2008年09月06日

行き場のない老人の社会的入院の問題


行き場のない老人の社会的入院の問題

 
●社会的入院の典型的タイプ
 
高齢化社会の問題はこれからますます深刻になる。病院が施設代わりになる社会的入院の典型的タイプの老人が同じ病室にいる。退院できるのだけど退院しない、一人暮らしであり世話する人がいないからだ。もうすでに歩けるし自立できる、でもやはり誰か世話しないと一人では生活できない、ヘルパ−は頼んでいるがそれでも家に常時世話する人がいないと自立は無理である。甥の嫁が来ているがそれもみてくれても一緒に世話しないと無理である。だから病院にいる、認知症の人も三四人いる。他の病院もこうした社会的入院、施設に入れないとか家で世話できないとかで病院にいる人が多いのだ。病院におくと家族も楽だからである。隣の人も夫は82才であり家でなど介護できない、そもそもその能力がない、ボケていないにしても何か言うことがわからないのだ。あれでは介護できない、病院にいればいいとか早く家に帰ろうとか事情がほとんどわかっていない、鼻から管で栄養をとっているのだからそんな簡単に退院できない、口から氷とか食わせているけど口から栄養とれるようになるのは容易ではない、老人は口から栄養がとれなくなったとき昔なら死に直結していたのだ。今はそこから生きる技術ができたから長生きする。結果として介護する人が必要であり負担がふえたのである。

 

認知症は診療報酬を下げて追い出すべき
犯罪傾向のある精神病患者さんが万床で入院できなくなる

一般の病棟も精神科の閉鎖病棟もあんまり大きな違いはないと思った。
だって、どちらにせよ病院て老人がたくさんいる所だよ。
一般病棟には内科疾患を抱えた認知症の老人がたくさんいる。

私は空きベットがなくて、精神科閉鎖病棟に入った経験のあるうつ病患者。
閉鎖病棟にもランクがある。私の入ったライト級だとそんな感想。


ヘルパーさんやナースさんの働きぶりには感服した。
「どうしたら少しでも楽しく過ごせてもらえるかな」尊い。


認知症の人も施設に入れない人が多いから精神病院を占拠してしまっている。二年間相談するところなく地域では差別、偏見であり孤立して苦慮した。ともかく病院に入れると楽なのだ。その他何の援助もないことがわかった。家族におしつけられその家族のなかでも一人に介護はおしつけられる場合があり事件が起きるのだ。いづれにしろ高齢化の問題が凝縮して現れていたのは病院だったのである。でもベッド数を大幅に減らすとか施設もふやさないことはさらに深刻な問題をうむ。行き場のない介護難民があふれることなのだ。延々と愚痴を言われるのもいやにある。病院の中は愚痴を言い続ける老人やボケた老人がいる。そこで感心するのは看護婦であり介護士さんが一生懸命世話していることである。でも実際はいやいやながらやっている。これはしかたがない、社会の負の部分を背負っていたのが看護婦や介護士さんだったのである。看護師は資格があり収入がいいから騒がないがこれも不足しているし介護士も給料が安いからやめる人が多い、それでインドネシアから介護する人を受けいれることになった。日本では汚い、きつい、安い、底辺労働を引き受ける人がいない、それで外国人にやらせようとしているがこれも犯罪がふえるとかいろいろ問題がある。だからニ−トがいるならニ−トにやらせろともなる。自分もそう思ってしまう。でも自分は遊んだ方だからそんなには言えない、ただ若いときは底辺労働に従事していたのだ。ニ−トの問題は底辺労働に従事しなくても食えるという社会的事情があり介護士としても働かないのだろう。この仕事もかなりきついからである。
 
●病人の老人の安楽死を望む風潮が広がる危険
 
高齢化の問題はこれからますます負の部分、暗黒の部分が拡大化してゆく不安である。いろいろいい面を求めてきたが数が増大してゆくことでいい面も支えきれなくなる。その圧迫が社会的入院に象徴されるように強大化してゆくのだ。家族で耐えられないときは介護殺人になり社会的に耐えられなくなったどうなるのか?そういうとき、盛んに安楽死だという危険なものが是認されてゆくかもしれない、安楽死は簡単にできないものである。安楽死は安楽に死なせることでとはなく、安楽にするように治療することだった。今になると安楽死の死が優先させられる言葉使いになっている。老人で苦労するから安楽に死なせたいという社会の意志が強く働きはじめているのだ。そこに危険性を感じる医者が警告している。
 
私の家族はすでに反応ない状態で二カ月とかなっている。意識がないから脳が反応しないのだから介護しても張り合いがない、でも不思議なのは顔は普通のときの顔とさほど変わりないのだ。尿毒症で腫れてそうなっていた面もあった。顔は太った人だったからふっくらとしているから顔だけが生きているという不思議もある。植物人間に近いのだが顔をゆがめたりするからそれだけが反応しているから全然反応ないのとは違うのだろう。でも熱は出ているとすると体がかなり衰弱しているはずだからそんなに生きられるようには見えないのだ。太ったタイプの人は顔もやせずに死んだと聞いたからこんな顔でも死ぬのかと思った。一見これでは死んでいるように見えたが実際は顔は普通のときのままの顔だからやはり生きている、顔を通じてコミニケ−ションができる。顔は死んでいないのだ。顔はこうして大事なものだから顔が壊れてしまったハンセンシ病は深刻なものとなったのだろう。人間がどこで生きているのか死んでいるのかは以前として判断がつきにくいのだ。顔が普通とさほどかわりないからその顔を見ているとやはりまだ生きていると感じる。自分がきたこともわからない、意識もないのだがそう感じる不思議があったのだ。
 

社会的入院
http://www.inetmie.or.jp/~kasamie/SyakaitekiNyuuinnMT.shtml

posted by 老鶯 at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療-老人問題
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