2022年01月28日

南相馬市の古代史ー浮田国造(毛野氏)から大和政権へ (桜井古墳は物部ー安曇族の墓ー真野の草原は大和政権支配の確立地域)


南相馬市の古代史ー浮田国造(毛野氏)から大和政権へ

(桜井古墳は物部ー安曇族の墓ー真野の草原は大和政権支配の確立地域)

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今の福島県から北は道奥(みちのく)と言われた。そのためか、助川(茨城県日立市の宮田川か?)あたりは『道の前(みちのくの入り口の意)』と呼ばれ、陸奥国苦麻村(福島県双葉郡大熊町熊)は『道の尻』と呼ばれていた。古代、この間は常陸の多可評(たかのこおり)であった。その後それが常陸と磐城に分割されたのである

国造の支配領域は当時浮田国と呼ばれた地域、後の律令国の陸奥国宇多郡、行方郡、現在の福島県相馬市、南相馬市、相馬郡新地町、同郡飯舘村に相当する。浮田国造が設置された同時代には、北西部に伊久国造(伊具郡)、南部に染羽国造(標葉郡)が置かれた。

立地や築造時期から浮田国造の初祖・鹿我別命の墓と見る説がある

養老2年5月、陸奥国の石城郡・標葉郡・行方郡・宇太郡・曰理郡の5郡と常陸国の菊田郡を石城国、陸奥国の白河郡・石背郡・会津郡・安積郡・信夫郡の5郡を石背国とした


古代の国というとき大和政権に認められない前の国があった、何かしら人々が連帯して一つの国という意識をもっていた、その一体感があった国の上に大和政権が国造(くにのみやっこ)を送ってきた、それは官人であり中央から知られた支配が形式的にはあったとなる

問題なのは国の範囲とはどのくらいなのかということである、それは地域の広さと関係している、人口密度もあるがそもそもその土地に依拠して生活していたから土地で食料をまかなっていたのだから土地の広さが問題になる
土地の広さによって食料を供給する人を養う人数が決まるからである
その頃都とか都市とかはないからである

相馬地域では国というとき最初は南相馬市の浮田地区が中心となった浮田国造が置かれた地域である、それは新地から南相馬市の小高区と飯館村が入っていた
それは丁度相馬藩内が一つの国として意識されていたとなる、それは今に続いているとなる
その後国が郡にこおりに分割された、だから郡山市とか桑折(こおり)とか地名として各地に残る、それはもともとの国ではない、大和政権によって行政地域が分割されたのである
相馬地域だと基本的には原町区に国見山がありそこから見える範囲が国として意識されたとなる、それが新地と小高までだとなる、確かにその辺までは見えるがあとは視界からはずれるのである

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ただ謎なのはなぜ南相馬市の鹿島区の浮田が中心であったのかということである
それが謎なのは古墳からみると桜井古墳が大きくそこが中心だったとも見るからである
そこに浮田国造の鹿我別王の墓だというとき地理的に一致しないのである

歴史でも空間軸と時間軸で構成される、空間軸だと地理だと古代とか地形とかは変わらないのである、ただ歴史でむずかしいのは時間軸なのである
いつの時代なのかそれが特定しにくい、だから奇妙なのは時代を逆に見たりする
古い時代のものが新しい時代とみたりする、まず明治以降だったら明治を大正と昭和とか見ない、親が明治生まれだとか母が大正生れたとかなる、その時代を逆には見ない
でも江戸時代となると年号があるがその後先がわからなくなるのだ
だから時代的にいろいろな時代があっても後先が間違って見ることがある
いろいろなことが時代時代に起きていてもその後先が間違えるのである
明治以降はこういうことはありえないのである

