古殿からいわきへ自転車の旅の詩(新年の詩)
(フタバスズキ竜と浜通り)
古殿からいわきの浜へ
古殿から御斎所峠を下る
一心に自転車で走り下る
鶏頭が赤く燃え咲く
我が心も赤く燃える
下りきって川に出た
水は透明に澄んでいる
そんな所で石を探す人がいた
十万にもなる石があるとか・・
その眼は卑しい、豚の眼にもなる
常に人は金を求める
清浄な自然にも金を求める
その清流を鮎が上り死ぬ
落鮎はここで短い命を終える
その清らかな水に命を終える
さらに遠野を回り農夫がいた
そして太平洋に出た
広い広い大平洋よ
フタバスズキリュウが波を切って泳ぐ
魚が群れて泳ぎ海竜が首を伸ばして
ぐいぐい力強く泳ぐ
その姿は神の業の快挙だ
悠々と波を切って泳ぐ
それは太古の夢だったのか
その姿は消えて化石となり億年眠る
大きなアンモナイトも積み重なり眠る
ああ 卑しい人間よ
その目は何を見るのか
その目は濁りもう美を見ない
大いなる自然の美を見ない
時に大いなる自然はノワの箱舟のように
世の穢れを洪水で押し流すのか
そして再び太古の自然が蘇る
雄大な自然の中にありあまる幸を得て生きる
人間の業の原発は万年の災いを残した
プルトニウムは二万年消えない
億年の地史の中にそれは残る
人間の技は災(わざ)いを残す
そこに人間を住めなくした
私は海岸にテントを張り
朝に海に太陽を輝き昇るのを見る
撫子が咲いていわきの浜を去る
その海岸線を軽快に走り去って行く
かなたに鴎が飛んでゆく
白波が寄せてひびき広々として
海岸線はどこまでもつづいている
古殿から御斎所峠を下る
一心に自転車で走り下る
鶏頭が赤く燃え咲く
我が心も赤く燃える
下りきって川に出た
水は透明に澄んでいる
そんな所で石を探す人がいた
十万にもなる石があるとか・・
その眼は卑しい、豚の眼にもなる
常に人は金を求める
清浄な自然にも金を求める
その清流を鮎が上り死ぬ
落鮎はここで短い命を終える
その清らかな水に命を終える
さらに遠野を回り農夫がいた
そして太平洋に出た
広い広い大平洋よ
フタバスズキリュウが波を切って泳ぐ
魚が群れて泳ぎ海竜が首を伸ばして
ぐいぐい力強く泳ぐ
その姿は神の業の快挙だ
悠々と波を切って泳ぐ
それは太古の夢だったのか
その姿は消えて化石となり億年眠る
大きなアンモナイトも積み重なり眠る
ああ 卑しい人間よ
その目は何を見るのか
その目は濁りもう美を見ない
大いなる自然の美を見ない
時に大いなる自然はノワの箱舟のように
世の穢れを洪水で押し流すのか
そして再び太古の自然が蘇る
雄大な自然の中にありあまる幸を得て生きる
人間の業の原発は万年の災いを残した
プルトニウムは二万年消えない
億年の地史の中にそれは残る
人間の技は災(わざ)いを残す
そこに人間を住めなくした
私は海岸にテントを張り
朝に海に太陽を輝き昇るのを見る
撫子が咲いていわきの浜を去る
その海岸線を軽快に走り去って行く
かなたに鴎が飛んでゆく
白波が寄せてひびき広々として
海岸線はどこまでもつづいている
庚平7(1064)年御冷泉天皇の御代、東北の地に阿部一族が乱を起した時、源頼義が一子八幡太郎義家を供に討伐の兵を進めた。戦い利あらず一時この地にあって再挙の機をうかがいはるかに石清水八幡宮に戦勝を祈願した。ほどなくみごと勝利をおさめたがこれを記念し、部下の福田次郎(石川氏の祖)に命じて石清水八幡をこの地に遷座しまいらせたといわれる。代々の領主が隠居入道し、修験となって八幡を守護、古記殿を館としていたのでこの地を古殿と呼ぶようになったという。このゆかりの名にあやかって古殿町と名づけられた。
古殿八幡に古くから伝わる「流鏑馬(やぶさめ)」の行事がある。狩り装束に身を固め鏑矢を背に弓を左手に持った三人の武士が疾走すろ馬上から一の矢、二の矢、三の矢をはなつ、この行事は無形文化財として保護され秋たけなわの十月の第二日曜日に毎年行なわれる。
https://www.town.furudono.fukushima.jp/kanko-dentou-bunka/see/shiseki/furudonochoushi/rekishibunka/110
元応(げんおう、(旧字体:元應)は、日本の元号の一つ。文保の後、元亨の前。1319年から1321年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時
