2022年06月27日

組織集団化して平等にできない人間 (創価でも共産党でも個々の人間の運命カルマを無視して失敗)


組織集団化して平等にできない人間

(創価でも共産党でも個々の人間の運命カルマを無視して失敗)

●創価とカルト教団とは何なのか

日曜討論でNHK党の黒川氏が統一教会とか創価とかをあからさまに批判したことは驚きだった、そもそもNHK党などをNHKの場に呼んだこと自体驚きだったとなる
そこで確かに公正になっていた、でも司会者はその発言を懸命にとめていた
そこにいた議員も唖然としていたかもしれない、NHKでそんな人を呼ばないからである
黒川氏とかはyoutubeでなじみでありまた参政党でも武田邦彦氏がシンパになっているのでそういう政党なのか理解した
それはインタ−ネットがすでに架空のものではなく現実社会化していることなのであるすると自分でもそうだが浮動票が過激な党にも流れてゆく
そして浮動票が6割があるということの驚きである、その人たちの票が流れれば政治も変化する、NHK党がNHKに出たことでその影響は大きいのである
裏にあったものが表に出てきて現実社会を変えてゆくようになる

そもそもカルト教団とは何なのか?

それは本来の宗教とはまるで違ったものでありおそらく現代文明の混沌から生れたものでありナチスと似たものにもなる、何かそこでばらばらになったアトム化した人間が一体か感をもつものとして生まれたからだ
創価でも団地の宗教として相互扶助機能として生まれた、そうしたものが小規模なら問題はなかったのである、団地の宗教として小規模なら問題なかったのだが巨大化してナチスのようになったことで日本全体に影響するようになったのである
ナチスも現代文明の病的なものが現れた結果だとしてピカートが説いた
それと同じようにカルト宗教団体も本来の宗教とは違う、なぜなら本来の宗教はすべて自然と密着して生まれたからである、その宗祖を見ればわかる、キリストであれシャカであれモハメッドであれ大都会からではなく田舎からまた岩窟で悟りを開いたりモーゼのように砂漠のシナイ山で神と出合い啓示を受けたからである

団地の宗教とかはありえないのである、まず東京とかの大都会とはそもそも宗教とは無縁である、高層ビルを見上げて人間はもう卑小化してロボットのようになっているからだ
山伏などは何か胡散臭いものとみているが山を聖なるものとして修行したのだから六根清浄を山で心を浄化しようとしたのだからこっちの方が宗教的だったのである
天台宗とはそもそも中国でも山岳宗教なのである、ところが現代のカルト宗教団体はそうした六根清浄などは求めない、極めて政治的であり経済的であり社会的であり人間の心の問題とは関係しないのである、創価は極端であり眼中にあるのは一票をとることとそして権力と密着して利益を得ることしかない、みんな政治的野心があり経済的野心がありそういう人達が入ってくる、どんな欲望も是認される、むしろ奨励されるのである
もっと欲を出せそして祈ってかなえろしかないのである
煩悩即菩提となり煩悩でも欲があってこそ菩提になるとなる

いづれにしろ理論などどうでもいいのである、目前の欲を達成することが目的である
それは文明病ともいえるものから生まれたものである
ニーチェなどでも異常と見えるが自然の中で人間のアイディンティティを求め偉大なものを求めた、ニーチェが批判した大衆こそが現代人なのである
それはカルト教団に象徴的に現れてナチスとも共通していたとなる

●人間を平等にできないー創価とか共産党の思想

この世には底辺層が常にいる、富裕層と下層階級が常にいる、その不平等がどこからきているのか?
これも不可解なのである、人間を平等にすることは人間の歴史で達成しなかった
マルクス主義でもそうである、平等を目指したが結果的にはソ連でも中国でも結果的にはとんでもない格差社会になった、共産党の書記はまるでエジプトのファラオのように神のようにされて葬られた、中国では共産党幹部が兆の金を得るまでになった
つまり平等を目指してかえって不平等になったのである

なぜ人間社会に不平等があるのか?

