鉄道の駅と高速道路のSAの相違
(駅にはコミニュケーションが必要になる)
なくなった時計
最近は高速道路のSAの方に行く、そこだとレストランもあり広い休憩所もある
おみやげ店もある、でも随分鉄道の駅とは違うことに気づいた
今日は久しぶりで駅に行ってみたら若い女性の二人がいた、どこに行くのかと思って見ていたら駅を離れて歩いて行った、それからまた引き返した
それで聞いたら原町まで行くと言っていた、電車を待っても時間があるので歩いて行くとして駅を出たのである
前はこういうふうに駅についた人を案内していたことがあった
高校生の見守り役の人が常駐するようになってからは駅に行っていなかった
それでタクシーで行くとか言った、歩いて8キロくらいあると教えた
この距離だと歩く人はいる、後は雨が降ってくるとかかかわりたくないようだから去った何か教えるにも嫌がるとか怪しまれることがある
それで警官まで来たことがあり慎重になっている
でもここで気づいたことは必ず駅はなにかしらコミニュケーションが必要な場だということがわかった、なぜなら電車が遅れたりまた時間表を見たり今回のように原町まで行くとか歩く人もいたのである、つまり駅とは何かしらわからないことがあり聞くようになる
そして必ず駅の中になにもないから店や食堂を探す人がいる
駅前で探すし駅前通りがあるのはそのためだった
高速のSAだとレストランでも土産店でも休憩所もある、無人駅になると座る椅子があっても何もない、最近はホーム内にあったゴミ箱も撤去されたし時計まで撤去された
ただ無人駅でも鹿島駅は高校生の見守り役が常駐しているから無人駅とは違う
でもゴミ箱もないというのも困る、駅舎で食事したりすることがあるからだ
何かこうしてできるだけ無駄をしないようにする、なぜならゴミ箱を設置していたとき
商工会の人にゴミを捨ててもらっていた、そのことでも金を払っていたからゴミ箱を撤去したのである
高校生の見守り役は市の方で金を払っているのである、外のトイレも市で作ったものであり毎日障害者の人が掃除しているのである、その費用も市で払っているのである
とにかく高速のSAに行ってもそこで人と話すことなどない、そして困る人もいないのである、電車が遅れる心配もないし待っていることもない、ただ一時寄ってトイレに行くとか食事するとかで何か困ることがないのである
鉄道の駅では何か必ず困ることがある!
困ることがあるから人に聞く必要がありコミニュケーションが要求されるのである
その若い女性でもそうである、駅に降りた、でも次の電車を待てないのか何か原ノ町駅まで行くのどうしようとなった、雨もぱらぱら降ってきたとかなり駅にもどった
トイレにも入った、タクシーで行くにしても聴かなければならない
その電話番号を書いてあるのが入り口でそれが意外とわからないのである
今はスマホなどがあるから調べられるにしても何か聞くことがコミニュケーションが必要になる、もちろん人とかかわらなくても別にいいとしても鉄道の駅だと何かわからないことがあると思った、まず高速のSAではそんなことが全くないのである
そして街の方には来ない、SAによって後はまた別な所に行く、街とは全くかかわらないのである、鉄道の駅は降りたらそこで通りに出て街と必ずかかわるのである
だから駅前通りができたとなる、駅内には食堂もないからである
何かこうして比べると高速のSAと鉄道の駅は相当に違ったものである
それで街とかかわらないから地元とはかかわらないからサイクリングさせて真野ダムの方に行かせるとか観光ルートを作るのがいいと言う人があった
町自体とは全くかかわらないからである
そうなると市町村でも活性化はできないとなる
あれだけ人が出入りするのに市町村とは関係ないともなる、人の流れがただ高速だけであり街や町でも村でも波及しないのである
鉄道の駅はかえって時間を気にしたりいろいろわからないことがあり聞くことがあり不便だからかえって人間的な場となり見知らぬ人でもコミニュケーションが必要になっていたのである、人とのふれあいが必要になった
そこで実は人間も必要だったとなる、ただ駅長とかでもお前はなにしているのだと拒否されたし回りからも何しているのかそんなことをしなくていいとかあからさまにも言われた
つまりそもそもそうして車と違って駅に関心がないのである
だからこそ市町村でも無人駅でもいいとなるのである
ただ高速のSAだとコミニュケーションは必要ない、困ることがないからである
やはり人間は困ることがあるときどうしてもコミニュケーションが必要になる
困るということは助けてもらいたいということである、それがなければ人間は無人駅でもいいしロボットでもいればいいとかなる
でもロボットにはできないものがある、どうしてもそこに人間が必要なのである
ただ現代社会はそういう人間がいること自体うざいとかなる
困ったことがあっても知りたいことがあってもスマホを見ると人間がうざいから必要ないとかなっている社会である、だから案内するにしても拒否する人がいる
ただ駅員がいれば聞くがいなければ無人駅なら聞きようがないのである
ただ鉄道は利用する人が少ないから駅員は置けないのである
鉄道の駅はどうしても時間通りに電車が来なかったり何かあると遅れたりする
それで必ずコミニュケーションが必要になる、それが特に無人駅で起きる
何か人間は困ることがある、すると相談する相手が必要でありコミニュケーションが必要になる、人間は困らなければ別に他人に頼る必要がないのである
だからコミニュケーションも必要ないのである
自分は家族が何でもしてくれたから困ることがなかった、それで引きこもりもできたとなる、でも家族が介護になったりして困ることになり相談しようとしたその相手もいなかった、でもその時コミニュケーションが必要になる
それで引きこもりはコミニュケーションができないから親が死んで死体と一か月とか一緒にいたとかなる、人間はやはり困ることが必ずある、それに対応できなくなるのだ
高速のSAでは全く困る人などいないのである、だから何かを聞いたりすることもない
ただトイレにより食事したり休憩して去るだけなのである
でももし何か困ることがあったら聞いたりする、するとそこにコミニュケーションが生まれるのである
私は何にも困りませんよ、かかわる必要はないです
こうなっていて土地の人とも何らかかかわることがないのである
私は何にも困りません、かかわらないでください
こうなるのは実際は傲慢だともなる、それは自分のことでもあったから責められない
人間は人の世話になりたくないのである、なぜなら人の世話になることは何か重荷ともなる、負債を感じるからである、それで金を払って困った時助けてもらうとなれば恩義などは感じないのである、むしろ金を払うのだからちゃんとやれよとかかえって要求することが強くなるのである、それが現実の社会である
でも駅では金を払うから案内しろとかできない、無人駅であり誰もいないからである
でも何か知りたいことがあり困ることがある、それもたいしたことがないから別に無人駅でもいいとなっているのである
ただ前のように乗る人が多ければ鉄道会社でも案内でも何でも人を配置できるのてある
鉄道自体の衰退がありどうにもならないともなる
車社会になったとき根本的に社会が変わった、車に適合した社会となる、その変化の中で失われたものも多いのである
それは歩く旅から鉄道の旅となり車の旅と変わった、その変化の中で失ったものがある
便利な生活文明化しても必ず人間は得るものもあるが失うものがある
人間そのものがなんでも得るものがあれば失うものがある、老人になって失うものが多いがまた得るものもある
だからもう何かを得ることは何かを失うことだともなるし何かを失うことはまた何かを得ることだとなるのが人間根なのである
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