2022年07月26日

相馬藩内の姓 (日本人の姓は村の地名に由来している)

相馬藩内の姓
(日本人の姓は村の地名に由来している)

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●日本人の姓は地名に村の名に由来している

日本人の姓はほとんど地名に由来している、村の名前に由来している
日本人の姓をたどると必ず地名に行きあたる
只野の姓が鹿島区とかに50軒もある
その由来は明確である、南北朝の争いで南朝の城となった霊山が炎上して逃れてきた
落武者がその基となっている
その只野一族はもともと郡山市の多田野村に由来していたのである
だから姓を辿れば必ず村の名とか地名に行きあたるのである
姓はまたかばね{屍}であり死体のことでもあった、つまり先祖と深く結びついてるのが姓なのである

相馬藩の起りも相馬氏に由来している、その相馬氏は相馬という地名がありそこを根拠としていた、千葉県でありその辺でまだ開墾されない広い荒野がありそこに野馬がいてその野馬を捕まえて馴らして軍馬にしたのが相馬野馬追の始まりである
日本人のアイディンティティが村にあるというときそうである
相馬氏でもここに移住してきたとき今の相馬氏は中村に土着したから中村と姓が変わったのである、だからもともと相馬という姓が中村に変わった
そういうことが多いからその出自がわかりにくくなる
不思議に郡山市の多田野村の近くに小林村がある、すると小林とは多田野村の近くから出てきたのかとなる
ただ私の家は父親が葛尾村から出たことはわかっている
でもなぜ小林になっているのかわからないのである

地方を開拓するために展開した藤原氏、源氏、平氏等に出自をもつ武士が誕生していました。この頃の武士では武蔵七党が有名です。その武士たちも公家と同じく姓を同じくするものが多かったため、区別がつきづらくなっていました。そこで、武士たちは自分たちの領地・名田(みょうでん)を守り、かつ明確にするため、自分の支配する土地の地名を名字として名乗ったのです。

苗字帯刀(みょうじたいとう)」であり、苗字が身分の象徴になったため、武士等の特権階級や一部の庶民(庄屋・名主)を除いて苗字を公の場で名乗ることができなくなってしまいました

商人や農民の中でも、元々武士の家が帰農した場合には苗字があり、上層の農民も苗字を持ち、商人も名字に「屋」をつけて屋号にしたりしていました。あくまで苗字を公に名乗ることが許されなかったのであり、苗字を持つことが許されなかったわけではありません
https://ka-ju.co.jp/column/myoji#anc-7

●姓にまつわる物語

明治になって名字が名乗れるようになったことは重要な歴史である、江戸時代でも庶民の墓はない
墓にしても個人の墓であり殿様の墓にしても一人の人間の墓となる
家族墓は明治以降に法律化されてできたもので新しいのである
天皇を親として家族でまとめて赤子とする明治の政策でそうなったのである
それで誰でも名字を名乗ることができるようになった、しかしその由来はわからない
庶民の姓は・・・屋が代わりになっている、屋号である、今でも自分の家で店をしていたから屋号で呼ばれるのである、それは近くの古い農家でも屋号で呼ばれているのである
江戸時代で農民で個人の墓はないが幕末頃になると個人名の墓が作られた
百姓の名前が記されているからだ、それで得意なことがあった
その頃経済力がついて百姓でも墓を作ったとなる

相馬藩だと侍の名字は相馬野馬追の時に目立つ、旗印の下に名字と名前が記されるからである、名字というときこの辺では鎌倉から移住した岩松氏が有名である
岩松氏は領地を広げて飯館村まで領地として支配したのである
その岩松氏の支配になったことでその名残りに地名が残っている、千倉とか街内の御前の内とかがそうだろう、それは鎌倉時代のものだから古いのである
そしてその家来の日里、中里、島、蒔田に惨殺されたのである、幼児まで殺されたのでひどいとして伝説としてより明確な事実として語り継がれたのである
後に日里は郡に変えたのである、祟りを恐れたからである、この姓は相馬藩内で残っていて結構子孫は反映して残っているのである、別に祟りがあって後がつづかないということでもなかった、姓は歴史を語る、名前はその個人を語る、でも名前だと連続した歴史がわかりにくいのである、でも胤と必ず相馬藩主の殿様についている、それは連綿としてつづいている、そう相馬野馬追がつづいているので殿様がまだここでは活きているのである

ただそれを言うと現実にその子孫が生きているので語りにくいことが500年過ぎてもある、地元では悪いことは語りにくいのである
それで郷土史は悪人がいないからきれいごとになっているから面白くないと指摘していた人がいたのである
岩松という姓は一族が断たれたので相馬藩内にはない、これが如実に歴史を語っているのてある
もう一つ相馬藩内で姓で大事なのは越中などから富山県などから飢饉で三分の一の人口が減った時移住してきた人達である、その姓はわかるからその末裔だとわかる
墓だと南無阿弥陀仏としか記されているのでもわかる

