2022年06月30日

流動性知能と結晶性知能 (老人は経験でも知識でも結晶してゆく―万物の霊長としての人間)


流動性知能と結晶性知能

(老人は経験でも知識でも結晶してゆく―万物の霊長としての人間)

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この言葉がいい、結晶してゆくとはこれまでの経験知識でもまるで原子が多様に結合するように明確になりまさに結晶してゆく
そればどうしても若い時はできない、自分自身でも不思議に思えるのは本が千冊あったとしてもそれを読んでも忘れていた、でもその本の内容を深く理解して自分の文脈の中で解説したり表現できるようになった
洞察力とか考察力とかがついてきて何事深く理解できるようになった
それでそうして集めた本を読み直して引用できる
ただ本を集めただけだともなるがそれも無駄だとはならなかった
本とはその人の一生とかを語るものがある、なぜなら最近読み直した本の著者すでに死んでいる人が多くなっているからだ

となるとこの世に残した物は本でありそこにその人の人生が凝縮されて結晶したものだともなる、第一もう死んだ人とは直接会えないからだ
そもそも直接会える人は少ない、本を読んだとしてもその著者と逢うことはないからである、でも人間はたちまち死ぬ、すると何を残すのかとなる、その人と逢うことはないし
また生きていた時でもその人を知ることはむずかしい
そして死ぬと何が残るかとなると本とか何か作品だとなる

そもそも知識でも天文学的に膨大でありそのほんの一部しか理解できない
また経験するにしても極わずかしかできない、そこにどうしても偏りが生まれる
専門家でも象牙の塔にこもり何か世間離れしているとか弁護士とかでもむずかしい法律の理論をふりまわして煙にまくとかなる
膨大な天文学的知識がそれぞれ専門家して互いに通じあわなくなっているのも現代であるおそらくヨ−ロッパの中世社会とかだと社会全体があって石の大聖堂がありバッハのパイプオルガンがその大聖堂にひびきわたる、絵画でも部分化したものではなく大聖堂の中で活かされる、社会が一つの有機体としてあり結合していて分離できないものとして一体としてあることで人々は深い連関性をもって生きていた
それが部分化してばらばらになったのが現代である
田舎ですら一万くらいの町でも隣の人が何をしているのかわからないということがある
職業も多岐に分化して広域化してグロ−バル化して互いに意思疎通ができなっている
言葉が通じないという時、バベルの塔と同じである、文明はバベルの塔であり互いに専門家して言葉が通じなくなったともなる
理系とかなると複雑であり文系と分化して互いに意思疎通ができなくなっている

そこでどうしても現代社会は一体感をもつためにナチスのような全体主義、ファシズムになる、共産主義も全体主義として変わらないし人間を一様なものとして見るからである
カルト教団なども全体主義であり個々の人間には関心がない、その人がどんな人なのか
そんなことは考慮しない、どんな人でも一票としてかカウントしない、様々な属性は無視されるのである、一人の人間でも様々な属性がある、単純なものでは男女でもそうである男という属性があり女という属性がありそれは相当に違っている
でも一票にしたら同じ一票だとなってしまうのである
つまり民主主義自体が人間を統計的数字としてみているのでありその人の持っている属性など関係ない、一人の人間のもっている属性は多様でもそれは無視される
地域の属性も大きな属性であり、どこに生まれ住んでいるかでその人か基本的に形成されるからである、年齢の属性もある、世代間でも考え方は違ってくる

ともかく老人になるとこれまで蓄積した知識であれ経験であれ結晶して来る
一見無駄に思えた雑学的知識でも深く理解して結晶してゆく
知識とは膨大だから個々人によって貯えた知識も違っているのである
それが最後にその人なりのものとして結晶する、ただカルト教団とか組織団体でも会社でも社蓄とかなっているとそれはその人なり知識とならず知恵とならず表現ともならないとなる、共産党でも個々人は細胞という、創価でももうそこには個人としての生はない
だから全体主義は違っているようで同じ性質があり似通っているのである
マルクス主義も全体主義だからである、個々の人間はみない、経済人間としてしか見ないからである、政治化すれば人間は一票としか見ない、政治的価値はどんな人でも特別優れた人でも天才でもなんでも一票で同じなのである
どっちにしろ巨大組織集団になれば人は番号化されて数がすべてとなる
それぞれが持っている属性は無視されるのである

それでどうししても人間が万物の霊長となるときただ数字化されるときその存在感はなくなる、数字は番号化すれば様々な人間の属性は無視されて消失する
人間が万物の霊長となるには自然とアイディンティティ化する存在だということである
山があれば山とアイディンティティ化する、山のように沈黙するとか石のように沈黙するとかなる、自然を擬人化することにもなる、それはエジプト文明では動物が人間化していたことでもわかる、それは偶像崇拝にもなったが人間の顔が動物となっていた
原始人のトーテムでもそうである、動物と人間が一体化したのである
現代人はもう機械と一体化してロボットにもなる、そこに動物との交流がなくなり同じ生物として通じるものもなくなる

