2022年05月15日

文系と理系とは何なのかー医者と看護師からみる (高齢化社会で老人と病人ばかりの社会になる異常)


文系と理系とは何なのかー医者と看護師からみる

(高齢化社会で老人と病人ばかりの社会になる異常)

脉をとる看護婦の手のあたたかき日あり、 つめたく堅き日もあり 石川啄木

●医者や看護師(婦)は理系である

病院という場所は医者とか看護師でも理系なのである、でも病院とか病気というとき
それは理系だけの者ではない、医者は確かに化学的知識を詰め込んでいる
例えば小便が白くなっているとき私は血の小便が出ていたから白くなって治ったと見た
これはいろいろ原因があるにしろ腎臓が一時悪くなりそうなったのかもしれない
これは医者が科学的に分析する対象である
基本的に医者は理系の仕事である、化学分析することが多いからだ

でもどうしても私は人間の病気というのは深く人間の心と関係していると見る
でも理系だと常に物体としてまた人間を機械のように見ることがある
それで病院で死にたくないとかなる、そこは心の通わない無機質な空間なのである
そこには愛が通わない冷たい空間なのである、それで女性の看護師でも家族の代わりはできない本で書いたいた、つまり家族のような愛でもって接することができないと言っている、体は診るが心は診れないのである

それで糖尿病の人が半年なのか長い間入院していてかえって食べるもの制限されて食べないことにより病気が悪化したのである、でも退院して家で暮らしていたら回復したのである、こういうことは病気に確実にある、つまり精神的なものが人間には影響するからである、家というのは何か人間を回復するものを持っているということである
ただその人は一人で暮らしているから家族に看護されるということはない、ただ娘が来るからそれも安心の材料だし近くに親身になって話し相手とか世話する女性がいることも
回復した原因ともなる

●人間を物としてみる西洋医学と物と心を一体とみる東洋医学

病院という場所から理系と文系をみると理系が優先される、手術するにも人間を機械のように見てしているともなる、そうでないと普通は人間の体を切りさくことはできないかもはしれない、体にも心が通っているとかなると体を切りさくことができないとなる
それで内臓の移植などはするべきではないとしているのも人間を物体として機械のように処理できないからそうなる、西洋医学はどうしても物と心を引き離してみる
objectとして人間もみる、だから科学技術が発達したとなる
東洋だと日本ではモノというとき物が憑くとか物と心は一体としてみる、物にも心があるともみる、色心不二とかも仏教であり色とは物のことである、それは切り離せないものしてある
理系と文系というとき理系とは人間の心から切り離したものとしてobjectとして扱うとなる、だから人間の体でも部分化して機械のように見るのである、パーツの集合としてみるそれで手術でも体全体より部分の集合として人間でもみる
そこに東西文明の相違があるとまでなる

そして理系の一流の学者である武田邦彦氏が機械ばかりあつかっていると物体ばかり扱っていると頭が冷たくなると自ら言っている、それがなるほどと思った
人間と接しないからそこに人間の情が失われて知的頭脳的人間となり頭が冷たくなるということである、あの人は理系で一流でありまた文系的素養があるからめずらしいのであるそんな優秀な知能高い人間を自分のような文系の劣等生は理解できないのである

●医者や看護師は人間の体に直接触れるから心も伝わる

ただ現代というのは理系的なものが重要視されて文系的なものが何に役立つのかと実用的にならないとして価値が低くされるている、でも病気とかで考えると意外と文系的なものが必要になる、というのは病気なれば必ず医者でも体にふれる
ただ今では機械のみが体にふれて診察するということも起きているから一概には言えないでも人間を診ることは体に直接触れる、するとこの触れるということはどうしても心がそこに通じるとなる

脉をとる看護婦の手のあたたかき日あり、 つめたく堅き日もあり

脈をとるでも看護婦でも必ず人間の体に直接触れるのである、その時やはり看護婦が体にふれられたとき啄木は感受性が強いから微妙に感じたということである
それは体に直接触れられることによって心を感じたのである
だから心というのは目に見えないにしろ体にも影響する、それで江戸時代は医は仁術となっていたのである、それは宗教家にもっていたのである
その時は現代のように科学も技術も発達していないから仁術として医療もしていたとなるつまり体をだけをみるのではない、心まで診るのが医者だったのである

そもそも医療は宗教から始まった、それはキリストでも仏教でもそうである
人間が一番苦しむのは病気だからである、だから山伏でも山に入り修行していたとしても薬草も探していたのである、病気を癒すためには祈るだけではできいなから薬草を探して飲ませたとなる
なぜこれだけ医療が発達してもカルト宗教でも数が多いのか?
それは依然として病気でも治らない病気が多いからである、まず60代になると何らかの持病を持つようになる、でも医療が発達したので癌でも簡単に死なないようになった
あの人はガンなのに仕事を普通にしていて十年にもなると見る
それだけ例え癌になったとしてもそうして生きる期間相当に長くなっている
それは医療が発達した結果なのである

ただ人間というのは物体でも機械でもない、心をもっいる、そして心と体は一体である
病は気からというのもそうである、だからどうしても医者や看護師には愛の心が必要になる、愛でもって患者に接することが必要になる
でも優秀な医者でも別に愛がないことはありうる、それより手術とかなると何か冷徹なものにならないと生身の体を切ることはできないともなる
またいちいち多くの患者を愛でもって接しろといっても疲れるともなる
ただ数として処理することもある、それで議員でも番号で呼ばれて怒ったという人がいたのもわかる、家族ならできるが医者や看護婦では大勢の患者がいるのだから無理だというのもわかる