それが不可解なのである、自分自身を例にとっても本当に不可解なのである
自分の父親違いの兄は自分の家に来ても不幸だった、愛されることもなかった
母親は後妻であったからだ、そして集団就職して40才で交通事故で死んだのである
家族ですら兄弟でも不公平があり恵まれる人は恵まれる、これは何なのだろうかとなる
つまり社会に不平等があるのではない同じ家族でも不平等があるのだ
兄弟間でも不平等がある、それで親の介護になるとお前は親に良くされたのだからお前は介護しろと言われるのである、それは自分自身がそうだった、自分は特別親に良くされたから結局これまで書いてきたように自分自身が病気にもなり二人の親の介護で四苦八苦して死ぬような苦しみになった、つくづくこれも楽した結果としてのカルマだったのである
だから不平等というとき人間がもってうまれた運命論になってしまう
インドではそうなった、人間は家族でも不平等なのだから社会自体も不平等なのである

なぜではそうなっているのか?

それはもってうまれついた宿命論にカルマ論になる

カースト制が根強くインドに残っているのはそのためである
そこに運命の不可解があるからた

それを理解したのが猫を飼っていた、その猫はなついていた、その猫がいるとき外から餌をねらって別な猫が入って餌を奪っていた、でも私はその野良猫をはたいたりして追い払っていた、でもなついた猫は死んだ、すると追い払っていた猫にこれもかわいいとか餌をやるようになったのである
人間の運命の不思議は誰かが死ぬと誰かに恩恵があるということである
私の父親違いの兄は私の母親の父が事故で死んだのである
だから後妻に入って私が生まれたのである、私は父親にも愛されたが兄は愛されなかったそして40才で交通事故で死んだのである、その経過はその本人にも問題があった
離婚したとか借金したとかいろいろあってそうなったからだ
ただ運命の不可解はこのように誰かが死ぬと誰かが恩恵があることなのだ

その女性は不運であり離婚を二回している、でも親しい男性がいてその男性の妻が死んだ結果としてその男性の所に通い助けられるということにもなった
もともと離婚して相手は何か病気になったときも助けることがなかったとかある
その時その男性が助けたということで恩を感じている
ただこうなったのもその男性の妻が死んだことによるのである
これも猫の運命と似ているのてある、ここに運命の変遷がある
私の所にもその女性が来るようになったのは親が死んだからだともなるからだ
だから運命とは一様ではないし不可解なのである

●人間の運命の不可解

それで共産主義であれ創価などのカルト教団でも不幸な人が比較的入るのだがそれで集団指揮組織的に運命を変えることは無理だともみる
それは悲劇的なことになった、カンボジアでは二百万が死んで骸骨の山になったとか記念館がある、ソビエトでも千万人が粛清されて殺されたとか中国でも共産党の文化大革命で毛沢東の命令で千万人単位が粛清されて殺されたとかある

それはなぜなのか?

人間の個々の運命を不運な人でも平等にしようと無理にしたからではないか?
人間とはそういうものではない、人間の運命は不可解であり一様にできないからではないか?
人間の運命は集団的組織的には変えられない、個々に複雑にからみあっていてみんな平等にはできないからではないか、創価とかでも宗教でも本質的には共産主義と近い
ある都会の住宅地では必ず創価か共産党に入っていてコミニュティを形成する
下層階級として共通だから意外と創価と共産党には似ているのである
そこで票の取り合いとなり争うのである、犬猿の仲にもなる
創価は宗教としてもそれは本来の宗教とは何の関係もない、でも宗教を標榜しているからやっかいなのである、何かというと地獄に落ちると罰当たるとか言うからである
何も経済を良くして貧困者の味方となるというならいいのである
宗教的救いとはまた別だからである、それでも常に宗教的呪縛があり政教分離できないことが問題なのである

すべてを宗教としてみる、信仰からみる、それも御利益が福運があればいいとなる
でも近くでも奨められて貧困家庭で入信したがその息子は若くして病気で死に次に母親も死んだのである、それは何なのかとなる
ただ創価でもどこでもそうして不幸の家は人はいる、現実に自分の父親違いの兄がそうだったからである、創価とかなると本当にそういう人はいくらでもいる
他の人達よりもともと不幸な人が多いのだから当然だとなる
要するに人間の不幸はそうしたカルト教団に入っても共産党とかの政治でも解決しないのであ、人間の運命が不可解だからそうなる

●平等を追求してもかえって不平等を作る

この世から不幸をなくしてみんな幸福にできるのか?

