2022年02月10日

大工から棟梁へー建築の歴史 (人間全体を見ていた江戸時代の大工とか医者)


大工から棟梁へー建築の歴史

(人間全体を見ていた江戸時代の大工とか医者)

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パンデミックで医者の裏の顔がバレました!
あれほど素晴らしかった日本の誇りが・・崩れようとしている武田邦彦
https://onl.la/bzpdxBn


●大工ー棟梁の歴史

【棟梁】より
…それが近世に向かって,大工,木挽(こびき),左官,屋根葺,鍛冶など,職人の専門的な分化がすすみ,一方,城郭や町の建設がさかんとなるにつれ,閉鎖的な組織を打ち破って造営工事を合理的に運営する,新しい組織を必要とするようになって,棟梁という個人的技能に基づく工事指導者と組織が成立していったといえる
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%A3%9F%E6%A2%81-1359053

大名達は優秀な技能を持ち『大工職』に縛られない工匠集団を必要としていた。この要求に基づいて創られたのが『棟梁』を指導者とする工匠集団であり、中世的な座の制度(『大工職』)の破壊を目的としていたと考えられる。
https://bingo-history.net/archives/14032

棟梁という言葉は今日では「大工の親方」という意味で用いられることが多いが、元は建物の屋根の主要部分である棟と梁を指していた。棟と梁は建物の最も高い部分にあり、かつ重要な部分であるため、転じて国家などの組織の重要な人物を指し、また「頭領」・「統領」という表記も用いられた(『日本書紀』景行天皇51年(121年)条において武内宿禰を「棟梁之臣」と表現している)。10世紀から11世紀にかけて、各地に「堪武芸之輩」・「武勇之人」と呼ばれる人々が現れて武門の源流となり、それを統率する人物を「武門之棟梁」と称した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E3%81%AE%E6%A3%9F%E6%A2%81

町大工
主に木造軸組構法で家屋を造る大工(町場大工とも言われる)

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日立木の町場橋ー相馬市の城跡に近いー大工町だったのか?


町場の由来は、古くから日本各地で相互扶助の単位として町(町場)という共同体のことからであり、江戸時代までは都市部の公的な自治単位として多くの権限を有していた。都市部の庶民のまつりごと(自治、祭礼)は伝統的にこの単位で行われ、その慣行が今でも残っているところも少なくない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%A5

【太子講/たいしこう】

先述したように、聖徳太子は法隆寺をはじめとする多くの寺院を建立し、建築の神様として古くから信仰されていました。そうした背景から、室町時代末期になると、聖徳太子の命日とされる2月22日(旧暦)を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講(経典の講義をする会)が行なわれるようになりました
https://wawawork.work/workerstrend/skills/641/

普請においてその町に住むものはその土地の大工を使うのが不文律であり、それをたがえる時はそれなりの理由と挨拶が欠かせなかった。またこの様なことは大工に限ったことではなく町の中でお金が循環するという相互扶助でもある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%A5



人間を見る時どうして見るかというと今を見ていたらわからない、時間軸で見ることが不可欠でありそれで何でも歴史がありその歴史をふりかえると見えてくるものがある
どうして今はこうなってるのだろうという疑問があるがそれが解けるともなる
そのために常に歴史的にみる訓練が必要になる

大工という言葉がすでに奈良時代にあるとか古いのに驚く、棟梁はむしろ後にできた言葉である、棟梁というときいろいろな建築にかかわる専門家を束ねる人だった
だからこそ町作り全体にかかわる街の都市の設計者にもなっていたのである
そうなったのは城とか城下町とか大規模化したとき建築家が必要になり束ねる人が棟梁となったのである、武家の棟梁というときそうである
だから大工とか棟梁とかは町全体を作るものとしてかなり地位的にも高く給料も高かったのである、大工は尊敬されまた棟梁となるとまさに殿様の名称にもなっていたのである
それだけ誇り高い仕事となっていた