市神の碑といわれる12号塔は、碑面を詳細に検すると、「市神」等の現文字は新しく、中央上部に種子、「市神」の字として重複して「元応元大才己未□月□日」とかすかに旧銘が見える。中世の古い板碑に、後世市神等を追刻したことがわかる。荷市場(にいちば)という
鎌倉岳は標高669mあり、古殿町の松川地区に高くそびえる山です。
その名前の歴史は古く、遠い昔、鎌倉より嫁いできた姫が故郷恋しさに、「私の慕わしい鎌倉はどちらの方にあるのだろう」と聞いたので、村人たちが「この 山に登れば鎌倉が見える」と、姫と一緒にこの山に登ったことが由来とも言われています。
市神を秋にたずぬやいわきへと
古殿に鎌倉岳や姫あわれ山間深く秋となるかな
古殿というと鎌倉と関係していたのか、市神とかあったがこれも古いものだった
鎌倉時代となると東北地方に鎌倉から移住した武士が多い、南相馬市の鹿島区の岩松氏は有名である、最初に南相馬市を支配したのは岩松氏だったからである
ただその一族が幼児まで皆殺しとなったので伝説として残っている
だからこの伝説も信憑性があるとなる
鎌倉という名をつけたのだからそうなる
ただ地名はいろいろあり鎌倉が必ずしも鎌倉時代の鎌倉とは違うことがある
なぜなら宮城県でも丸森にも鎌倉があったからだ、他にもある、
神の御座所である「神座(かみくら)」が転じたものとする説などが有力らしい。しかし日本語の性質からして、「かまどくら」が「かまくら」になったり、「かみくら」が「かまくら」になることは難しいのではないか。「かまどくら」はなかなか変容することが難しいし、「かみくら」なら、「かんくら」から「かぐら」と変容するのが普通だろう。
○おそらく、「かまくら」の民俗行事と鎌倉地名とは同じ語源ではないだろうか。かまくら・鎌倉の語は極めて古い。鎌倉時代に唐突に鎌倉の語が成立したわけではない
薪樵る鎌倉山の木垂る木をまつと汝が言はば恋ひつつやあらむ(譬喩歌:3433)
https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519941371.html
この流鏑馬とかは鎌倉から武士が伝えたものとするとなんらか関係あるのか、地名の問題は鎌倉とあれば鎌倉時代とか連想する、そして鎌倉の地名があって伝説がこじつけられる地名伝説にはそういうのが多いのである、実際は無味乾燥な地形とかに由来しているのが多いのである
だからすでに万葉時代にカマクラの地名が歌われている、それは地形的なものと関係している、つまり注意すべきは鎌倉という地名は鎌倉時代より古くからあったということである、だから鎌倉岳がいつそう名付けられたのか問題になる、地名は古代からのものがあり古いのが多いからである
ここから一路いわき市の方へ自転車で下った、下り坂だから気持ち良かった
その時電動自転車ではなかった、これが坂だったら上るのが大変なことになる
ただあの辺を確かに行ったのだが記憶が薄れている
でも石川郡とかであり山の中に万屋(よろずや)がありそこでご飯と味噌汁を御馳走になったのである、今時そんなことをする人はいない、そこは山の中でまた万屋が残っていたのである、それが記憶として残っている
自転車で旅して親切にされたことはない、胡散臭い奴だとなって宿にも泊まりにくいのである
何か江戸時代辺りでも旅は簡単にできない、殺された人もいるというのも伝えられているそれはよそ者を殺しても犯人がとがめられないという村社会だからそうなった
江戸時代のことを回想して美化しているが実際はそんなものではないとなる
ともかく市神の碑のある場所から一心に御斎所街道を下った
現在はトンネルを通って峠を越えるが、かつては山腹の崖に近い斜面を上り下りし、屈曲した狭い道を行き来したようだ。「七曲」「大曲」。一度踏み外すと、約100メートル下の谷底まで転げ落ちるほどの難所に苦慮した人が、畏敬の念を抱き名付けた峠の呼称が今も残る。
御斎所街道・全3回(3)】 難所続いた古道の名残
https://www.minyu-net.com/serial/kaidou/FM20160221-051701.php
この辺では飯館村の大倉から草野の方に行く古い道は本当に七曲の細い道だった
どこでも山の道はくねくね曲がっていたのである、そもそも直線の道を作ることは日本では山が多いからむずかしかったのである
今は曲がった道ではなく新しい真っすぐな道ができているから車でも行きやすい