確かに科学技術であれ何であれそういうことは努力してきた歴史がある
でも人間は平等にならないのである、そして人間はある面では平等である
どんなに恵まれてもやはりどこかで苦しむようになっている
私は恵まれたが最後は親の介護で死ぬほどの苦しみを受けた、それもカルマだったとなるどんなに恵まれても何らか必ずカルマを持ちカルマを受けて苦しむのである
そういう点では平等だともなる、恵まれた人でも富裕な人でもそうしたカルマから逃れられないのである、カルマはめぐってくるからである、また恵みもめぐってくるからである金は天下の回りものだというときもそうである
必ず金は一か所にとどまらない性質がある、世界的にみても栄えた国があったとしても衰退して次に栄える国は移るのである、アメリカが繁栄してそれも衰退して次は中国が繁栄するとなる、そういう覇権国はヨ−ロッパでもポルトガルースペインーイギリスとか覇権国が変わって繁栄も移ったとなるからだ

人間の幸福は個々に運はめぐる、恵みはめぐる

悪いカルマもめぐり苦しめる

人間の運命ほど不可解なものはない、恵みはめぐるなのである、だからある地域が豊になるときそこに農業だったら篤農家が優秀な人がいてそれで特産物を作ったりするとそれが地域の他の農家もまねて全体が豊になることがある、そういうことは国全体でも言える
幸福とか富とか運でもめぐりめぐっている、逆に不思議なのことは誰かの不運が誰かの幸運になっている、誰かが死んで必ずそれで利する人もいるのである
それが猫とか人間関係にあった、確かに誰かが死ぬということは不運でありいいことではない、ても確かに誰かが死ぬと誰かが得して他者の運命も変わってゆくことがある
そもそも誰かの不幸が誰かの幸福にもなる
ギャンブルだと誰かが得すれば誰かが損する、宝くじでも同じである、なぜそうなっいるのか不可解なのである
また逆に誰かの不幸が回り回って自分の不幸になったり誰かの悪いカルマが自分に回ってきて苦しむ、悪いカルマも回り回ってゆくのである
それを介護になり嫌というほど経験した、なんでこんなに苦しめられるのかと考えたがそれも悪い他者のカルマが回ってきたからだと思った

何か殺人とかでもある人が被害にあうのはなぜなのか、全くの偶然なのかとなるとそうでもない、何か因縁があり他人の悪いカルマが回って来たのである
まず人間は一生を見れば楽に終わる人などいない、どこかで苦しむようにできている
意外と長く人生でも苦しんできた人でも最後は楽だったとかなりまた長く楽だった人が最後になって塗炭の苦しみにあうとかある、最後まで人間は楽に終わらないのである
人間のカルマは罪障というかそれは必ず現れる
ただ誤解するのはこうしたカルマとか罪障を組織して集団では解消できないのである
なぜならそのカルマとか幸運とか富は個々に回ってゆくからである
確かに国単位でもカルマがありカルマは回ってゆく、でも基本的にカルマというとき個々に回るものであり集団組織化して解消しないのである

