人間を作るものは経験である
(農家の女性が草花に詳しい、庭に畑があり広い庭をもっていた)
●冬は増えるの意味ーそれは何故なのか?
人間は何か学校でまず知識を教えられる、でもその知識と現実は結びつかないと抽象的なものとなってしまう、でもどういう家に生まれるかでその家の生業がありそれで身につくものの方が現実的に知識を得ているのである
例えばそもそも芸術とかある、でも芸術がどうして生まれたのか、俳句をみればわかる
その季語とか日本語自体どうして生れたのか?
春は張るから生まれた、万物が張ってゆく状態であり張り田とかがある
夏はなじむ、なつむから来たのかもしれない、夏になれば万物が植物でもなじんでくるとなるからだ、また秋は商う(あきなう)からきた、様々な収穫がありそれを商う季節だとなる
そして不思議なのは冬なのである、冬とは増えるのふゆなのである、それがどうしてのなのか?それを私は知識として知っていた、でも別に知識がない女性が畑で野菜を作っていた冬には一番作物が育つと言っていたのである
それがどうしてなのか、
いろいろなものを[殖ゆ]することを目指す祭りを[ふゆまつり(殖ゆ祭り) ―折口信夫
冬というのが増えるということが納得がいかない、万物が枯れて眠る時だともなるからである、その時になぜ増えるのか?それは冬は増えることを願うからそうなった説である
そもそも冬野菜は、どうして寒い時期に収穫の最盛期を迎えるのでしょうか?
それはルーツが寒い地域にあるからです。例えば大根のルーツは地中海近辺とされ、ネギのルーツは中央アジアとされています。これはどちらも北海道と同等以上の緯度にある地域であり、元々寒い地域で栽培されていた野菜なのですね。
それを日本で育てようとするならば、冬が旬となるのは自明の理です。
また寒い地域をルーツに持つ野菜には、寒さから自分の身を守るために水分を減らして糖分を増していくという特徴があります。
冬野菜がありその冬野菜は寒い所に育つのが多い、とすると冬に育つ野菜も多いから冬となったのか?。いろいろな野菜がとれるのは冬だとなるからだ
ただそれは土壌と関係しても生れた、寒い時期だからこそ育つ増えるからである
その農家の女性は私の家の庭の日影にエビネランと擬宝珠が密着して植えてあった
エビネランが咲かないんだと私が言うと擬宝珠に養分が吸われたためだという
それで離して植えたのである、これは山の中に咲くから日影で木漏れ日がさすような場所がいいのですと言う、そこは塀の下にあり日影になっていたから場所としてはあっていたからまた咲くという、それをめざとく見つけたのには感心したのである
他でも花について詳しいのである
そもそも農家で農業して野菜をでも作っていたのだから花にも詳しいとなる
そして生け花もしていて花嫁修業で生け花を習っていたのである
その人は74才になっているから生け花など花嫁修業として習っていた、その頃までそうして教える場所が結構あったのである
ともかく花がうまく育たないのは土の関係とか肥料とか日の当たり具合だとか水をどうやるかとか問題になる
それで花を植えても半分はだめになっている、要するに花でも大事なのはその花がもともとどういう場所で育ったかが問題になる、日当たりのいい場所なのか日影なのか湿った場所なのか乾燥した場所のなのかとかなる、特に外国産が入ってきているからそうなるとその原産地がわかりにくくなる、つまり風土というのも深く関係しているから植えても育たないとなる、高山植物なら栄養分がいいとかえって咲かない、なぜなちら高山の栄養分の少ない岩場などに咲いているからである
つまりどういう場所が原産地なのか知らねばならないとなる
花を知るには相当なこうして土から肥料から水のやり具合から陽の当たり具合とかめんどうなのである、それで失敗が多いのである
農業の知識と密接に結びついているからである
●知識は学校でも本読んでも身につかない
何かこうして知識というのは学校で習うようにただ現実の世界から離れた抽象的なものとして学ぶとつまらないとなる、知識自体が身に着かないのである
それで外国を知るには何も知らないでも一回でも実地を踏んだ人が知っているのである
それで私は外国旅行をしたのが遅いから失敗したとなる、何か全く通じない変なことを言っていたのである、つまり知識と現実がかけ離れていたのである
これは例えば弁護士とかでも法律の詳しい知識を身につけても現実の社会の場で問題に
直面したときその専門用語などをふりまわしても通じないとまでなる
専門家が現実の社会の場で専門馬鹿とかなるのはそのためなのである
宗教にしても知識として聖書であれ仏典であれ隅から隅までも読んでも理解できない
でも体験すれば一発で理解でることがある
例えば悲しむ者は幸いだというときそれがなぜなのかいくら聖書を読んでも理解することは不可能である、悲しむ体験をしないかぎり不可能なのである
悲しむ経験をすると悲しむ人に通じることがある、その女性は夫の介護を十年以上していた、脳出血でそうなった、自分も介護の経験をしているからその苦労がわかるとなる
でも経験しない人はその苦労がわからないのである、そういうことはいくらでもある
人間は知識が人間を作るとはならない、経験が人間を基本的に作る
だからどういう経験したかを見ればわかる、それで老人は姿は衰えるのだが経験したこがありこの人はこんな経験した人なのだと知り老人は若い人より価値があるともなる
若い人は経験が不足しているから語ることも浅薄だからである
だから老人がみな価値がないものではない、ただその差は大きい、その女性は美人なのである、農家に嫁いだとしてもそこは夫は会社員になっていてまず農業のことを全く知らない、野菜でも花も育てていない、そして関心がないのである
だからつまらない女性だとも見てしまうのである、何か生活感がないのである
