2022年06月19日

夏の朝のと俳句十句ー浜通りの場のエナジー(詩)



夏の朝のと俳句十句ー浜通りの場のエナジー(詩)


草深く老鶯鳴きて影深し

一本の木の影深し今日も行く

夏の海燕飛交う朝の海

海よりの風のそよぎて立葵

海へ行く道真っすぐや立葵

海岸や朝波ひびき都草

夏燕風車の回り朝の海

黄菖蒲や六号線を走る朝

釣り人に波の飛沫や夏の海

広がりぬクローバーの野夏雲雀

海近し浜昼顔を見つけけり

風涼し広き二階や我が家なり

雷鳴りぬ海に向かって浜通り

老鶯と夏鶯では感覚的に相当違う、老鶯と俳号にしたがそのあとは天華にしたのである


浜通りの場のエナジー

今日も愛用のヤマハのYPJ-XCで走った
真っすぐな道を海に向かって
スピード出す、夏雲雀がさえずる
今日も浪は轟き寄せて荒々しい
その波の音に合わせて夏雲雀が
一心にさえづる声がひびき高鳴る
気持良くこの辺でぱ東風(こち)が吹きそよぐ
大平洋から吹きそよぐ風
その風は涼しく心地良い
浜通りは南国的である
マルハシャリンバイの南限の地として知られ
スダシイ神社もある
これは沖縄の山原に自生して育っている
なぜかここには綿津見神社が多い
それは海の民の安曇氏の末裔が来た証拠
海に面して桜井古墳がある
そして鹿島区の寺内の古墳地帯から
十人ほど乗れる船の線刻画が発見された
マルハシャリンバイは奄美大島から種がながれついた
海とかかわり海人がやってきた地帯
そして巨大な津波が港の村を呑みこんだ
村は海にのまれ人々をさらった
いくつかの村は跡形もなく消滅した
そうして死んだ人達の霊が海に浮かぶのか
八沢浦はもともと入江であり海だった
津波で入江にもどり朝の光りに
きらきらと光り穏やかな入江の波が寄せた
まにで奇跡のように縄文の海が再現した
烏崎の方の船着に津波はおしよせた
そこは船が寄り市庭という地名があり
人々は交易した場所であった
そして江戸時代からあった右田の松原は一瞬で消失した
その幹は太く根を下ろしていたと見えたが
松原は自然の多様な森ではなかった
根こそぎ松は津波に流された
ここは太古から海と深くかかわる地帯
漁に出た船が帰ってくる
太平洋から東風が吹きそよぐ
山から吹く北風西風とは違う
広大な太平洋洋から吹きそよぐ風
常に荒々しく太平洋の波はひびき打ちつけ
津波の空恐ろしい記憶がここに刻まれた
それは百年二百年後も消えないだろう
人の力、人智を越えたものが大海にある
その底知れぬ世界が海にある大地にもまだある
そこに巨きなものを養うものがある
フタバスズキリュウがその姿を現して消えた海
サンゴの化石が山の方に発見された土地
千葉県から熱帯魚を追ってやってきた若者
浪立海岸に浪がしぶきあがり彼方の沖を船が行く
鴎が飛んできて鵜が飛んできて川をさかのぼる
今日も波はひびき荒々しく打ちひびき高鳴る


浜通りというとき海と切り離せずある、暑い時は必ず海に向かう、すると海からの涼しい東風が吹くのである、前は右田の松原があったが今は風車が回っている
その風景は余りに変わってしまったのである
ただ土手の道がサイクリングロードとして舗装されたので気持ち良く走れる
まず福島県となったら広い、浜通りとなったら中通りでも会津でも違った風土なのである中通りからは海が見えない、浜通りからは阿武隈高原でさえぎられて吾妻嶺は見えない
すると地理的風土的一体感がないのである、何か見えないということは人間にとって視界にないので認識できなくなる

それで不思議なのは物があり余って扉のある棚にしまっている、するとそこに何があるのか忘れるのである、認識できなくなるのである
そしてそこにあることを忘れるのである、これと同じで常に視界にあり見えるものは認識しやすいが見えないと忘れて認識できなくなる
そのことで津波では津波が襲って見えて来てから車であれ歩くことであれ見えてから逃げた人が結構多いのである、いろいろな人から話を聞くとそうなのである
つまり津波は見えてからでも逃げれば助かったともなる
八沢浦など海がすぐ近くだけど津波が来てから見えたので裏山にすぐに逃げて助かった人もいる、だから人間にとって見えることは大事なのである
津浪でも前に家が建て混んでいると見えないから逃げないということもあったのだ

