたのが日本であった

でも車社会になったとき鉄道の時代は終わり車社会になった
車で物を運ぶ時代となった、自転車屋とかは駅前にあったのは鉄道で物を運んでいた時代に駅前に運ばれたからである、そこでどこでも貨物列車の一部が入る

旅客の乗降、貨物の積卸などを行うために設けられた場所のことを総称して「停車場」(ていしゃじょう)といいます。
鉄道は人と物を運ぶ事業なので、旅客を乗降させたり、貨物の積み卸しをしたりする場所が必要です。こうした場所は、役割によって「駅」、「信号場」、「操車場」に分けることができます

引き込み線が必ず駅にあったのだ、鉄道はもともと貨車であり北海道だったは石炭を運ぶために作られていた、乗客のためではなかった、小樽などがそうである
北海道は石炭の産地であり石炭を運ぶものとして作られた
常磐炭鉱があり東京にいわき市から運んだと同じである
驚いたのは原町紡績にも原ノ町駅から直接引き込み線があり生糸を横浜などに運んでいたのである、その原町紡績に私の母は十年間糸取りとして働いていたのである
人間は常に過去のことがわからなくなる、その最たるものが歩く感覚で社会を見れないことである、この変化は余りにも大きかったのである

常磐高速道路ができて鹿島地区にSAができたがそこは鉄道の駅からすると百倍以上の人が出入りしているだろう、千倍かもしれない、駅だは数人くらいしか乗り降りしないからである、その相違も大きいが高速のSAはそこに一時的にトイレに行くとか食事するしかないあとはすぐ離れてゆくだけで町の方に来ることがないのである
この相違も大きいのである、それは街とは離れた世界でありイオンともにている
経済的効果がないのである、働き口になっていても街自体の活性化にはならないのである道の駅より活性化にならない、道の駅は街中と通じていることがあるからだ

江戸時代を知るにはまず歩いてみなければわからない、お伊勢参りでも東海道でも歩いていたからである、参勤交代でも歩いていた、だから相馬から江戸まで8日とかかかった
往復になると16日もかかる、それは今の感覚では実感できない
そこからして必ず過去を見るとき誤解しているのである
江戸は簡単に行ける場所ではない、頻繁に行ける場所ではないのである

●車は場所をとり他者と交わらないマイカーになる

社会が変わった、人間は冷たくなった、人と人のつながりがなくなった、地方は衰退するばかりだ・・・・
いろいろ言う時それが車社会となったということである、その変化が一番大きかったのである
いかに車社会が社会を根本的に全体的に変えてしまったかそれを知らなければ時代を知ることはできない

それが津波でも車社会が影響していたのである、車が逃げようとし渋滞してそれで車が流されて被害が拡大した
車だと早く逃げられると思ったが都会で渋滞化して前がつかえてかえって被害を拡大したのである、車というのは意外と場所をとることが問題だったのである
鉄道だったら多人数を運ぶ公共性がある
車はマイカーであり個人的消費するものとしてある、他者は無視する公共的なものではない、その問題として場所をとることである、歩くとなれば一人の人間だから場所をとらないが車で移動することは場所をとるのである

そして車は車内で閉鎖された空間であり交わらないのである
それで自転車でテントを張ったがそこに車に乗った人がいて止まっていたがわからなかった、たまたま話しかけたので人がいることがわかったのである
つまり車に乗った人とは旅は道連れ世は情けとならない、情など通わないのである
ただどういうわけかバイクの人とはたまに話ししたりする
バイクと自転車は多少近い仲間だとなる、でもバイクと自転車の相違も大きいのである
何か百キロ走ってきて帰ってきたとかなる、そのスピードは車と同じなのである
だから若い人がバイクにのりそれなりの年配の人が自転車で旅することは相当な相違がある、自転車は相当に疲れるからである