古い道はもう誰も通らない道となった、古い道がここでもありそれはわからない
そうして下りきった所で遠野に出て鮫川が流れている、その水は清らかである
そこで落鮎が食べれる場所があった、落鮎が清い水に死んでいた
そこで合ったのは変わった石を探していた人だった、何十万になるとか言っていた
そんな高い石があるのかと思った、その人の眼は癒しと見た
人間はともかく金になることだけを追求していると卑しくなる
自然の景観は無料で鑑賞できる、でも金になることを追及していると自然の美も見えなくなる
秋の水流れて清し遠野かな
遠野という地名の由来は何なのか
「トオ」は「峠」の詰まったもの。【JR・第三セクター 全駅ルーツ事典 村石利夫 東京堂出版】
「遠閉伊(とほのへい)」の下略。又は、「タヲ(撓んだ地形)」+「ノ(野)」の転か。アイヌ語説は付会。【市町村名語源辞典 溝手理太郎 東京堂出版】
以下のような様々な説があると言われる。【岩手県庁のサイトより】
(1) 閉伊の先、閉伊の奥の意味で呼んだ汎称「遠閉伊」の野原という意味
(2) 山間の遠い野
(3) アイヌ語のト(沼)ヌプ(野)
(4) 「東野」の意味で東方の野
(5) 「撓野(タワノ)」の転訛で、たわんだ地形の盆地
遠い野とか奥の野というときいわき市街からは相当遠いから合っている
ただこれも何か遠いということで感じからイメージするが地名は無味乾燥な地形とかに由来しているのが多い、でも何か地形的にもあっている
でもどうして遠野と名付けられたのか?そこに住んだ人がわざわざ遠い野とは言わない
ただ遠野という地名はその辺りの小字地名でありそれが大きな地名となったことはありうる
その遠野からいわきの浜に出た、そこでテントを張り一夜寝た、起きたら海から朝日が昇る、その浜に撫子が咲いていた、それが何かいわき市にふさわしかった
やはり山より海に出るのがふさわしい、浜通りの道は常に海に通じいる
山にも通じているがどうしても海に向かっているのである
そうしてその海は黒潮と親潮の交わる地点であり波立海岸には小さな熱帯魚が泳いでいたそれを追って千葉県から来た人がいたのである
さらに太古になるとフタバスズキ竜がいた、これを見たら驚嘆する
浜通りは太古には深く海が入り込んでいた、だから南相馬市の鹿島区の真野川上流から
サンゴの化石が発見されたりする
またアンモナイトの化石が集積している所が博物館にもなっている
それは海からかなり離れて遠いのである、だから太古は山の方まで海になっていたのである、だから化石が山の方に埋もれていたとなる
このヒマラヤ山脈最高峰のエベレスト山では、アンモナイトなどの貝の化石が見つかります。”海の生物”の化石が、地球上で最も海から遠く離れた場所で見つかるのです。
これも信じられないとなる、それだけ地球自体が動き隆起して変動しているのである
だからトンガで海底火山が爆発したように地球常に変動しているのである
津浪でも元の入江が再現されたことに驚いた、田んぼだったところは湿地帯になったのである、釧路湿原のように一部なったのである
地球が変動するということは日本列島が沈没するというのも嘘ではないのである
沈没しなくても日本列島は変化する、陸地が海になり海に新しい島ができて陸地が広がるそういう信じられないドラマが地球規模では起きるのである
とにかく自分の旅をふりかえっていかに記憶する旅が大事かわかる
だから自転車の旅は記憶に残る、あそこを懸命に長い坂を上ったとか下ったとか覚えている、蘇るのである、そうして今俳句や短歌や詩にしている
もし車とかバイクだと記憶されないから記憶が蘇らないのである、するとその労力も無駄だったとなってしまうのである、つまり時間の無駄だったということに気づくのである
旅でもその収穫を得るにはやはり記憶する旅をしないと大損だったと気づく
なぜなら老人になるときつい旅はできなくなるからだ
老人は記憶に生きるようになるからだ、とにかく人間は記憶することが大事なのである
ただ記録と記憶はまた違っている、記録しても記憶されないこともある
その時の実感は記録して記憶とならず忘れることがある
ただ記録したもで記憶が蘇ることはある、だから記録も大事なのである
30年とすぎれば何かあいまいとなりどこを通って行ったのかもわからなくなる
だからこそ記憶する旅をしないと旅したことにもならないとなり大損だったとなるのである