金を誰に渡すかが問題
(地域に金を回すことを考えるーでも広域化グロ−バル化社会では不可能)
「書店の消滅」と「女性の労働問題」が根本でつながっている理由
近所の書店で購入すれば、お金はその書店に流れる。他の選択肢を選べば、そのサイトを運営する会社に流れていく。
日用品でも洋服でもなんでも、インターネットで購入したほうが安くて便利なことは多い。しかし、使ったお金は自分の暮らす地域には流れずに、外に流れていく。人口減で苦しんでいる地方経済はますます不景気になり、シャッター街が増えていく。
金を誰に渡すのか?何か買う時、誰から買うのか、誰に金をわたすのかなど今考えない
スーパーに買い物してその金を誰にわたすのか?誰が受け取るのなど考えないだろう
たいがい金は個人より会社が受け取るとなる、特定の個人は通はいない
戦後の小商店とかだとそこを経営しているのは個人でありその人に渡っていると感じた
商品を買えばそれう売っている個人に誰かに特定の人に金を渡っていると感じる
そこに人と人のつながりを感じる社会である
ただこれも今は社会が変わりすぎたのである、まず商品の量が昔の社会からすると戦後でも膨大に増えたのである,グローバル化でも世界から商品が入ってくるから増えすぎたのである、するともう誰かに金を渡すとかそこに個人の介入する余地がなくなったのであるまず本にしてもインタ−ネットで古本も入れるとその数は書店に並べるのと桁違いとかではない、天文学的数字になっている、書店に置ける本は百万分の一とかかもしれない
それくらいしか書店には置けない、それならアマゾンでも古本で自分を集めていたら書店にもるなと思った、自分なりの書庫を作ればいいと思った
そして書店にはメリットがない、本好きな人などいない、ただ物として売っているだけである、それがこれまで成立っていたのは書店は何か知的なものの窓口としてあったからだともなる、第一自分の家には一冊の本も置いてなかった
教科書だけで勉強するほかない、そうなると書店とかは貴重な存在になっていた
だから本を出す人も特別の人であり本を出すだけで著名人になる
でもまたどうしても本を買うというときむずかしい本は読む人少ない
でも書店に置くだけでくだらない本でも売れたのである
「冠婚葬祭」という本が百万部売れたことがありベストセラーになった本は百万部とか売れた、それが別に内容がいいとかではない、書店に置けて宣伝すると本は売れたのであるそれだけ知的刺激を本から受けていたしその他はなかったからである
そして書店の店員であれ書店の経営者であれ知的なこと本の内容など知らなくても売れていたのである
例えば大工でも職人でもスキルを持っている、だからそれを自慢するがわかる
では本屋の主人が何か本の内容を知っているかとなるとないのである
もちろん知識が膨大だから通じることもむずかしい、でも東京の古本屋街とかではその本の内容を説明できる人がいたりする
でも普通の書店ではいないのである、いづれにしろ前は本を置いているだけで売れたのである、なぜなら書店でしか本は買えないからである
それで自分は一週間に一回仙台市に行っていたのは本を買うためだったのである
近くの本屋には専門的な本などないからである
だから本を買えないということで知識を得るには相当なハンディキャップが田舎ではあったのである
今なら本を買うだけではない、本は簡単とはいかないまでも電子本でもネットでもいくらでも出せる、金にはならないにしても発信できる
youtubeのようなものでも個人でテレビ局さえもてる時代なのである
この差が余りにも大きすぎる、書店には実際は本は置いていなかったともなるのである
置かれない本が膨大にあったが置けるのはその百万分の一とかまでにもなっていたのである
いづれにしろ誰に金を渡すかなど今は意識しないしできない社会である
人など関係なく膨大な物が流通している、そこにいちいち誰に渡すかなど意識できない
それでマルクスは商品を考察して人間疎外とかを言うようになった
金を誰に渡すかなど意識している人はいないしできない、ただ金のやりとりしかそこにはなくなったのでなしる
ただ金を渡すということが誰なのか、田舎だと小さい地域社会だと意識するのである
私は自転車が好きだし使うから結構高い物でも買った、だから自転車屋と親しくなる
しかしここの一万くらいの町では一軒しかないのである
それでもヤマハの委託の店になっているから30万以上の電動自転車を買った
それは本当にいいものだとして常に言っている、でもそれが買えたのはヤマハと直接の販売店なっているから買えた、電動自転車は壊れたりすると直せないのである
それで困っているのは電動の折り畳み自転車を買おうしているがヤマハでは出していないのである、今は外国製のものも相当数入っている、でも田舎でぱ修理とかできないから
買えないので困っているのである
その自転車屋は一軒しかないのだから貴重である、そこで買いたいとなるのが買えないのである、金をその人に渡したいができないということがある
いづれにしろ一万の田舎でも今や隣は何をする人ぞになっている、何の仕事をして生活が成り立っているのかわからないのである