ともかく田舎でもトラック運転手が多いとみる、また物を運ぶ仕事が多いのである
通販時代になり物を運ぶ仕事も増えたのである
あるトラック運転手だった人は足を悪くしたとかで仕事をやめてから自転車に乗って近辺を回っている、その人と良く合うのである、相当な年だけでと自転車で回っている
また老人になると80才くらいで免許を返納する人達が増えた
すると足がないということで困る、鉄道もバスも不便だからである
何か高齢化社会は車社会に合わないのである、むしろ公共交通が必要になっているのだ
ただ正直不便である、ここでは原町まで行くのに鉄道で行ってもそこから用を足すには歩くと遠くなるからタクシーを利用する、すると金がかかるとなる
だから私自身も原町でも相馬でも自転車で行っているのである
ただ自転車は暑さに弱い、今暑いから熱中症にもなるから一か月以上原町にも行っていない、そういう不便が自転車にはある

●人間回復には歩くか自転車がいい

車というのは何か人間的なものを失う、それは別に車だけではない、道具自体が必ず人間的なものを失うものだった、それで二千年前に老子は鍬を使うことで人間的なものを失うと警告していた、道具でも石を投げ合い戦争している時代と鉄器で戦争している時代とではまるで違ったものとなる、鉄だと大量殺戮も可能である
その道具が核兵器まで発展したのが人間である
道具にはそうした負の面が人間が生れてから最初からあったことなのである

また旅の面から見ると歩くことがなくなったということは旅自体が喪失したともなる
車で旅するとなると旅にならない、ただ目的地までいかに早く到達するかとなるだけである、その途中は省かれるのである
実際に地理を理解するには路査(とうさ)することである、実地に歩いてみることであるそうしてこそ地理を実感できるのである、その感覚はいくら地図を見てもわからない
実感できないのである、そこにまた過去を見ることでも誤解が生じているのである
また旅したとしても車の旅は途中が省かれるから記憶に残らないのである
大地を牛のように歩いたら記憶に残る、その記憶に残らないことが意外と重要なことになる、なぜなら老人になると辛い旅とか登山とかてきなくなる
すると今まで旅したことを回想する、でも記憶に残っていなかったら回想もできないからである、それで後で旅しても旅していなかったとか損したことに気づくのである
新幹線で一気に仙台なり青森に行ったとしても途中は通貨しただけであり記憶に残らないのである

老人になるととにかく何を経験したかを語ることになる、旅でもそうでありいろいろな仕事のことでもそうである、みんな体験していることは違うからである
だから老人はその語ることで価値があるとなる、でもニートかが老人になって二三行しか語れることがないというのはあまりにも悲しい、60才まで生きてそれだけなのかとなると何のために生きたかもわからない、つまり老人になると語られることでその人を見ることになる、記憶に生きることになる
それで私の姉は従軍看護婦で四年間マレーシアのジョホールバルで働いたことを死ぬ直前まで語っていたのである、その青春の記憶は認知症になっても忘れることがなかった
そこが人生で一番強烈な印象となったからそうなってしまったのである

老人は語ることで価値がある、それはみんな違っている、ある人は若い時人一倍働いて
立派な庭と家を建てた、その頃トラック運転手でも一か月百万もらったとか言う人もいた稼げば稼ぐほど金をもらっていたのである、その石で組まれた城壁のような庭は価値があり自慢する、そして病院に半年くらいてかえって体が悪くなったが家に帰ったら回復したとかいうのもわかる、家というのはそういう効果がある
他にも15歳で大工の修行して優秀な大工になった人もいる、そこで注目したのが15歳だったということである、もう何か物になるにはその年代でないと物にならないとなっている、明治なのか昔は13歳であり18歳になるともう親方は弟子にしなかったという
もう遅いとなっていたのである、つまりいかに若い時から修行しなければならないかである、それは何でもそうなのである、人間の時間は限られているからである


●俳句で回顧する歩いた時代の感覚

御堂まで一里あまりの霞かな

同じ橋三たび渡りぬ春の宵

夕雁や物荷ひ行く肩の上

井戸の水汲む白菊の朝かな

つくづくと行燈の夜の長さかな

(漱石俳句集)

