2022年06月11日

今回の地震で被害が多かった石の倉のこと


今回の地震で被害が多かった石の倉のこと(蔵の物語)

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相馬市の大きな蔵の倉庫

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木の蔵と石の倉が並んでいる
木の蔵が古く石の蔵が新しいとなる
木の蔵は写真映りが悪くどういう状態だったかわからなくなっている
風邪が落ちたのか・ちょっとわからなくなっている


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ここは小高の城の近くである




石倉町

戦国時代頃からある地名である。江戸時代に入ると「内藤分」という地名になった。内藤分村ははじめ総社藩領、寛永10年に高崎藩領、元禄8年からは前橋藩領だった。

文字通り石積みの蔵である“石の蔵”には、 大谷石とともに歩んできた秘められた歴史があります。

大谷石は宇都宮市西部に位置する大谷町付近で産出される緑色凝灰岩のことです。すでに古墳時代の石室などにその利用が見られ、近世に入ると宇都宮城の改修に大量の大谷石が使われるなど、大谷石は古来よりこの地の人々の生活とともにありました。

大谷石の名声を決定的にしたのは、大正元年(1912年)に完成した巨匠、フランク・ロイド・ライトの設計による旧帝国ホテルでした。この名建築は関東大震災にも大きな被害を受けず、優れた耐火性が実証されました。

こうしたことから大谷石は蔵の建材としても使われることとなり、宇都宮の町並みには、大小さまざまな大谷石の蔵がとけ込んでいます。

そうした蔵のひとつとして、この東塙田の蔵はありました。65年ほど前に建てられたこの蔵は、砂糖や小麦粉などの食品原材料の業務用倉庫として長い月日にわたり、その役割を担ってきました。しかし、その後、倉庫が郊外に新設され、役目を終えた蔵はひっそりと休息の時を刻んでいました。


谷石の構造物が広く普及するのは、江戸時代になってからであり、最も多く用いられたのは蔵である。宇都宮市周辺地域における蔵の変遷は、大雑把にいえば板蔵から大谷石蔵である。板倉は太い木材を柱や梁として用い、柱と柱との間の壁は板材を用い、屋根は茅葺ないしは板葺きである。ところが板倉は、すこぶる火災に弱い。そこで、宇都宮市近辺では、防火性の高い大谷石蔵が建てられるようになったのである。

明治期になると大谷石の運搬が発展し、それとともに大谷石の利用目的が広がり、利用範囲も飛躍に拡大した。まず、明治初期に馬車が使われるようになり、従来、大谷石運搬の主役だった馬の背に比べ運搬力が約15倍にも高まった。それまでは厚さ3寸(約9cm)の石が基準であったものが、厚さ5寸(約15cm)のものでも一度に約30本が運搬できるようになった

。大谷石の防火性、および保温・保湿性が改めて高く認識されたからに他ならない。栃木県内に限って言えば、農家の米蔵のみならず、大正期以降は肥料倉庫や米蔵を始め各種倉庫が建造された。それとともに耐震性が求められ、側壁に控え壁(バットレス)を配したものや昭和20年代以降はコンクリート柱枠を支えにした倉庫が作られるようになった。中でも各地の鉄道の駅近くには、こうした大谷石倉庫群が目立つ。大谷石倉庫建築が最盛期に達した時期でもある。



今回のこの辺の大地震で目についたのが石の倉だった、こんなに石の倉があったのかと見た、注目していなかった、石の素材は古代から作られていた、古墳の石室などがあったからだ、石の倉も江戸時代前からもあった、江戸時代からあっても土蔵とか板倉が多かった石の倉が普及したのは明治以降である、それは防火のためである、石の倉だったら火には強いからである

でも石の倉は地震に弱かった、たいがい一部が壊れた、全部が壊れたということはなく石がずれたとかである、それで石の倉が意外と多かったことに気づいたのである
知っている農家だった家でも石の倉があり壊れた、石の倉は米等の保存に使われた

農家では、湿度が管理できる大型の貯蔵庫を用いて、低温(15度)または冷蔵(5度)でお米を保管しています。

何らかこういう役割が石の倉にあった、土蔵の倉より石の倉が効果があったから石の倉が普及した

ここはただの土蔵ではない。文庫蔵と呼ばれるものだろう。一階正面には天袋つきの押入二階にもきちんと押入がある。土台は石積み、二階の小屋組は和小屋とやらで、京間で桁行二間半、梁間は二間、柱は檜で梁は松。窓に嵌まった鉄格子は文化文政の頃のもの。扉は黒い漆喰で塗り固めて縦二メートル、横は七十センチ、その厚さは三十センチだ。壁も同じ厚みがあって、土壁の下地は普通は竹だが、太い木で組まれて棕櫚縄でしばって、その上から何層も漆喰を重ねて塗ってある。その上、屋根は置屋根じゃなく、土居塗りの上に直接瓦葺きをして、大棟ののし瓦は九段積み、鬼瓦は屋号の入った尾州産

ある蔵の物語

これだけこった作りになると見物であり文化財にもなる、竹というとき私の家は土壁でありそれ以後職人がいなくなった、最後の土壁として残った、中味は竹を組んで土壁にするすると竹で組んでいるから地震には強かったのかともみる
ただ現代の家の方が耐震設計で地震には強いのである
家というときこうして物理的とか構造物とかその材料とかが問題になる、建築の歴史をみればヨ−ロッパは石の文化でありあとは煉瓦である、だから石の城であり石の建築物が基本としてある、第一大聖堂にしても石だからである、あれだけの石の大聖堂になると圧巻になる、その石の聖堂を作る人達が結社となりフリーメーソンとかなったという歴史がある、それだけ石工は特異な技術集団であり力をもっていたのである

蔵とつく名前

これだけ蔵とつく名前が多いことは蔵は生活に欠かせないものとしてあった
喜多方市は蔵の市で知られている、会津は武家の街だったが喜多方は会津の北ということで喜多方になり商人の町として繁栄した、そして蔵が多いのは豊かになったとき競って蔵を建てたからである、だから蔵の街なのである
倉敷とかなるとまさに蔵だらけであり蔵の間の道を行くことになる、そこも商売で栄えたからである、大原美術館などもその栄があって建てられた

ともかく今回の地震ではこの石の倉が一部壊れてこんなに石の倉があったのかと気づいたそして石の倉は地震に弱かったということに気づいた、でもこれだけ地震がある国なのだから石の倉が多かったということはなぜなのだろうともなる
防火性があったとしても地震には弱かった、でも石の倉でも全体が壊れてはいない、一部なのである、だから修復できるのである、家自体も全壊したのはわずかである
地震より火事にそなえるために石の倉にしたのかとなる
今では蔵は喫茶店になったりしている、石の倉でもそうである、そこに何か重厚なものを感じる、黒々とした梁があり喜多方市でそこに入って外に積まれた雪を見ていたのが印象的だったのである、雪国の蔵はまた違ったものとなる

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会津の雪の詩


posted by 老鶯 at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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