2022年05月16日

南相馬市の原町区に綿津見神社が多いのはなぜか? (千葉県からの移住があり安曇氏と蘇我氏は一体だった)


南相馬市の原町区に綿津見神社が多いのはなぜか?

(千葉県からの移住があり安曇氏と蘇我氏は一体だった)

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那珂と言う福岡県福岡市あたりの地名が目に入る。実は、蘇我蝦夷、入鹿親子を殺した乙巳の変(645年)までは、北九州あたりを本拠地とした蘇我氏ゆかりの人々(海人族安曇氏)が入植して開拓していたのである。近くの千葉市中央区の蘇我は正に蘇我氏ゆかりの土地であった

蘇我氏の祖先の武内宿禰の一族の海人族安曇氏は日本列島全体で水田開発、交易を行っていた(参考)

弥生時代初期あたりから、海人族安曇氏は九州地方から東北地方まで稲作の水田開発、物産の交易などの活動を行っていた。東日本では、在来系弥生人、すなわち縄文人が海人族安曇氏の最新知識による水稲と条里制地割の水田を導入したと考えられる。これにより、海幸と山幸の交換が可能になった。さらに、塩の生産・流通も海人族安曇氏が管理したようだ。

東国の開拓は百済人などの渡来人の前に既に海人族安曇氏が行っていた!
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12277257480.html


甘楽郡・多胡郡・緑野郡・群馬郡・新田郡など上野国一字物マ子成」という文字瓦がある。物部氏の分布は、のちと刻まれた紡錘車が出土し、前橋市上野国分寺跡にも「山
字資料であるが、高崎市矢田遺跡では、 「物部郷長」 「物部」手を伸ばしていく。八世紀以降の年代が充てられる出土文、こうした混乱の過程で、王権の実力者・物部氏が毛野へ触手を伸ばした、

物部氏は、五世紀後半に台頭し、大王の道の広範囲に分布す任務に就いた豪族で、のちの令制国・五十二ヶ国、五畿七側近として仕え、軍事・警察と在来の神々の祭祀に関わる


この結末は、 「使主―王権」大きくそがれよって、南武蔵まで力を及ぼしていた上毛野一族の勢力はの四ヶ所とともに毛野にも緑野屯倉を設ける。このことにが勝利し、使主は国造に就任、王権は南武蔵の多摩川流域

躍進を支えた軍事力に必要な鉄などの資源を東北に求だのである。物部氏は、上毛野氏からの情報をもとにしつ沿いに、奥深くまで踏み込み、北上川中上流域にまで及んだ

教の祭祀権を握った蘇我氏は、物部氏にも増飾金具・鈴などの金製品が見つかってい
是歳条) 。そして、飛鳥寺の塔心礎から玉類・耳飾・延板・本格的に建設に着手する( 『日本書紀』崇峻元年(五八八)
立を発願する。 翌年には、 百済から僧 ・ 技術者などを招聘し、馬子は、用明二年(五八七) 、法興寺(飛鳥寺)の建して、より一層、東北の資源や特産物を欲したと考えられる

蘇我氏と七世紀前半の東北経営ー新井隆一
https://core.ac.uk/download/pdf/233058675.pdf



相馬地方の古代史の謎は南相馬市の原町区に大きな桜井古墳があり原町区に異常に綿津見神社が多いことである、またそれと対となった山津見神社が多く飯館村では綿津見神社と山津見神社が対となってあり山津見神社は有名である
その謎を時系列で見ると最初は毛野氏が勢力をもっていた、それは武蔵国でも毛野氏が勢力をもっていたが物部氏と争い衰退した、次に蘇我氏と一体化した安曇氏一族が進出したそれは海人族である、順序としてそうなる
桜井古墳は物部氏が作ったのかとなる、なぜなら安曇氏が進出するより古い、四世紀とかなると相当に古いのである
そして中央で物部氏と蘇我氏が宗教争いがあった、物部氏は神道派であり蘇我氏は仏教派である、勝利したのは蘇我氏の仏教派になる
ただ安曇氏の綿津見神社とかは仏教ではない、神道なのかとなる
それは安曇氏の祖先の神であり蘇我氏と一体化して安曇氏一族が原町区を支配した
物部氏は衰退して安曇氏の綿津見神社と山津見神社がこれほど多く建てられたのである

時系列では毛野氏⇒物部氏⇒蘇我氏(安曇氏)⇒大伴氏となる

毛野氏は南相馬市の鹿島区の浮田国造となっていた、それが物部氏に代わり次に蘇我氏が安曇氏と一体となり進出した、でも浮田国造のある鹿島区には進出できなかった
さらに後に大和王権が確立すると鹿島区に大伴氏などが進出して前方後円墳を作り金銅双魚佩を残した、また寺内に多数の円墳などを作ったのである
蘇我氏というと東北でなじみがないが跡は残している

曰理郡の宗何部(そがべ)池守ら3人には湯坐曰理連

いづれにしろ毛野氏も物部氏も一時は勢力があったが衰退した、蘇我氏と安曇氏が興隆して多くの綿津見神社を残した、仏教遺跡も蘇我氏がかかわって残された
今の東北電力が建つ前に大規模な製鉄遺跡の発掘があった
その時の説明で武器より仏教の道具類が多かったという、それは蘇我氏がかかわって仏教が伝播されたからだともなる
またと蘇我氏自体が渡来人だとされて渡来人と一体となり仏教を伝えた
唐神という鹿島区の地名は韓(から)の神であり仏教のことである
また奈良の大仏殿の大仏の鍍金のために大量の黄金が必要とされて宮城県の涌谷で黄金がとれたので進出してきたのである

天皇(すめろぎ)の 御代栄えむと 東なる
       みちのく山に 黄金(くがね)花咲く 大伴家持
       
とにかくこの辺の最大の謎は桜井古墳は誰が建造したのか?そこに眠っている棺があり二人のものだというのも謎である
そして原町区に異常に綿津見神社が多いのである、最近では大原にも綿津見神社があったそれだけ多いのである、でも鹿島区となると見かけないのである
小高にも綿津見神社が海岸にあった、それは津波にも残っていた不思議があった
海岸でも高い所にあったからだ
歴史は時系列で見るのがむずかしい、まるで地層のように時々の権勢をふるった一族であれ交代している、物部氏はわかっていたが蘇我氏も関係していてそれが安曇族と一体となっていた、そして物部氏と蘇我氏は神道派であり仏教派と渡来系と一体化していた
桜井古墳は四世紀とか古いとなると物部氏系統が作ったものでありその後に蘇我氏と一体化した安曇氏が進出して多数の綿津見神社や山津見神社を残したとなる
安曇氏一族に後に八木氏とか犬飼(養護)がいて八木沢峠で地名化して霊山を越えた石戸村にその地名がある、飯館村などの佐須では佐須は焼畑地名であり安曇氏がその技術を伝えたとなる




インタ−ネットでは古代史では相当詳しいものが出ている、すると素人でも参考にできるから専門家にもなれる、まず図書館では調べるのもめんどうであるしできない
キーワードで検索できないからである、だから私はここ十年くらい図書館には行っていないのである、調べること自体めんどうでありその時間がなくなったのである
家事からあらゆることを一人でしているからできなくなったのである
でも家にいながらにしてインタ−ネットだとこのように調べることができるのである


posted by 老鶯 at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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