御堂まで一里あまりの霞かな

御堂というのはそこは休む場所としてもあった、だからそこに寝泊まりした人もいた
また雨宿りもしたのである、それで私は自転車で雨が急に降ってきて本当に御堂で雨宿りした

雨宿り御堂のあれや夏燕

おそらく一里歩いたら御堂で休めるということでこの句ができたのかもしれない
一里という距離感はあくまでも歩いた距離感だからである

夕雁や物荷ひ行く肩の上

荷物を肩に背負い運ぶのは日常的なことである、雁のように飛んで行くことはできない
車だとまさに雁のように飛んで行くともなるから違っている

秋の日や松一本一本や歩むかな(自作)

松一本一本を見つつ歩く、自転車でも一本一本の松を見て走る、車だったら通りすぎるだけなのである、途中が省かれて記憶されないのである

こんなふうな俳句になる、それもこれは自転車で旅したから思い出として記憶されていたのである、現代では記憶する旅がなかなかできないのである
大地を足ずふみしめてゆけば記憶に残る、一歩一歩牛のようにスローに踏みして行けば記憶に残る、でも車で行ったら通り過ぎるだけであり途中は記憶に残らないのである
だから人間が体験するということは車がないとできないということではない
歩くことしかできない時代でも深い体験はできたのである
むしろ人間的感覚で旅ができないから経験ができないから失われたものがある
また貧乏だから体験できないということもない、何でも今なら金がないと体験できないと思っている、でも人間に与えられた時間は平等なのである

いくら金があってもあらゆる体験はできないのである、時間は限られているからだ
でも金があれば留学などできるからそれは大きな体験となる
でも貧乏だからといって体験できないことはない、体験するにしても人間は多様だからである、会社員となるのも体験である、でも変な話だけど問題だけどニートも体験なのである、仕事もしない会社員にもならない、ただ時間だけがるというのも体験なのである
確かなことは人間の体験する事でも時間が限られているからわずかだとなる
私は最初は鉄道の旅だった、それが飽きて自転車の旅になった、でも歩く旅をしていないのである、これは経験として欠けているとなったが歩く旅は容易ではないからしなかったのである、ただ自転車だと歩く旅にも近いからイメージできるとはなる

明治生まれの漱石の俳句でも昔の俳句は今の時代の感覚では理解できない

井戸の水汲む白菊の朝かな

これも井戸があったときの感覚でできた句である、何か瑞々しいとなる、それはなぜか?これも井戸の水だからそうなった、水道の水ではないのである
これも井戸がなくなったときその感覚がわからなくなる、井戸の水は自然の水でありそれで白菊も映えて新鮮な感覚になる

つくづくと行燈の夜の長さかな

行燈だったら今の電気時代の灯とは違っている、現代は明るすぎるのである
そして情報洪水でもあり時間に追われるのである、明治辺りだったら行燈がともりじっとしているほかないとなる、外は真っ暗だとなるからだ

何か現代は科学技術が経済でもグロ−バル化して発展したけどそれが限界に来たともみるSDGs(持続可能社会)が言われるのもそうである、かえって不便な時代でも見直される
その時代が回顧してなつかしくみる、人間的なものがあり情があったとかふりかえる
要するに必ずしも科学技術の発展でも経済発展でもすべてがいいものとして働かないのが人間社会なのである
だから確かに経済不況とか日本の貧困化も問題だが社会を見直すことが迫られている
そのために原発事故とかコロナウィルスとかがありそういうことを契機として社会自体を見直すことが必要である
でも誰も車を手放すとかはできない、つまり車はそれだけ肉体の一部とも化しているからである
車を持たない自分としてはキャンピングカーの旅をしたいと見た
家が移動するのだからある地点まで行ってそこで長い時間を過ごすにはいいとみた
というのは移動することに疲れたからである
でも車社会は見直すべき時代に入ったことは確かである






posted by 老鶯 at 13:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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