2022年02月21日

安曇氏が大和の建国に深くかかわっていた (安曇氏と物部氏は一体ー綿津見神社が原町区に多いのはなぜ)


安曇氏が大和の建国に深くかかわっていた

(安曇氏と物部氏は一体ー綿津見神社が原町区に多いのはなぜ)

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松川浦の原釜にも龍神社がありこれも安曇系の海人の神社である
原町区だと山の奥の高倉に綿津見神社がある
ヤマトタケルの東征神話の竹湊とはたかみなとかもしれない
なぜなら多珂神社神社が高倉に綿津見神社がありここが上陸地点だった
それは安曇系の海人族が入ってきたことが下敷きとなって作られていたのだ
日本の神話は海人族が作ったものである
だから海の匂いに満ちている、それで倭人とは安曇系の海人族だった
また南相馬市の鹿島区の真野古墳群の寺内から発見された船の線刻画は十人くらい乗れる船だとしたら大きいのである、これは東北で初めて発見されたのである
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大原の綿津見神社がここにあった


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ある神社から分霊をして他の地に祀る事を「勧請(かんじょう)」といい、この勧請によって神社が増加していく。

明治初期、約200人に対して一社の神社
こうして全国に創建された神社の数は、明治時代初期で20万社とも云われる。
明治時代初期の日本の人口は約3500万人だったので、およそ200人に対して一社の神社があった事になる。

氏神(うじがみ)って何?
元々の氏神は、「氏」の神と書くように、その地域に住む豪族が祖神または守護神として祀っていた神のことを指します。




■「物部氏族」の出自は極めて難解で、その一族諸氏(阿刀連、津門首、物部依羅連など)の分布・性格、奉斎神(石上神宮を和邇氏族の物部首〔のちに布留宿禰姓〕と共に奉斎)や祖神の所伝(山代国造と共通の祖神を有する)から検討したが、遠祖の「天目一箇命」・「少彦名神」兄弟の母は、「海神族綿積豊玉彦命」の姉妹、「豊玉媛」(高比売)であり、

https://blog.goo.ne.jp/magohati35/e/d4761b6042228547370f9e65cfbe84ae

倭氏(やまとうじ、姓は直)で、国名の変遷とともに氏族名も変わった(大倭氏/おおやまとうじ・大養徳氏・大和氏など)。天武天皇10年(681年)に倭竜麻呂が連姓に、12年に一族が連に、14年に忌寸姓に、さらに奈良時代には大和長岡と水守が宿禰に昇格した。その遠祖・椎根津彦は綿積豊玉彦命の曾孫とされ、一族は神別の地祇に類別される。また八木氏や安曇氏と同族とされる海人族の一族。後裔に久比岐国造や青海氏、明石国造、吉備海部氏などがある

なお、和氏は百済の国王・武寧王の子孫なので、別系統である。

https://library.answerthepublic.net/japan/A/%E5%80%AD%E5%9B%BD%E9%80%A0

・綿積豊玉彦
@父:伊弉諾尊 母:伊弉冉尊
A子供:豊玉毘売(彦火火出見尊妃)玉依毘売(鵜草葺不合尊妃)宇都志日金折命(別名:穂高見命:安曇氏祖)振魂命

安曇氏系統の氏神として綿津見神社が全国に建てられた、ここでは八木氏が氏神となっていた

安曇族は2〜3世紀の物部東征とともに大和へ進出。やがて物部の力が衰退して神功皇后の時代になると、安曇氏も新権力のもとで朝廷に服従する側にまわったと考えられます。綿津見三神が住吉三神という呼び名に変わったことがそれを象徴しているように思います。

紀元前から博多湾周辺を治めていた安曇族の王こそが、君が代に歌われた「君」であり、志賀島から出土した漢委奴国王の金印は安曇族の王に送られた可能性が高いようです

安曇野市の穂高神社

紀元前から博多湾周辺を治めていた安曇族の王こそが、君が代に歌われた「君」であり、志賀島から出土した漢委奴国王の金印は安曇族の王に送られた可能性が高いようです。

記事の中で、安曇族は古代中国においては「倭人」と呼ばれた人たちだったのではないかという仮説も書きました。また徐福を日本へ連れてきた海人族かもしれないことや、いくつかの系図から徐福の血筋と関わりがあるとみえ、姻族の可能性が高いとも書きました。つまり古来より北九州を根拠地とする海洋民族がいて、大陸との交易を自在に行い、そのうちに徐福渡来と関わることで親族となっていったという見方です。古代においては航海を掌握する者こそが権力を握るともいえ、徐福は古代日本の海人族である安曇族、宗像族(出雲系)を真っ先に手中に収めたと思われます。