芸術にしてもそもそもがそれは実体験を基にしている、小説だっけもともとは実体験が語られたものである、だから特別な経験した人は小説がうまく書けないにしても語ると重みがでてくる、戦争体験しない人が戦争を語っても重みが出ない、それは単なる知識として習得しているからである、仕事にしてもいろいろありその実経験から語ると重みが生まれるのである,切実なものとしてリアルなものとして訴えるのである
俳句でも農民の実生活から生まれたものである、その季語もそういうものが多いからである
農業は密接に自然と関係しているからである、また正岡子規の写生論でもありのまま見たままを俳句にしろというのもそうである
それは架空のことでイメージしたことではないからである、そこにリアルな実感が生まれるからである
その女性はまた津波の経験もしている、その人はやはり津波が来た時見て逃げたのである津浪は見てから逃げて助かった人が結構いるのである
津波が目の前に来て裏山に逃げて助かった人もいたしまた車で逃げて助かった人もいる
だから津波が見えるというときそれはじかに見るから逃げたのである
テレビでも津浪から必死で逃れる人が写っていた、津波が来てから逃げて助かったのである、それも恐ろしい光景だったのである
津浪と言っても私は津波の危険感じなかった、でもすぐ近くの川に津波が溯っておしよせていたのである、それですく近くで堤防から水があふれていたのである
だから知らないだけで津波は身近な恐怖だったのである
●教育は学校だけではできない
島木健作の「地方生活」では都会の知識人が満州で農業にたづさわりただ知識だけの人が現実に直面して知識だけではない現場を体験して知識がどういうものか肌でる、そしてそれは知恵となり本当に知識が身についたと語っている
何かそれでただ知識を語る人はもともと現場で苦労する人から嫌われたのもわかる
それで中国だと知識人は反対するから農村で農業を実習させられて苦労したとなる
それが習近平もそうでありその苦労を語ったりするのである
ホイットマンが讃美したのは知識人ではない、現場で働く多様な人々であった
そういう人達とじかに接して詩にしたのである、それは偉い地位ある人ではない
普通の平民だったのである、ただその時のアメリカ人は素朴な人達であり清教徒の模範のような人達でありその宗教を現実のの場で実践した人達だとしている
それで明治時代にクラークが北海道の札幌農学校で教えた時代はそういう時代でありその雰囲気がちょうど北海道であっていたので成功したとなる
その後のアメリカ人は違った人達になっていたのである
北海道で学んだことはその場の雰囲気が影響したのである
北海道に私が十回も行ったというとき仙台から船で苫小牧についたとき空気まで違っていたからである、その広い空間で解放された気分になる、心まで本当に変わる
日本にはない広大な空間で心が浄められるような経験だったからである
それは今でもそうである、人間は別としてその自然景観が全部が変わっていないからである、外国人で意外と北海道が人気なのもわかるのである
教育というときそもそも学校という場ではできない、不可能である、教育の範囲は広大なのである、私は学校は嫌いだし勉強も嫌いだった、でも大学でてから自由に旅行して地理に興味をもった、地名に興味をもった、そんなことたいしたとではないといっても大学までは勉強しなかったが自ら何でも興味をもつとき本当に自ら知識を積極的に習得するようになるのである、興味をもたないときは試験のために勉強するときは身につかないのである
学問でも宗教とかなる切実な問題から発している、私の場合はなぜ人間は死ぬのだろうと大きな疑問だった、それは中学の時父親が死んだからである、それが最大の衝撃となりそうなった、その問いは結局この世で一番深刻なのものである
その解決がなければあらゆることは虚しいともなってしまう
でもその問い答えられるものがあるかとなればあった、それは死から蘇り永遠の命を与える神だとなの、それを証明したのがキリストだとなる
ただでは聖書とかキリストでも理解するのは実体験からしかできない、学問してもできないのである、悲しむ者が幸いだといろいろ教えがあったとしてもそういう経験をしない限りいくら聖書を読んでも仏典を読んでも無駄だとなるのである
それはかえって害にもなるのである、それで都会人の知識人をインテリを中国の農村で農業させればその苦労がわかるということでそうさせたことはある一面では正しかったとなる、マルクスの理論だけ学んでも解からないからである
いづれにしろその農家で働いた女性には感心した、それは実経験から語っていたからである、だから老人見た眼は悪いがその語ることは奥深く味があるとなる
若い人は見た目はいいのだけど語ることも浅薄であり重みがない、それで老人は人生で様々な経験したとこを語ることで意味があるとなる
ただ全部とは言えない、その人の価値とか老人の価値は多様だからである
地方生活ー島木健作
この本は戦前の庶民の生活ことを書いている、農民中心に書いている
それで北海道のこととか、また満州のことでも書いている
ロシア人を悪くしか見ないが満州にもロシア人が住んでいた、それでロシア人のは生活を楽しむことができる人達だと言っている
そもそもロシア人が満州に住んでいたのかとなる、何かロシアからいいイメージがないのである、シベリア抑留とかいいイメージがない、でもこの本では別な見方をしている
だから人間社会を見るとき多面的多様な見方が必要なのである
その時人々がどういう経験したかでそれぞれの見方も違ってくるからである
これは良書である、こうして過去の本にもいいものが相当ある
今の本ばかりを読んでいてはわからないことがある
これもアマゾンで買えたのである、たまたま買ったともなる
今ならいろいろ奨める人がいる、youtubeでもいる、それで買う本でも増える、それで困るのである、人間の体験も限られているが読む本も限られている
だからくだらない流行の本を読んでいたら時間がとられてこれも時間の無駄になってしまうのである