ともかく浜通りは海と切り離せずある、日本も海に囲まれいるのだから海と切り離せずある、でも中通りでも特に会津とかなると山に囲まれた世界であり風土だからそこに住む人の意識は相当に違ってくる、山から太陽が昇り山に沈むという感覚が浜通りからするとわからないとなる、常に海から太陽が昇ってくるから一日は海から始まる
海から東風が吹いてきて涼しいのである、山に囲まれていれば山から風も吹いてくる
その相違は相当に感覚的に違ったものになる
そして浜通りからは高い山が見えない、阿武隈山脈はあくまでも高原のようなものであり山とという感じはしない、ただ飯館村になると標高が高く夏でも涼しいとなる
だから軽井沢のようにもなる

ハマ、ナカ、アイヅで福島県は風土的に分けられる

いづれにしろある土地のことは一年くらい住んでみないとわからない、つまり日本海とか会津とかだと雪に埋もれた冬を住んでみないと理解できないのである
それは外国でも同じである、日本だったら四季の変化が激しいから一年住んでみないとその風土でも文化でも理解できない、何故なら俳句の季語を理解するには一年日本に住んでみないとわからないからである、これは外国でも同じなのである
そこで文化を理解するのはむずかしいのである、その土地の風土と密接に結びついて文化があるからだ、それげオープンカーがヨ−ロッパで普及したのは風土の関係だったのである、陽射しは弱い地域だから日光浴にもなるのでオープンカーが普及したとなる
技術でも風土と関係しているのてある
基本的に風土とか地理から文化が作られるからそこをわからないと政治でも文化でも何でも理解できないとなる

木にしてもどうも大陸だと太い大きな木が育ちやすい、だから建築材として使いやすいとなる、松などがそうである、外国の松は太いし大きいから日本の松とは違っている
ただ北海道のトド松とか蝦夷松は松の部類に入っていないから利用していなとなる
日本の森と外国の森の相違を書いただ森とあっても同じ森ではない、その内容が相当に違っているのである、どこまでも平坦な地に森が覆っている大陸と日本の森は相当に違っているのである

浜通りは津波がありそのことでまた福島県でも中通りとかは会津とは違っていた
むしろ宮城県から岩手県でも海とのつながりがあり海と一体化していたのである
だからもっと海とのつながりを知るべきだったとなる
なぜなら津波は相馬地域には来ないとしていたが実際は慶長津波で700人溺死という記録があったそれは忘れ去られていた、でも宮城県から三陸岩手県では明治に一万人死んだ
津波があったのだから身近だったのである
つまり海岸線は津波が来るのである、周期的に大きな津波が来る場所だったのである

そしてなぜ相馬藩地域に特に南相馬市の原町区に異常に綿津見神社が多いのか?
これは海人族の安曇族の一団が海から入植してしきたからだとなる
そして飯館村に入り焼畑農業を伝えたのである、綿津見神社と山津見神社が対になっているからである、それはまさに海があるからこそであった
そして真野の草原の万葉集の歌は南相馬市の鹿島区が大和王権の境界となっていた
それは風土的地理的境界であったことを考察して書いてきた
海老浜の車輪梅が南限の地であるということでもそうである、そういう風土だったのである
フタバスズキリュウとか鹿島区の真野川の上流の山間からサンゴの化石などが発見されたのもそのためである、南国的風土でもあったのである

現実に千葉県から熱帯魚を追って波立海岸まで来ていた人がいたのである
それは小さなものでも気候的にいわき市辺りはあたたかい黒潮が流れる地域だからともなる、親潮と黒潮の境目だともなる
だからこそ海人族の安曇族が船で来たとかになる、どうも千葉県にも安曇族の跡が残されているからそこから移住してきたとなる、それは海伝いに来たとなるのである
それだけ海とのつながりがあるのが浜通りだとなる

今日も暑い、でもここは海の方に行くと海からの風で涼しいのである
それで右田浜の松原があったときはそこで涼んでいたのである
でもそれはなくなった、また松の苗を植えたが風車もあり風景がまるで変ってしまったのであ
私の二階は広いから涼しい風が入る、これはクーラーの風よりいい、天然の風だからである、でもさらに暑くなるとクーラーになってしまう、耐えられなくなる
でもやはり海からの風は天然のクーラーだとこの辺ではなるのである
そして今神鳴りが鳴った、やはり本格的な夏が到来したとなる

雷鳴りぬ海に向かって浜通り


oldship111.jpg
寺内の古墳から発見された
十人乗りくらいの船なのである
だから結構大きな船を操作した一団がいたとなる
それは海人族の安曇族でありその後継者だったとなる



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