だから桜井古墳が浮田国造の鹿我王の墓だというときもそうである
国造制ができてからのものだとすると毛野系のものがかかわり桜井古墳も作られたとなるそして毛野系というのもわかりにくいのである
なぜなら毛野系というとき栃木県とか群馬県とかてありなぜそうした遠くから山の方から海岸の方に勢力を伸ばしたのかとなるからだ
その理由は会津がすでに大きな国であり山側の方が勢力があり海側の方に進出した
会津が大きな国となっていたのは水が山に囲まれて良質であり米の生産に適していたからだとしている、今でも会津とか新潟の米はうまいのはそのためである
その後に大和王権が浜通りに進出してその支配下に入った

志賀島から出土した漢委奴国王の金印は安曇族の王に送られた可能性が高いようです。また我が国最古の舞踊、筑紫舞において極秘伝として最重要とされる「浮神(磯良舞、細男舞、鞨鼓舞)」のモデル、安曇磯良は正史には現れませんが、その存在は古代史において非常に重要な王であると確信しています。

記事の中で、安曇族は古代中国においては「倭人」と呼ばれた人たちだったのではないかという仮説も書きました。また徐福を日本へ連れてきた海人族かもしれないことや、いくつかの系図から徐福の血筋と関わりがあるとみえ、姻族の可能性が高いとも書きました。つまり古来より北九州を根拠地とする海洋民族がいて、大陸との交易を自在に行い、そのうちに徐福渡来と関わることで親族となっていったという見方です。古代においては航海を掌握する者こそが権力を握るともいえ、徐福は古代日本の海人族である安曇族、宗像族(出雲系)を真っ先に手中に収めたと思われます。

そして安曇磯良とは何者なのかを調べれば調べるほど、出雲伝承の伝える徐福の息子、五十猛(のちの香語山)に繋がっていきました。実際、丹後の海部氏(籠神社宮司家)と博多志賀島の志賀海神社宮司家の安曇氏は親族ということです。一方物部氏とは非常に近い存在でした。武力の物部氏と航海を司る安曇族が協力して九州を支配していたようです。海部氏も物部氏もどちらも徐福の直系です。

出雲伝承では、徐福の連れてきた海童たち(少年少女)は漁業を営む者が多く、彼らは綿津見の神(海神)を信仰していたと伝えています。彼らはやがて出雲の竜神も拝むようになり、両方の神が合体して竜宮信仰が生まれたのだといわれます。

新撰姓氏録によると、安曇氏は海神・綿積豊玉彦命の子、穂高見命の後とあります。ワタツミ信仰が海童たちのものであるなら、安曇族が九州古来の倭人であるとするのは難しいですね。3000年前から中国で倭人と呼ばれていた人々の中に、ある時期から安曇族が含まれたという見方なら可能かもしれませんが。(中国史書に記された「倭人」という存在を無視することができず、しつこく拘っています‥‥)
https://somosora.hateblo.jp/entry/2020/09/25/%E5%AE%89%E6%9B%87%E6%97%8F%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8

大和政権が全国を支配する前は物部氏が支配していてその物部氏と安曇族が一体化したようにあった、倭人とは安曇族のことだったというのもそうである
この安曇族とか物部氏は正史に記されていないからわかりにくいのである

関ヶ原の不破関以東が当時の東国で、尾張国、三河国、遠江国、駿河国と続く。尾張国、三河国、遠江国は「物部王国」として知られる

ではなぜ原町区に異常に綿津見神社が多いのか?

これが最大の謎なのである、そしてそれはいつの時代なのかもはっきりしないのである
こんなに綿津見神社が多いということはこの辺の先祖となれば安曇族系統になってしまうのである
海人族の安曇族は内陸部に山の方にも入ってきた、長野県の安曇は有名である
そこでは今でも船の祭りをしている、また安曇族は会津の方にも入っている、綿津見神社があればそうである
原町区だと飯館村の山津見神社は綿津見神社と対なすものである、だから飯館村の途中の栃窪村にも山津見神社があり松川浦には山津見という地名とか和田という地名があるがそれは綿津見のことである、それが宇多川を遡ってゆくと山津見神社が隠されるようにありそれは八木原とかは安曇族の八木氏のことである、原町から飯館村に行く八木沢峠でもそうである、霊山を越えて霊山町に入ると犬飼という地名がありこれも安曇族の後継なのである、地名化することは古代に多いのである、最初の開拓者が地名を名付けるとなるからだ
 