武田邦彦氏のyoutubeで語っていたことは興味深い、大工はその人がどういう人生を送りたいかを見て家を作る、だから家を建ててもらう人のことを聞かないという
どういうふうな部屋割りにするとか聞かないという、それも何か理解できないがその人がどういうふうな人生を送るのかという時、その人の人生を見るというとそれはその人の全体を見ているのである
それは医療でもありうる、その人を見るときその人の全体をみる、体の部分だけを見ない体全体をまたその人の暮らしとかまでみる、だから患者が何々の薬をくださいと言っても医者は応じないとしている
つまりその主導権が大工に棟梁にあり医者にあって依頼者にはなかったとなる
また町全体を作るためにそれに合った街並みを作ることもあるから勝手な個々人の要求で家を建てられないということもあった
京都の町屋などがそうである、それで江戸でも京都でも街並みができあがっていた
そういうことを棟梁がしていたというのは発見である
つまり個々人でも家作りでも街作りでも全体を見てかかわり指導していた人がいたということである

●現代社会は何でもばらばらに部品化した

現代というのはともかく何でもばらばらの部品化してしまったのである
それを統率するものもいないのである、だから街でも不揃いの醜いものになった
京都でも町屋の前に高層ビルが建ったり常に景観を壊すものとなっている
統一した街作りができないのである、そういう棟梁とかがもういないのである
つまり現代とは全体を見て何かを作るということがなくなったのである
それは医療でも人間全体を見ている医者などいない、人間の体の一部を見るだけであり
人間全体の体だけでなくその人の暮らしとか人生まで見る人はいないのである
だから江戸時代なら医は仁術というときまさに人間の体だけでなくその人の人生とか暮らしとかまで見ていたのである

大工が町で重要なものとして誇り高いものとしてあったというときそれはその木材でも資源でもたいがいその土地で供給されたものである、その土地にあるもので作られていた
今のように外材とか何でも外部からそれも外国から輸入したものではない
すると一軒の家を建てるのに茅葺屋根の家でも村全体でかかわり建てたとなる
それは村全体の中で作られていたのである
それが現代だと大企業のハウス会社が一二週間で組み立ててつくる、まるでプラモデルを作るように作る、そこに地元の大工はかかわらないとなる
すると地元の人がかかわらないから地元の人とのつながりもなくなる
田舎はそうして何でも生活自体その土地と密接に結び合って成り立っていたのである

だから今は何か街自体が密接に結び合わない、何かプラモデルのように作られた人工の街のようになっている、だから解体するものも簡単だとなる
子供が遊びで積木のようにプラモデルのように作りあきたとかなりみんな簡単に壊してしまう、それが原発事故の避難区域で起きた
簡単に街でも村さえも住人が放射線被害で住めないとして廃墟化したからである
それは理由があるにしてもこんな簡単に街でも村でも人がいなくなったということに驚いたからである

そして浪江に住んでいた人は電気関係の人でありその人は回りの田畑が草ぼうぼうになっていても何の関心もなかった、補償金もらって良かったとして喜んでいたのである
他の人も老人でも年金代わりに補償金もらって喜んでいるよと言っていたのである
このように今や人間と人間のつながりは小さな町ですらなくなっていたともなる
だからこそ簡単に解体したのかともみた
実際は浪江のような一割くらいしか帰ってこない街でも別に車があったりすると物は買いに行けるし物は入ってくるからそこで暮らせないということはないのである
それにしてもこういう社会は何なのだろうとなる
それを理解するにはやはり歴史をふりかえることである

●ヨーロッパのartの意味

地名としては日立木に町場橋とかあり仙台市の長町に太子堂駅ができた、でもそこには聖徳太子の堂はないが前はあったからその名をとった
聖徳太子は大工の神様のようになったのは中国から大工技術を取り入れたためだとしている
日立木の町場橋の由来は大工が集団的に住んでいからか?相馬の城にも近いからである
相馬の城下町の延長としてあるからだ、距離的にも相馬市内という感覚にもなるからだ
とにかく大工とは尊敬される職業だった
今でも一人親方を知っているがその人は庭作りでも壁造りでも大工としていろいろできるのに驚いた、器用なのである、人間性は別にして職人として大工として優れているのである、体力的にも見た感じが柔道の有段者のような体つきをしているのである
それはまさに生まれつきの素質があり大工となり一人親方となったのかともみる

