2022年05月12日

相馬焼きの歴史 (縄文土器から始まる日本の陶器、骨董でも江戸時代のものは価値がある)


相馬焼きの歴史

(縄文土器から始まる日本の陶器、骨董でも江戸時代のものは価値がある)



江戸時代の終わりには窯元も100軒以上になり、販路も北海道から関東一円まで広がり、一大産地へと発展を遂げ、大堀相馬焼は日常の器(= "雑器")として人々の生活へと溶け込んでいきました。

somayakikaki111.jpg
相馬焼きの歴史(ホームページ―自作)
http://www.musubu.jp/somayakimono1.html

前のホームページで書いていた、その時は震災前であり大堀相馬焼きが軒を並べていた
風光明媚な高瀬川があり中国の山水画のような岩があった
そこは常に激流が流れていた、その大堀焼きも原発事故で失われてしまった
陶工は福島県の各地に散った、そこで伝統を守りつづけている

相馬焼きが磐城から伝わったというのも地理からそうなった、でも磐城ではたいして有名な窯がない、勿来焼きとかあってもたいしたものではない、相馬焼きになり全国のブランド品となった、ただ日常雑器としても使われた、第一百軒も窯元があったということは
一大産地となっていたのである、そうなると相馬藩の財政にも影響したとなる
藩でもともと奨励して収入源とした経緯もある
農家の副業にもなった、だから何か大堀に行ってそこで畑を耕していた老婆がいたことを自分のホームページで書かれていた、それは柿のなる季節であった
それで俳句とか作っていたのである

だからそういう場を失ったことが大損失だったとなる、もう回復しないからだ
でもまだ高瀬川渓谷は消えたわけではない、残っているが立ち入り禁止区域になったので行けないとなる、そこは相当放射線量が高いとなったからである
相馬焼きでも江戸時代のものがあれば骨董品でも価値がある
この辺は地元だから旧家に残っていたのが出ているのである
何か農家には蔵がありお宝が残っているともみる
ネットの販売で売っている、ネットだと全国が相手だからいいものがあれば高く売れる、地元だけでは高く売れない、なぜなら買う人が限られているし金持ちが多くないからである、また興味ある人もそんなにいないからである
そもそも相馬焼きでも江戸とかでも評判になり売れていたとういことで相馬藩の収入にもなったからである、今でも新しい相馬焼きが生まれて世界にも販路を広げようとしている
骨董品というとこれが意外と歴史と関係している、残された物から歴史をみる、その謂れを知るからである、十四代も使われつづけた茶碗とか急須があるとなると価値がある
ただそれを知らなければただの普通の器だとしか見ないだろう
また骨董品では古い物、特に江戸時代のものには価値がある、なぜなら私は古い碑とか墓をみる、そこで確かめるのは江戸時代の年号なのである、まずこの辺では元禄とかなると古いからなかなか見つからない、それで相馬市の新田に元禄の碑があった、そこは寺田というところでありもともと寺があったからそうなった
ただ震災で津波がそこまで来て波にのまれたが浅いので石碑は残っている

また元禄と明歴という碑が葛尾村の高瀬川の上流の野川に残っているのも不思議だった、こんな場所にそんな古いものがあるのかという不思議だった、ただ葛尾村も相馬藩内でありとうも検地の記念として残されたようである、検地の記念として残されたのは意外と多い新地では文禄の碑があった、相馬藩内で文禄の碑など見たことがない
それは明らかに伊達藩の検地の記念であった、検地が江戸時代の初期に全国で実行されてそこで米を税として治めさせて藩の財政を安定させたからである

骨董品でももし江戸時代の年号とか記されていれば価値がある、江戸時代のものは希少価値があるからだ、芸術でもその時代でしか作れないものがあるからその価値は色わせないむしろ価値を増してくるのである、芭蕉の奥の細道などがそうである
その価値は衰えることがない、「五月雨の降り残してや光堂」というように金色の輝きがさらに増して残されることになる
だから私が大堀を訪れて作った俳句とかでも価値があるかもしれない、なぜならそういう風景がなくなったからである、するともう再現できないからである
何か本当に津波とかで村ごと消えてしまった、新地の海浜公園になったところはもうそこでここに結構家並があり港町があったとういことをイメージすらできない
そして全く震災の津浪を知らない世代は全く新しく生まれた人達がそこに立っても昔ここに家並があったということをイメージもできないのである

海の風海浜公園に夏雲雀

このように全くそこに家並があり村があったということはイメージできないのである
別にそこは新しくなり気持いい場所になった、でもそこで何か昔をイメージが全くできないのである、一応漁港があるからそれでイメージするとはなる
それは烏崎とか請戸村とかでもそうである、村自体が津波で消失してしまったからである
つくづく人間はもともと忘れやすいのである、人間が一旦死ぬと何かあいまいなものとなり深い霧の中に隠されて実体がないものとなる、急速に忘れられるのである
それは60年とか一緒に暮らしていてもそうなのである、津波でそうした激変があり相当数が死んだ、でもそれすらだんだん忘れられてゆくのである

だから意外と何でもいいから記録していることが貴重になる、大堀相馬焼きを訪れて書き残した物でまたふりかえりイメージするとなるからだ、こういう場所だったのかと想像できるとなるからだ、柿がなっていて何か大堀焼にふさわしい場所だったともなる
焼き物でいいのはその土地と結びついて作られている
もともと土で作るのだからその土地の土と関係している、それで高瀬川の砂でも陶器を作ったとか書いてある、宮島焼とかは砂で作ったものである、焼き物は鹿児島とかなると火山灰で作ったとかもある

大島焼は三原山の火山灰をミルで細かく挽き、木節粘土まぜた土で成形します。
釉薬は椿油を絞りかすを灰にしたものや雑木の灰を原材料とし、薪窯で焼成します。
https://blog.goo.ne.jp/masarugama/e/623488e3e2917db5ec551b23ead6caf2

椿油というときこれは戦後まもなくまだ使っていた、今のようにいろいろな油がなかったからである、菜種油などでもそうだった、陶器には様々な材料が使われているのである

宮島焼は,江戸時代から焼かれ始めたと伝えられ,嚴島神社本殿下の砂を入れたことから「お砂焼」の名でも知られています。その後何回か窯の興廃があり,現在の確固たる基礎が固められたのは明治の中頃です。
 清楚な雰囲気に特色がありますが,粘土に砂を混ぜると窯変が起こりやすく,自然に二つとない模様が生まれて独特の風合いを醸し出しています。
 https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/67/1170644786687.html
 
こうした成分は化学的に分析すればわかるだろう
このようにその土地の材料を作るからその土地と結びついているのが陶器なのである
それでお土産に土から産したものとして陶器がいいのである
今だとネットで全国の陶器が買える時代である、それで全国を旅して窯元に寄ったのである、そもそも日本の独特のものとして焼き物がある、第一縄文土器から始まっているのだからその歴史は日本がでは古いとなる
中国だと磁器でありこれは外国に輸出された貴重なものである、伊万里焼でもそうである伊万里焼などはトルコの博物館などにも飾ってあったからである
相馬焼きからも今は新しいものが作られている

大堀相馬焼の窯元に迫る(1)休閑窯 半谷秀辰さん
https://www.730.media/kyukan/

ここに出ている現代的な斬新な皿がいい、土と海の色が出ている、何か自分のしている抽象画と似ていると思って見た、陶芸の模様は抽象画なのである




posted by 老鶯 at 12:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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