2022年04月03日

春の朝、春寒し、沈丁花、桜まだ咲かない (堤防が高くなり右田から蔵王が見える)


春の朝、春寒し、沈丁花、桜まだ咲かない

(堤防が高くなり右田から蔵王が見える)

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右田の堤防の径から見た蔵王
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舗装された道


春の朝山鳩鳴きぬ街の中

波よせて海面光りて朝雲雀

春寒し里人と話し常の径


堤防の高くなりにし残雪の蔵王の今日も我が見ゆるかな

梅の香の流て夕べ鶯の鳴きて帰れる細き道かな

沈丁花今年も咲きて我が家に歳を重ねて匂いの満ちぬ

みちのくは桜は咲かじその蕾なおかたしかな今年は寒しも


朝は毎日海の方に自転車で行く、その堤防が舗装されたから走り安くなった
真野川沿いにもサイクリングロードができたからここも自転車で行くのにいい
やはり舗装されると軽快に走るのである
そして真野川の河口と海側の堤防が相当に高くなったのである
だから蔵王が良く見えるようになった
冬の間は雲がかかって見えなかったが春になって見えるようになった
八沢浦からは前も見えていた、蔵王を見えるのは南相馬市でも鹿島区までである
原町区では見えないのである、これは景観としてはかなり違ったものになる
蔵王を身近に感じるのと感じないのでは相当に違ったものになる

何か高速道路のSAから電動自転車とかおいて観光させるといいとか言う人があった
つまり車で来る人は鹿島区の街の方にでも来ないからである、一時的に食事したりトイレを利用して去るだけだからそう言ったのである
鉄道だったら駅前通りができたように街と深く関係していたが車は通りすぎるだけなのである
ただ真野川沿いの堤防が舗装されたので走り安い、街の中でも堤防の下にもサイクリングロードを作ったからサイクリングするには良くなったのである

沈丁花の匂いはいい、その匂いが濃厚なのである、そして歳重ねてその匂いが深く感じるこの家にしても長く住んでいるからである
何か老人は何でもかえって深く感じるのである、感じ方が深くなってくるのである
ただ年ごとに年齢でも自然でも何でも感じ方が違ってくるのである
故郷とかもう見飽きたとかになるがそれでも人間は感じるものがある
要するに狭く深く感じることがある、それは人に対してもそうである
里人と話する、するとここに共に生きているなとか共感するものがある
日本人は俳句だと季語が必ずあるように共感するというとき常に天候なのである
天候が変わり安いのである
今日は実際にまだ寒い、今年は寒い、そこで春寒しとなって老いた女性と話する

いづれにしろ狭くても深く感じることがある、広くても浅く感じることもある
広くなると感じ方も違う、なかなか広い所に旅しても深く感じることはむずかしい
ただ不思議なのは思い出す旅なのである、そこで記憶したことを深化して感じ直すことをしている、その時大事なのはいかに記憶しているかどうかなのである
これが意外と見逃されているのである、なぜなら度でも忘れやすいからである
するとせっかく旅しても忘れると何にもならないとなるからだ
だから思い出すように旅する記憶するように旅することが大事になるのである

でも現代社会は便利になりすぎてただ早く早く通りすぎるだけになってしまった
そして心に深く残るものがなくなったのである
それで便利なことはかえってマイナスにも働いたのである
一歩一歩大地を細道を踏みしめてゆくとき心に残る、自然を感じる
浜街道の細道を行くとき自然でも感じるのである、六号線だと感じなくなる
鶯の声を聞こえたり細道だから自然が身近になり感じるのである

今年は寒い、でも東京辺りはすでに桜は咲いた、でもこの辺はまた蕾が堅い感じがする
桜は咲く時期が毎年違っている、早い時もあり遅い時もある、今年は別に遅いということではないらしい、でも寒いから遅い感じがするのである

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