そして安曇磯良とは何者なのかを調べれば調べるほど、出雲伝承の伝える徐福の息子、五十猛(のちの香語山)に繋がっていきました。実際、丹後の海部氏(籠神社宮司家)と博多志賀島の志賀海神社宮司家の安曇氏は親族ということです。一方物部氏とは非常に近い存在でした。武力の物部氏と航海を司る安曇族が協力して九州を支配していたようです。海部氏も物部氏もどちらも徐福の直系です。

出雲伝承では、徐福の連れてきた海童たち(少年少女)は漁業を営む者が多く、彼らは綿津見の神(海神)を信仰していたと伝えています。彼らはやがて出雲の竜神も拝むようになり、両方の神が合体して竜宮信仰が生まれたのだといわれます

https://somosora.hateblo.jp/

これらは総合すると安曇氏と物部氏は一体であるとなる、安曇氏が君が代の「君」だとするとき日本建国の基が海人族の安曇氏にあったとなる
漢委奴国王の金印は安曇族の王に送られたというのもそうである

ただこの辺でわからないのは物部氏に関する神社とかはない、すべて綿津見神社であり
後は対になった山津見神社である、明らかなことは松川浦に山津見という地名と和田(綿津見)が地名化している、それは松川浦の奥まった場所でありそこに船で上陸して山の方に向かったのである、それはわかりやすいのである
なぜなら今でもそこは船が上陸する適地だからである
ただ当時は海が深く陸地に入り込んでいたから船が入り安かった、それは鹿島区でも原町区でもそうである
そして桜井古墳は新田川の岸辺と海に近いのである

また最近大原に綿津見神社があったことを発見した
こんなところまであったのかと驚いた、そこから八木沢峠を上って飯館村に行ける
そしてそこに綿津見神社と山津見神社がある、八木沢は安曇氏系統の同族である
犬飼(犬養)もそうである、こうして点々と安曇氏の八木氏系統の同族が地名化している鹿島区に綿津見神社が見当たらないとしたが栃窪村には山津見神社がある
山の方に入ると山津見神社になる
ただ高倉にも綿津見神社がある、こうして安曇族系統のものが山の方に入っていったのである、でも綿津見神社がそれほど古いと地元の人たちは意識していないだろう
桜井古墳とか鹿島区の古墳なら古いと見るが綿津見神社とか山津見神社が古いとは見ていないだろう、そもそもそうした古代からある神社とあるのに何か謂れも伝承もないことが不思議なのである

ただなぜ桜井古墳が原町区にあるのか?

なぜ原町区に綿津見神社がこれほど多いのか?

物部系の神社とか地名とかがないのか?

綿津見神社が鹿島区に見当たらないのか?

この疑問はやはり鹿島区の真野郷より前に原町区に安曇族系統八木氏が入ってきたからだろう、そして物部氏と一体化したのだろう、物部氏の神社としては海老に近い御刀神社がある、これは海老がエヒであり蝦夷であった、だから刀を使い征服したみる
だから物部氏は原住民の縄文人の蝦夷と戦ったともみる

物部系の神社とか地名とかがないのか?

これは安曇系八木氏が入ってきてそれが主役となり物部氏は従属した立場になったからともなる、そして次に大和王権の国造(くにのみやっこ)が浮田に置かれて中央の奈良の大和王権がかかわり大伴氏がかかわり真野古墳群ができて寺内の前方後円墳から金銅双魚佩が発見された、その下賜されたのは大伴系の有力者だったと推測する
つまり大和王権の支配地域と鹿島区はなり真野郷はなった
浮田国造から中央の大和王権の支配がここに成立したのである
こうして海洋民族の安曇族が日本国家の建国の基となっていたのである







 
 
posted by 老鶯 at 20:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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