戦後まもなくだったらたいがい何をしている人なのかわかっていたのである
社会が見える社会だったのである、今は見えない社会である、あの人何をして生活が成り立っているのだろうとなる
ただ自転車屋とか大工とか農業しているとかはわかりやすかったのである
買う品物でも金を誰に渡すのか見えていた社会である、この金はあの人に渡っていると意識する、通販とかなるとその金はアマゾンに渡りアメリカに金が集められているのかとも見る、それがグロ−バル社会である
そこに個々人が介在する余地がないのである
ところが誰かに金を渡すということを意識することは人間的だとなる
その人がどういう状態だとか見える、実は病気でありそれでも仕事をして頑張っているとかなると応援したいとなる、金を渡す相手のことを狭い社会だとわかるからである
これが広域社会とかグロ−バル化社会になれば地球の裏側から品物が入ってきて買っても誰に金を渡すかなど考えることもできない、想像すらできないのである
でもバナナ一つにしても結構そこで仕事した人が苦しいと報告があった
でもそんなことを意識して買う人などいない、安くていい商品だから買うとしかないのである
ともかく今は田舎で社会が変わりすぎたのである、グロ−バル化の中に田舎でも組み入れられている、通信では特にそうである、通信の発達で知識が膨大に増えたのである
でも確かに誰に金をわたすとかを意識するのは悪いことではない
あの人に金をわたせば地域でも豊かになるとか意識することは悪いことではない
でもそれが現代ではできない、商品が増えすぎたのである
世界から自転車でも入ればそこにいいものがありそれが買いたいとなる
でも田舎では電動自転車になると買えないとなる、そこに依然として東京とか地方とかさらに田舎の差があると思った
それで自転車にしても私の町の隣の市は大きいから自転車屋が五六軒あるにしても買うことさえ断れることがあった、つまり常に一つの自分の店で買いということにもなる
そうでないものは売らないともなっているのだ、そこは何かそうして田舎の閉鎖性があった、俺の店からだけ買えば売ってやるという感じなのである
ただ自転車は必ず壊れる、修理することが不可欠である、それでエンジン部分をそっくり取り換えたことがあった、こういうことがあるから電動自転車となると買えないのである
おそらく誰かに金を渡すかを意識しろというとき小さな地域では人間的つながりが大事だということがある、それもグロ−バル化で広域経済社会で喪失したとなる
だからどうして原発事故で避難区域になったところが一挙に若い人達が移住して老人だけの街になり廃墟化したようになったのか?
それは人と人のつながりがなくなったことが原因としてあったとも考察した
それで絶えず「絆」を言われたのは外部の人達であり外部との絆であった
内部では絆が必ずしもない、補償金でもめて分断されていたのである
これも広域社会でありグロ−バル経済社会で起きたことなのである
外部との絆が言われたがそれなら外部に人が流出するということにもなる
内部の絆は消失して外部との絆で日常的に生活しているからそうなったのかとも見たのである
いづれにしろ誰かに金を渡すということを意識する社会は消失している
そこに介在するのは人ではない、金であり金というときどうしても外部から外国からでも入ってくるものを金で買うとなる、それが人と人のつながりより金がすべての社会にもなったのである、それでマルクスは商品から考察して人間疎外論を理論化したのである
結局それは商品の数が膨大なものとなったからである
それは本でもそうである、余りにもその数の種類の差が天文学的なものとなるほど差が大きすぎるのである、自転車でも外国製を入れると種類が多い、でも田舎では電動自転車は修理できないとなり買えないからそこが東京とかとは違っていたのである
ここで考察していることは人間と人間がつながる社会である、誰に金を渡すかとか意識するのはそうである
でもそういう社会は田舎ですら喪失している、通販とかなれば金は誰に渡っているかなど意識できないからである
それはアメリカの人達に渡っているのかとなる、小さな村社会とかなると人と人のつながりが優先される
でも現代のような膨大な商品が流通する社会では人と人のつながりは無視されて商品だけが流通する社会になる
それで人間疎外とかマルクスが考察したのである、でもそれを変えることは今となるとできない
それだけ世界経済としてグロ−バル化して経済でも金でも回っているからである
だから道徳無き経済ともなっている、経済が金がすべてであり優位になる社会なのである
でも実際はグロ−バル化しても人と人がつながる協同する社会ともならなかったのである
第一次世界大戦があり第二次世界大戦があり数千万単位で人が死に今度はウクライナ戦争のように核戦争になるまでの恐怖になった、つまりグロ−バリゼーションは世界平和を推進するともならなかった
その反動としてかえって国々との対立を深めるとういこともあった、負の作用も大きいものだったのである
グロ−バリゼーションの悪い面が顕著になったのも確かなのである