岩松氏の伝説
http://www.musubu.jp/kashimamanonado.htm

●「御家」の旗は小高から鹿島(北郷)に人が移住しため

ともかく野馬追いで鹿島区(北郷)から出た「御家」の旗に違和感をもったのは
もともと小高の侍の出であり北郷ではないからだとなる
どうして違和感があったのかというと江戸時代の封建時代は土地と人間が一体化していた封土とは土地を納めてそこから年貢をとる仕組みのことである
だから土地と一体化して人々は侍に支配されていたとなる
農民社会だと土地が一番大事だからである、だからこそその土地の名前が村になり姓名となる、その土地から離れて人はありえなかったのである
それで「御家」の旗印が鹿島区(北郷)に移った時、小高という歴史的土地から離れたことで違和感をもったのである、もともと小高にあってこそ歴史的存在として価値をもっていたからである、ただ相馬藩内であれば依然として歴史は共有されて活きている

でも原発事故で小高ら避難した人達は相馬藩内に移住したとは限らない
相馬藩外に出るといくら侍の出であり甲冑とか旗印が伝えられても価値がないとなる
そこに原発事故がいかに歴史を断つような過酷なものとなったかを知るのである
他でもこの土地に生きた歴史を消失しているだろう、家も一つの歴史を語るからである
でもその土地から離れた時価値がなくなる
日本人は土地の一体感が強いからそうなる、土地とアイディンティティ化しているからそうなる、それが文化でも作ってきたからである
先祖を大事にするというときその土地の先祖なのである、他の村とかの先祖ではないのである

●外国人の姓

でも大陸の遊牧民とかなると土地とは余り関係ない、一定の土地に定着しないからであるそれで姓はあくまでも血縁であり氏である、土地に由来しないのである
ロシアでウラジミールプーチンとか言うけどウラジミールという姓の人が多くいて一族だということがわかる、つまり名前は多様でも姓は限られているとなる
それは韓国でも中国でも例えば李という姓があるとすると大勢の李氏がいる
韓国では李朝鮮ともなっていて李一族が国家にもなっていたのである
中国でもいろいろ姓があっても限られている、中国は農耕民だとしても日本とは違いやはり大陸文化を受け継いでいるから姓は村の地名にはならないのである

Влади мир 「世界を征服せよ!」ですかね。
ウラジスラヴァという名前もあり、そちらは「名誉を征せよ!」ですね。
都市のウラジオストクは「東方を征服せよ!」という意味です。

やはり大陸的だとなる、常に大陸では征服せよになるからだ、まさにプーチンがそうである、征服せよとしてウクライナに侵攻したからである
大陸だと姓を見れば一族となりつながりがあるとなる、
そして外国人と結婚すると夫婦別姓になることが認められている、姓はそのままなのである、つまり姓とは歴史であり系統をたどるものなのである、名前にはそういうことがないのである、外国人の姓になったら日本とは別な姓に属することになりその国の歴史として組み込まれることにもなるからである
だから在日朝鮮人だと李とか多いがこれは韓国が一時李朝鮮となっていたことでもわかるし中国でもいろいろな国が群居していてその国の名が姓になっていることでもわかる

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相馬氏成田の武内(竹内)は墓も夫婦別姓である
武内と岸と記されている
江戸時代まで夫婦別姓だった、農民には姓がなかった
ここで嫁いできても実家の姓を残したのはやはり侍の出だったからだろう
姓はその家が有力な家だったら嫁ぎ先でもその姓が伝えられた

●片倉村の由来

片倉村は片倉辺の神が長野県の方で有名である、するとその神を奉じた人たちが相馬氏が来る前に土着していたのか、片倉という地名と大田という地名も相馬氏が来る前にあったとなる、他にも片倉という地名はありやはり神の名として残したのかもしれない
必ず人が移動するとともに神も移動するからである

南相馬市片倉村の由来
http://musubu.sblo.jp/article/48048119.html


片倉財閥の片倉家と北海道開拓を担った伊達藩白石城主の片倉氏の関係をネットで調べると《絹の道を往く 八王子編 Vol.6》に、両者の先祖は「諏訪湖で繋がっていた」と記述されていました。
http://hibinokizuki0126.livedoor.blog/archives/6340337.html

やはり2つの片倉は同一の先祖だったのです。実際に、現在の住所の伊那市高遠町藤沢に「片倉」という集落が存在していたといいます。諏訪大社上社本宮の裏手の神体山である守屋山の麓です。

また、伊達藩白石城主の片倉氏の家祖として「片倉辺命(かたくらべのみこと)」がウィキペディアに記されていました。「諏訪氏系図.続編」においては片倉氏の祖神といいます



posted by 天華 at 09:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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