●理系の医者や科学者がフランケンシュタインになる危険

理系とか文系を区別するときこうして情的なものは文系的なものかもしれない、理系の人はどうしても人間を扱うより無機質な物体を扱う、機械を作る人でもそうである
すると頭が冷たくなるとなる、それは極端になるとフランケンシュタインのようになる
こういう人にも科学者はなりやすいのである、なぜならそこには人間は見えない
恐怖は人間を科学のための医療のための実験材料のようにさえみる、戦争中は本当にそういうことがあったからだ、それは犯罪だと糾弾された
科学者はフランケンシュタインのような恐ろしい怪物にもなりうるのである
そういうことが現代では起り安いのである、人間は物体であり機械のようにしか見えなくなっている、また医者からすれば医は算術となっているのもそうである

だから科学者でも医者でも看護師ですら悪魔的になるのである
相手が弱者化するら余計にそうなる、弱者化するから医者に従わねばならない
それで病院は本当に牢獄であり刑務所に思えた、そこから脱出もできない、でも病院を逃げた人もいた、私も二回入院してそういう恐怖を味わった
だから病院には入院したくないとなる、ただ別にそうはいっても医者とか看護師が全部非情だとはならない、それなりに尽くしてくれたのである
でも虐待されたこともあり恐怖なのである、女性の看護師が家族になれないというとき
やはりそういう限界がある場所だとなる

ともかく理系と文系というときこういう場所でも現実の社会に現れていないか?
啄木は文系であり文系として感じたことを短歌にした、そこに理系の医者や看護婦がいたとなる、そこで看護婦がじかに体に触れることでそのことを感じたのである
看護婦の心を感じたのである、ただ虐待されるよりはましだったとなる
でもこれからこれだけ老人が増えて病人が増えると嫌悪する人が医者でも看護師でも増大する、そういう弱者とばかり接すると健康な人も病的になってくるのではないか?
それは医者とか看護師とかだけの問題ではない

いづれにしろ理系文系のことをみてもそもそも理系と文系とは何なのかわからない
人間社会は様々な作用から成り立っているからである、すべて理系文系にも分けられないのである、総合的なものだからである、ただ文系だと別にどんな大学でも一流でもさほど優劣もなく関係ないように見る、理系は最低でも文系よりは優秀と見る
文系は何かただ遊びの場だったともなるからだ、講義に出るより授業に出るより遊んでいた方の人が好まれた、これも奇妙なのである、それで遊び人になった人がいるのも当然だったとなる、自分自身も三流大学で勉強などしていなかったのである
ただカルト宗教にはまったりしていたり何ら大学で勉強していないのである
でも卒業していたから独学していたとなる、旅ばかりして地理とかいろいろ興味をもって独学していたとなる、正直文系は独学できる、今ならyoutubeで大学の講義さえ受けられる、それも無料なのである、自分のプログでも大学の講義にもなる
それも無料でありいくらでも文系なら独学できる時代になったから文系大学はいらないともなる、ただ大学には大学の効用があるからそれを全部は否定できないことは確かである

●老人と病人が増大する高齢化社会で嫌悪されるのもわかる

現代社会はそうした弱者ばかりに不健康な人ばかりの高齢化社会になったときそういう気分になる、特に若者にはなる、みんな不健康な老人ばかりになる社会というのは異常だともなるからだ、それでニーチェとかの弱者を否定るす超人志向にもなる、それは弱者ばかりの世界になったからそうなったともなる
現実に私を見た看護婦は老人を世話するのを嫌がったいた、だから虐待までなっていた
そういうことは別に病院だろうが施設だろうがある、何かそんな病気の人ばかりと接することが嫌になるからである、それは自分自身だってそうなる、だから虐待が起きるのである、ただその衝撃は大きい、そうされたとき看護婦でも医者でも恨むとなる
それで殺人まで起きたということもあった、それだけとても様々な人に愛をもって接することができないのである、だから実際は病院では患者でも番号であり無機質的な場となるから家に帰りたいとか家族の元で死にたいとなるのが人間なのである

みんないたわってもらいたいのだという社会である、それを否定して超人を説いたのも
現代社会がそうして弱者を優先する社会になったからだともなる
愛とかなるとただ人は愛されることを望むのである、キリストが説いたのは愛する人になれということであり愛される人になれとは言っていないのである
あらゆる人はただ他者を頼り弱者にぼとこし助けるべきだとなるのとは違う
そういう社会はまた健全ではないことは確かである、ただこれは複雑な問題である
でも高齢化社会とはまさにニーチェが嫌悪した社会だということは確かである
あまりにも老人が病人が増えすぎた社会だから若い人から健康な人から見たら嫌悪するようになってしまうのである

社会の大半がみんな老人になり病人になり助けてくれとなる社会は異常だともなる
認知症が8百万になるとかまた障害者の数も多すぎる、かえって弱者でも病気でも精神疾患者が多いというとき病気でない人は異常だともなり責められるとまでなる社会になる
それも異常である、だからどうしても老人とか病人は嫌悪されるということにもなる
だから虐待も起きるとなる、終に精神障碍者を多数殺した若者もいた
何かそういう人ばかりと接していてその人は精神異常化したのだろう
それもまた現代の大きな問題ともなっている、いづれにしろ高齢化社会というのは別に健康的に長生きすればいいのだがどうしても弱者化して病人も増えるのだから社会全体からすれば異常だともなる、バランスがとれないとなる

子供が多くて若者が多い国はやはり健全だともみる、でもロシアでは若い人はが多いからあのようなウクライナで暴虐的な戦争にもなったのかとみる、若いということは血気盛んだからである、とても老人は戦争などできないのである
日本でも団塊の世代の時は子供が爆発的に多かった、それで活気があった、でもその団塊の世代が高齢化して社会自体が老人化して活気がなくなるとなる
だから社会全体の問題としてそうなっているということである


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