組織化集団化して解消するときかえってそれが不平等になり全体主義が共産主義でもカルト教団でも宗教でも悲惨なことになった、かえって無理に平等にするために千万人とか粛清されて殺されたからである、それは何か人間の運命を人為的に人工的に機械的にでも解決しようとして失敗したともなる
それは人間についての考察が間違った結果ともみる、ただ極端な不平等は何らか社会全体を歪める、またそういう大金持ちはそのために莫大なカルマを持ち自滅するように思えるアメリカが衰退するのもそうである、どうしても極端な格差となり国自体維持できなくなり分裂して衰退する運命ともみる、富は今度は中国に回っているのかともみる
戦後は高度成長が日本がにあって日本に回ってきたのである
それもまた日本が貧困化して衰退しているのはやはりそうなったのは金は天下の回りもの富は恵みはめぐるだからだともみる

●神の選別も不平等である

そしてカルト教団などは

『また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。』(黙示録13:16-18)

たれがあてはまる、それだけではない人類はこのように二種類に分けられるのかもしれない、そして終末に最後の日にそれが実行される
獣の印を押された人達はカルト教団員でありまた多数の人達である
現実にそこにサタンがいて教祖がいてそれがその獣の印を押すのである
なぜならナチスでもそうだったがヒットラーがいてそのロボットとなるからである
創価でも池田大作がそのサタンでありまたオウムだと麻原だったりする、それは悪魔の化身だともなるからだ、その悪魔が獣の印を押すのである
人間は必ず偶像崇拝になる、どうしても目に見えるものが神となる
特に人間が神になりやすいのである、偶像になりやすいのである、それを神は妬む神として一番嫌ったのである、宗教の基は偶像崇拝の拒否になったからである
それは聖書を読めばそれがテーマでありイスラム教となるとそれが極端化したのである

とにかく世の中はすでにそうして天国に神の国を造る人とそうではない人ととに分かたれているともなる
なぜある人が神に選ばれてある人は選ばれないのか、それも不平等なのである
ただ選ばれる人は必ずしも優れた人ではないことは確かである
この世には天才とか心身ともに優れた人がいる、でもそういう人が神に選ばれない
「心の貧しい人」が神に選ばれたのである、心の貧しい人とは経済的に貧しいというのではなく常に足りないもの心に足りないものを感じている人なのである
それはまさしく自分でもあった、何か身体的にも弱いし能力も多少はあったとしても自分にはなかった、だからなぜそんな人を神が選ぶのかとなるき奇異だとなったのである

とにかく人間の運命を全員を平等にすることは不可能である、これだけは確かである
だからこそカルト教団であれ共産主義であれ人間の運命をどう見るかでそういう思想が生まれた、ただ宗教は平等を目指さないということではない、宗教の目指しているのものが世俗的な経済的な平等ではないことなのである
いづれにしろ宗教と政治は世俗的なものとは一体化できないのである

要するに創価でも共産党でも似ている、革命が達成したら権力と富を得ることになる
それも幹部なら中国のように巨万の富を手に入る
創価でも幹部になればそうなる、それを目指して運動しているからである
その最大の運動が選挙になっているからである
一票は権力に結びつきそこで御利益を得ることになるからだ、また政治権力を得れば御利益として福運として配分できるからである
大臣にもなれるからである、ただそれはあくまでも幹部だけなのである
下々の党員であれそういうことはないのである

事実私の叔父にあたる人は共産党員だったが赤旗を配達していたがその給料はわずかだった、ただ働きと同じだった、それも細々と生活していた、乞食に近い生活でもあった
これと創価でも似ているのである、貧困層がいても幹部が身銭を切って助けることはない金を出すことはない、ただ貧困層を利用して幹部になれば金も地位も女も手に入るとなるその見本が公明党の議員が逮捕されたことでもわかる
あの人がまさに御利益と福運を身に着けた創価の模範として推奨されるものだったのである、それはその団体組織の体質があり必然的に生まれたのである
こうしてそもそも人間を平等にすることはできないのである
平等にするというのは人間を単純にみる、数字のように見ているからでる
実際は人間は余りにも複雑でありだからこそ運命論になってしまうのである
宿命転換を説いてもそれを組織的に集団的にはできない、だからこそ共産主義革命はかえって大きな不平等が産んだことでも実証しているのである

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