人間がアイディンティティ化するときどうしても狭い範囲になる、その常時住んでいる場所でありそこで自然と一体化する、土着して一体化する
第一狭い範囲でもその土地のことを知るのはむずかしい、それだけ狭い地域でも多様であり複雑だからである、そこにまだ発見されない神秘的領域がある
それは依然として隠されているのである
東京のような大都会ではすでに生態系とか自然を意識できない、ビルの谷間で蟻のようになり人間はただ数としてあり巨大な人工的空間で万物の霊長などはもうない、万物というとき植物でも動物でも自然と一体化した人間のことだからである
大都会では何とアイディンティティ化するのかすべて経済人間であり宗教でも自然とは無関係である、ただ数を集めて誇示するだけである
人間は図形的に□か○でしかない、その他の多様な万物の霊長としての属性ははく奪されてロボットのようにされるのである
そこにめいめいの顔もない、同じロボットの顔しかない、カルト教団になればその教祖とみな同じ顔になる、そして異様なカルト教団の教祖が獣の印を押すのである

それで不思議なのはエジプト文明である、なぜピラミッドのような幾何学的精巧なものを作りあげたのに動物と一体化したアニミズム的文明だったのかとなる
まさに動物とも一体化していた、動物をみて神とみてその性質から神と崇めたのである
それは偶像崇拝であってもやはりそこに自然と通じて万物の霊長としての人間があったとなる、鷺について詩を書いたが鷺を見ていると本当に不思議である、それはまさに自然と合一してある、自然を決して乱さず忍び足で細い脚で歩む、それは絶妙であり自然と一体化するのである、人間はこのように一体化しない、そこに道具とか機械とかが介在して
自然と融合しないのである、車という物体が社会を席巻していてもそれが自然と合一したものではない、自転車だと風を受けて走るから自然と融合するのである
車だと風をさえぎり光でもさえぎり自然を遮断するのである

なぜ現代文明から大都会などからカルト教団とか異様なものが生まれるのか?

それは自然と遊離してアイディンティティ化するものを失っているからである
そこでは人間は数としてしか機能しない、見れないのである
それでシュペングラーの西欧の没落が数の考察から始まっていることでもわかる
経済人間となればこれも人間の社会の数字化でありあらゆことが数字化なのである
放射線被害でもコロナウィルスでも数字化されるて見る、経済でも常に数字で見る
でも一個のリンゴがあるとしてその性質がありそれはただ一個ということではないのである、いろいろなものを数として表現するときその属性は失われるのである
果物でも野菜でもそうだがみんな違った性質がありそれで意味をもっている
ただ数として表現すればその性質は失われるのである

20世紀は全体主義の時代だった、全体主義とは価値の平均化であり組織化集団化して
人間の属性を無視して一様化することである、そして数字化することである
そうして共産主義でも一千万人とか粛清して殺されたとかなる時代だった
ナチスはまさに人間を人間と見ない、数としてしか見ない、個々に対することがあれば例え相手を軽蔑したりけなしたりしてもやはり相手は人間として認めてそうしている
でもナチスとなると相手は人間ではない、一つの物のようにしか見ないのである
無機的存在となりただ数としてしか数えられないのである
現代で数学が最重要なものとなり統計が重要となるのはそのためである
理系が優先されるのもそうである、もちろん文系は勉強もしないから当然だとはなる
でも理系優先すぎるというか科学技術がすべてとなった世界は問題がある
また経済としてしか人間をみない、グロ−バル化すると毎日の関心は株とかしかない
それも数字でありグラフでありそこに多様な属性をもった人間はいないのである
金が数字となり計られる世界である、そしてもうグロ−バルになると計りえない世界でありそれが陰謀論になるのである

経済的グロ−バル化の次は個々の国であれ地域であれ人間であれ文化を基にしたものとなる
文化とはグロ−バル化のように数値化して計る経済とは違う価値観である
数字化できないのが文化である、固有の文化である、物量の価値ではなく質の価値であるそれは地域地域の価値でもある、それは数字化して一様化できないのである
文化の時代になるとき固有の価値がそれぞれの地域で国で華開くとなる
フランス料理、中華料理、日本料理がある
でもアメリカ料理とかイギリス料理は貧弱である、量の料理にもなる、
こうした文化もアメリカに戦争に負けた時食まで一様化された
ハンバーグなどは料理ではない、でもその味にならされて一様化したのである
ロシアでもマグドナルドがあり味まで一様化したのがアメリカのグロ−バル化だったのである,グロ−バル化とは経済優先でありそこに個々の文化の否定があった

肉食はもともと日本では希薄だった、漁労民族だからである、でもそれもグロ−バル化して肉食化したのである、それで欧米人は肉を消化する酵素が出るということで肉食に体も適応して作られてきた、日本では漁労民族であり魚主体の米が主食の文化だったのであるそれで腸が長くなった、これもやはり人間はその土地と一体化するアイディンティティ化するから体もその土地の成分で作られるともなっていた
そういうことを外来文化で破壊された、本居宣長は唐心と大和心がありそれを分けたそして日本の精神を言葉から探求した
グロ−バル化でかえって日本の文化は見失われた、だから日本の文化の根源が言葉にもあるというときそこを見直すことが日本文化の再生、ルネサンスになるのである
万物の霊長としての多様な属性の中に生きることで人間回復する
これは組織集団ではできない、そこでは一人の人間は相手にしない、数としてしか見ない結局一票としか見ないとなる、どんな人でも一票だからはそれぞれの属性ははく奪されて抽象的存在となる、それで民主主義から多数決からナチスが生まれたことでもわかる
多数こそ正義であり力でありあらゆる多様な人間の属性ははく奪されてロボット化されるのである





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