どうしても浮田国造が大和政権によって支配下に入り官人か中央から派遣される前に桜井古墳はすでに作られていたと見る
ただそれは一代か二代で終わり続かなかった、なぜなら古墳は地域に密集して小古墳も後から作られるからだ、それは浮田国造のある真野古墳群がそうである
ここでは代々人が受け継ぎ住んでいたとなるからだ
桜井古墳は一つだけが特に大きく小古墳は前の古墳一つくらいである
ということは一時的に興隆したがその後はつづかなかったとなる
それは物部氏と安曇族がここに来て土着したが一時的なものだったとなる

問題は時代的区分なのである、それは浮田国造が配置される前のことであり桜井古墳は
東海系のものだというときもそうである、東海系というとき静岡県に綿津見神社が多いのである、するとそこから移住してきた人達がいて桜井古墳を作ったとなる
でもそれは一時的なものとして終わった
でも飯館村だったら焼畑の地名として佐須とかがありその技術を教えたのは安曇族だったとなる、それはその後継の八木氏とか犬飼(犬養)が地名化しているからである

そして安曇族は海人族であっても製鉄とか焼畑とか稲作でも様々な技術をもった集団でありこの土地に定着したのである
でも製鉄だけだったら渡来人のツノガノアラシト系の津神社(つの)が点々と海岸沿いにあ松川浦の津神社でもツノミツ神社でありツノガノアラシト系だとなりこの産鉄族の一団は大平洋の海岸沿いを石巻まで行き北上川を渡り登米までその跡を残している
それは明確なのである、でもこの産鉄族はその土地に定着したとはならない
ただ鉄の材料求めて北進したとなる

一方安曇族は綿津見神社とか山津見神社は面的に広がっている、ある土地に土着したのである、だから面的に綿津見神社と対成す山津見神社がやたら多いのである
飯館村の山津見神社は総本山のようになっているが佐須にありこれは焼畑地名なのであるただこの安曇族のことは良くわからないのである、物部氏でもそうである
それは歴史的には大和政権が成立したとき正式の文書には残らなかったとなる
でも神社としてはこれだけ多く残されているのである
それも原町地区に多いのである

日本武尊は上総かみつふさより転じて、陸奥国に入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷えみしの支配地に入られた。蝦夷の首領島津神しまつかみ・国津神(くにつかみたち)が、竹水門(たけのみなと)に集まって防ごうとしていた。しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで、「君のお顔を拝見すると、人よりすぐれておられます

このヤマトタケルの東征伝説は安曇族の移住を下敷きにしている、安曇族が入り定着した地域なのである、東海地域に多く相馬地区でも原町地区に綿津見神社が眼だって多いからである、それは物部氏と一体化してこの地に勢力をもったのである
竹水門が(たけみなと)が原町だとふる説もある

淡路島・四国・隠岐島・九州・壱岐島・対馬・佐渡島・本州を生み、それから六つの小島を生み、その後に今度はさまざまな神々を生んだ

底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神の「三柱の綿津見神」について、『古事記』の本文には、阿曇連が祖神として奉斎する神で、阿曇連は綿津見神の子、宇都志日金析命の子孫であると記されている。この三柱は同時に生まれた上箇之男命・中箇之男命・底箇之男命の「墨江之三前大神」(住吉大社の祭神)と対称をなしている。

島を産んだというとき島を渡る海人族をイメージする、船を操作できる技術をもっていたのが海人族であり安曇族だったのである
海中にくぐり潜水して海の物をとるのが海人族である、だから海を三分割していた
それは海人族でしかありえない神話である
日本建国神話の下敷きとして海人族の安曇族などが深くかかわっていたのである
竹水門とはタカであり多珂神社がありこれは主要な神社であり原町区の海岸の方にある

阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)がありこの阿太は安達太良や安達の地名と同源である。安積は安曇族と関係しているとなると海人族の宗像市などともに九州から出雲瀬戸内海と海人族の跡は残っているからそれらと一緒に草原の地名も移動したのである。意富(オオ)氏と「阿太加夜神社」は草(カヤ)原という地名はセットととなって武蔵に移動して陸奥の真野郷に移動した。
http://musubu.jp/manokayagimotoketa.html

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ここに鹿屋(伽耶)と安曇がある




讃岐の那加郡に良野(吉野)真野郷があり行方郡にも吉名郷と真野郷がある。吉野と吉名はにている。物部吉名と言う人がいたからこれから名をとっている。安芸国の佐伯郡に山懸(やまがた)郡に宇岐郷がありこれは山形県の置賜(オキタマ)郡と関係があるのか置賜は浮田だという説がある

ここの吉名郷は小高区あり真野郷ではない、とすると桜井古墳には物部系の首長のような人が葬られているのかとなる
安曇族のことを前に書いたが原町区とかに綿津見神社が多すぎる、そして物部氏と一体だというとき物部吉名という人がいて吉名郷がある

そして鹿島地区(真野)には綿津見神社が見ていない!

一つくらいはあったかもしれないが見かけないのである、これはなぜなのか?
それは大和政権の毛野系の前からあり物部と安曇族が一体化していて対立していたのか?そして大和政権が本格的に進出してきたとき浮田国造が中央から配置されて官人も派遣された、その中に大伴一族がいた、それは中央政権を担う部族であった
そこで鹿島区の真野の前方後円墳が作られた、そこに中央から派遣されて服属するということで金銅双魚佩がその土地の支配者に賜ったとなる
つまり大和政権が進出するとき原町区ではなくまず浮田国造が置かれた所を拠点として
支配下に置いたのである、桜井古墳のある原町区は後で支配地域に入った
そこはすぐには支配地域に入れなかった、何か蝦夷なのか在地勢力があり入れなかったとなる、そこで真野地区に浮田国造の後継としての真野地区に進出して支配したのである
もう一つは今の原町区と真野地区にまたがる所に一大鉄生産場がありその麓に泉廃寺跡があり大和政権の官人が管理した、鉄をとるために管理したとなる

みちのくの真野の草原(かやはら)遠ければ面影にして見ゆというものを 笠女郎

この歌はまさに真野地区までが大和政権の支配下に入ったと境界を示すものとして歌われたのである

そしてまた草原(かやはら)の不思議は葦から鉄がとれるということなのである

その製鉄材料は、葦や芳の根に 鈴状に付着した カッ鉄鉱(高師小僧)で、その融解温度は 400度から始まるが、諏訪地方は 縄文土器の産地であり、その焼成温度は 800度を 4時間以上必要としたから、製鉄に必要な 諸条件は 十分満たしているというのだ。

諏訪大社の縁起書に『諏訪大明神絵詞(えことば)』という絵巻があり、その詞書(ことばがき)に「洩矢(もりや)の悪賊神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持してあらそひ、明神は藤の枝を取りて是を伏し給ふ」とある

建御名方神は諏訪に逃げて来たのではなく、「諏訪」が「鉄の場」であること。また、古くからの製鉄を行っている洩矢神がいることも知っていて、やって来たのであろう

http://tokyox.matrix.jp/forum/discussion/373/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%81%AE%E8%A3%BD%E9%89%84%E9%81%BA%E8%B7%A1-%E9%89%84%E3%81%AE%E6%B0%8F%E6%97%8F/p3

諏訪神社もまた多い、これも鉄に由来している
その草原というとき萱とはまた葦であり鉄と関係していたのである
それは猪苗代湖畔にも白河街道の福良とから地名として残されている
鉄を求めて渡来人とかが来て地名にしたものが多いのである