私は建築に興味がある、建築はやはりアジアでもヨ−ロッパでも建築そのものが市を作るものとしてエンジニアでありその人は棟梁であり重要な役割を果たしていたのである

こうした中でも建築事業を統括する技術者は「アルキテクトーン」と呼ばれていました。
「アルキ」は「頭(かしら)」のことで、棟梁のことを指します。

都市の住民は、同業者同士の相互扶助のため組合を結成した。13世紀のパリではその数は約100にものぼる。これらはそれぞれが特定の守護聖人をもつ宗教団体でもあり、同業者の増加を制限する閉鎖的集団でもあった。

石の大聖堂をカテドラルを建てたのはフリーメーソンとして知られる、秘密結社であり陰謀論では今でも世界を支配しているといわれるのはそれだけ重要な役割を果たしていたのは日本の大工とか棟梁とかと似ているのである
もともとギルドを組合を形成して大きな力をもっていたからである

「art」は英語だけど、さらに語源を遡るとラテン語の「ars」なのね。
この「ars」には、「技術」や「資格」「才能」といった幅広い意味があったの。

artは医療でもartだった、テクノロジーは実用化したものだがartももともとは実用として通用するものだった、なぜなら医療はまさに実用だからである、artとはだからヨ−ロッパ的概念であり文化であり文明を作ったものだともなる
それは今の日本に翻訳された芸術とういものではない社会全般にかかわるものだったのである、その全体から現代はあらゆるものか分離したのである
絵画でももともとは聖堂と一体化して飾られていた、個々の絵画はなかった
音楽でもカテドラルに荘厳なパイプオルガンが備えられていてバッハのレクエムがその大聖堂全体に鳴り響いたのである

つまり音楽は建築と絵画でも社会自体が一つの全体として統合していた、宗教もそうである、全体を統合するものとしてあった、なぜなら宗教は宗(むね)なるものだからである中国にも仏教文明があり唐時代がある、宗教都市がある、その唐時代の仏教文明が日本がに移植されたのである、仏教というときそれは全体であり技術もその中に含まれていた
つまりこうして全体だったものがすべて個々ばらばらに分離したのが現代社会なのである芸術というときこれもまさに絵画とか建築でも文学でも伝統芸能でもなんでも分離して
孤立したものとして見ているけどそれらでも社会全体のその時代には全体の中に組み入れられたものとしてあった、だから時代によってヨ−ロッパだと建築でも変化しているのである

●万葉集の家を歌ったもの

はだすすき、尾花(おばな)逆(さか)葺(ふ)き、黒木(くろき)もち、造れる室(むろ)は、万代(よろづよ)までに

これなどでも身近に土地でとれるもので家を作ったのである、その土地土地と密接に結びついていたののである

真木柱(まけはしら) ほめて造れる 殿のごといませ母刀自(ははとじ)面変(おめがは)りせず 」 
 巻20−4342 坂田部 首麻

私の家は橲原の同級生のキコリの人が提供したもので作ったと姉がいつも自慢していた
そして三カ月以上を家を作るのにかかったのである、今は一二週間で速成に部品を集めて組み立てるだけである、昔は普請は一大事業だったのである
何か家にはそれぞれ歴史がある、それがわかりにくいのである
農家などは特に江戸時代からの歴史がある、その歴史が原発事故で失われたということが大損だったのである、なぜなら家の歴史が郷土史の基本にあるとしてその家が失われたことでわからなくなる、町自体でもその歴史が喪失してゆくとなる

ただ現代はもともとそうした歴史を無視する社会になった
家でも地元の木材など利用しない、外材となり建てるのもハウス会社であり地元の大工もかかわらないとなる、だから地元でも故郷でも愛着もなくなる
この家ははこうして建てたんだよということを祖父からでも親からでも聞けなくなる
そして町や村自体の歴史まで消失してゆく危機なのである
それは日本全体が2000万軒もの家が廃屋化してゆく恐怖になる
日本全体が廃墟化してゆく恐怖がある、ここはそれが極端化して現象化したのである
温泉街も廃墟化しているし団地などでもそうである
日本自体が廃墟化してゆくのかという恐怖になる、日本がなくなるという人もいる
それだけ空家問題は大きな問題なのである
posted by 老鶯 at 21:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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