橲原(じさばら)の山神社から堰を訪ねる
(一之堰としるした江戸時代の碑があった)
立派な石垣がある
一之堰とあり堰が作られた記念の碑である
これは元治であり江戸時代なのである
堰がある、この脇に水路がある
山神社の上野の橋
クリック拡大すると鮮明に見えます
関所に由来するのは温海町の鼠ヶ関と関川(鼠ヶ関川の省略)だけのようで、大部分は堰で用水路のことです。鶴岡市田川の関根は旧村名で、大山川から取水する堰があり、それに由来する堰根です。
(一関はやはり一堰のことー江戸時代からの歴史)
本町の関根も平田町・堰根と同じように堰根です。根は「事のおこるもと。物事の元をなす部分。」(『広辞苑』)ですから、堰が始まる所すなわち堰の取水口になります。
http://koichikato.world.coocan.jp/minpou/minpou2004/minpou2004.11.14/newpage4.html
一関(いちのせき): 岩手県一関市
・ 以下のような説があると言われる。【岩手県庁のサイトより】
(1) 「一ノ堰」から転じたもので、北上川の氾濫をせき止めるための一番目の「堰」をつくったことから
(2) 市内に「一関」「二関」「三関」があり、平泉の関所にちなむ。
(武家)
橲原下総 本氏渡部 文禄二年清丈冊に見ゆ
後孫渡辺氏を称し今中村に居る
島
大塚
只野
寿人 大塚与右ヱ門
99才にして文政12年巳歳 文政12年死す 今の与右ヱ門の祖父なり
野馬追の旗
細入第址
在昔相馬左近及胤公の居所なり、慶長中秀中―忠公に仕ふ、後故ありてこの地に蟄居す
元治三年卒す,歳68才 法□仏性印殿鉄山関公大居士 墓碑は小高山同慶寺にあり
(鹿島町誌)
山岸とあり水無川の上流の橲原(じさばら)に山神社がある、これが意外と立派である
三段くらいに石垣で組まれて高い所に社がある
だからこれだけの石垣を作ることは相当に労力がかかっている
その碑に一之堰と記されている、江戸時代のものである
その上の方に行くと実際に堰がある、そこから水が流れて来る
橲原村は文禄二年清丈冊に見ゆとあり文禄時代に開かれたとなるから古いとなる
ただその前からの村もありここはやはり江戸時代になって開かれたとなる
そこで99才まで生きたとか記されている、これは信じられない、江戸時代でこんなに長生きするとは思えないからだ、戸籍とかの間違いだろう
堰のすぐ下に「屋敷沢」とあり屋敷があったのか?
細入第址がそれなのか、屋敷があり沢があったとなる、何か橲原でも太原ても隠居した人がいたとかそういう場所にふさわしい、
ともかくこの一関はやはり堰を作った記念として碑にも出ているから堰のことである
堰とは田に引く水で重要であり水神が祭られているのもそのためである
ここでわかっているのは武家の出として島 大塚 只野である
只野というとき50人くらい鹿島区にいる、それは只野氏とは南北朝の時霊山で南朝の北畠氏が滅びて炎上して落ち延びた末裔なのである
細入第址
在昔相馬左近及胤公の居所なり、慶長中秀中―忠公に仕ふ、後故ありてこの地に蟄居す
元治三年卒す,歳68才 法□仏性印殿鉄山関公大居士 墓碑は小高山同慶寺にあり
(鹿島町誌)
山岸とあり水無川の上流の橲原(じさばら)に山神社がある、これが意外と立派である
三段くらいに石垣で組まれて高い所に社がある
だからこれだけの石垣を作ることは相当に労力がかかっている
その碑に一之堰と記されている、江戸時代のものである
その上の方に行くと実際に堰がある、そこから水が流れて来る
橲原村は文禄二年清丈冊に見ゆとあり文禄時代に開かれたとなるから古いとなる
ただその前からの村もありここはやはり江戸時代になって開かれたとなる
そこで99才まで生きたとか記されている、これは信じられない、江戸時代でこんなに長生きするとは思えないからだ、戸籍とかの間違いだろう
堰のすぐ下に「屋敷沢」とあり屋敷があったのか?
細入第址がそれなのか、屋敷があり沢があったとなる、何か橲原でも太原ても隠居した人がいたとかそういう場所にふさわしい、
ともかくこの一関はやはり堰を作った記念として碑にも出ているから堰のことである
堰とは田に引く水で重要であり水神が祭られているのもそのためである
ここでわかっているのは武家の出として島 大塚 只野である
只野というとき50人くらい鹿島区にいる、それは只野氏とは南北朝の時霊山で南朝の北畠氏が滅びて炎上して落ち延びた末裔なのである
橲原村には開墾者が明治以降入っている、その人達の粗末な石くれの墓が残っている
名前も定かでない、こういう奥まで入ってきて開墾して暮らした人がいた、ただ農業だけではない、炭焼きとかもしていたのだろう
そのためにこういう山奥でもどこでも昔は暮らしていたとなる
橲原と大原は似ている、そこが行きどまりになっているからである
それ以上奥になると森になるからである、江戸時代だったら相当に辺鄙な場所になる
耕作地も狭い、でも木材がとれていた、それで生活していたともなる
私の家の柱は橲原で姉の同級生が切ったものを柱にしていたと聞いた
つまりまだその時は外材ではなく地元の木材を利用していたのである
でも50年前とかであり大工の手間賃もまだ安かった、そのあとすぐに大工の手間賃が馬鹿高くなっていったのである、だから400万とかかかったと聞いたが本当に安かったのである、今なら大きな家だったら三千万くらいかかるだろう
その時高度成長時代の真っ最中であり景気が良かったのである
南相馬市だと橲原とか大原は奥座敷なのである、ただ放射線の被害で田も今は作っていない、草ぼうぼうになってしまったから残念だとなる、それでも人は住んでいる
でも田で米作りをする人はいなくなっているのだろう、荒地のままになってしまったからである
とにかく堰とは水を供給するから大事なものでありそれでその記念の碑が建ち今日にも残っているのである
つまり郷土史とは先人の苦労を偲ぶとういことにもある
だから江戸時代から継続された歴史があり原発事故でそうした継続された生活でも断絶することが問題なのである
なぜなら祖先が先人が苦労して作り上げたものが喪失してしまうからである
すると祖先も浮かばれないとなる、ただこれは個々だけではない全国的に過疎化してこさうした山の村は廃屋となり廃村となりつつある、日本の人口は縮小するからその衝撃も大きいのである