そして草原というときカヤハラになるがカヤは伽耶国に通じていて国名だとなる
なぜなら駒原とか栗原とかあれば栗とは高句麗の句麗になるからである
新地の駒が岳もそうである、だから草原の草がカヤが伽耶国に由来しているといっても不自然ではないのである

東日本には高句麗からの渡来人に関する遺跡が多く残り、高句麗の墓制である積石塚が長野県や山梨県、群馬県に多く見られる。リンク特に長野県の大室古墳群は積石塚の一大集積地である。東日本は大和朝廷から命ぜられて渡来人が開墾したところも多い。埼玉県には716年に高麗郡が作られ高麗神社、聖天院(高麗王若光の墓)などが残る。また、神奈川県にはその高麗王若光が上陸したとされる高麗山、高来神社がある。関東南部の古墳からも高句麗系の遺跡が多く出る。

だから草原とはただ萱が茂っている場所ではない、それは鉄を意味していたり国も意味していたりしていたのである
こうして真野の草原は大和政権の支配地域に編入された地位として中央の奈良に知られたのである、一つの政治的意味ある歌だったのである
それは桜井古墳のある原町地区は大和政権の支配地域にならず抵抗があった
そこには物部氏と安曇族が一体化した地域であった、先住民の勢力がありそこで真野地区が浮田国造としてまず中央の官人を送り大伴氏が有力な支配者となった
中央と結びついた地域となった、だからこそ真野の草原の歌はこの地域が大和政権の支配地域になったという宣言の歌でもあったとなる

苦麻以南である多珂国は常陸国に編入され、長塚以北は陸奥国に編入された

苦麻(くま)村までは道の尻でありその向こうは浪江町であり染羽国造の領域であった
つまりまだ大和政権の支配下に入っていない地域だった
だから集中的に真野郷に中央で力をそそいだ、そこが大伴氏が中心になっていた
そして浮田国造が宇多郡に分割されたときそこは毛野氏の支配が残った
でも桜井古墳がある方には毛野氏の勢力が及ばないで賜姓もなかったとなる
何か桜井古墳には在地の勢力があり中央から毛野氏系統を任命しても宇多郡には及んだが原町区の方には及ばなかったとなる
ただ桜井古墳には誰が葬られているのかはわからない、二人だとすると親子説があり二代でもその地域の首長だったともなる

倭建命東征に関して史料に見えるわけでもないが、吉備本宗の吉備武彦と同様に、吉備一族として同東征に随行して陸奥まで行き、その途上、陸奥国宇多(宇太)郡あたりに定着して浮田国造の祖になったとみられる

浮田につながる宇多郡のウタは、上野国西南部の甘楽郡有只郷と同訓だと『古代地名語源辞典』は指摘する。これは、浮田国造の出自からいって納得ができよう
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/kimikobe1.htm

吉備津彦は会津にも入っているから会津から浜通りの方に入ってきたともみる
日本海側から山の方が先進地域であり交通の便がいいから古代にはそっちの方から浜通りに入ってきたとなる、茨城県その後に大和政権が入り武力で支配した
毛野氏がかえって浮田国造でも宇多郡の方に支配して原町の桜井古墳の方ではなかった
そこで賜姓されているからである

真野の草原は境界として歌われた、境界となるのは重要である
地理的境界があり行政的境界もあるが地理的境界は自然境界であり行政境界と一致することがある、ライン河は地理的境界であり行政的境界にもなる
なぜならライン河を挟んでゲルマン人が蟠踞して異質な世界があったからである
大陸では河が境界になりやすい、平坦な地で区切るものがないからである
そして川を渡ることは難儀であり防衛線になっていたのである

ここからのつづきです


陸奥真野の草原の歌の謎
(草原は本当に萱原だったのか、その疑問を解明)
http://www.musubu.jp/kashimakayaharagimon1.htm



posted by 天華 at 16:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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