短日、冬の日、晩菊、冬の菊、葉牡丹(自転車故障で原町から歩く)
(歩いて見る風景が新鮮)
ここはいつも見ていたけど歩いて見た感じは違っていたのである
歩くということはやはり地についているとかなり見え方も違ってくるのである
木の根っこここに残りて冬に入る
冬の蝶一羽見つけ今日も暮る
短日や二里ほど歩み帰りけり
短日や二里ほど歩む原町に
晩菊や二里ほど歩む里の道
庭広く竹伸び映ゆる紅葉かな
墓地あわれ歩み来たりて残る菊
前畑に野菜の実り冬の菊
紫と白の葉牡丹前畑に
蔵ありて葉牡丹大きく農家かな
葉牡丹や大柄な女農家の出
長き道一人歩いて冬薊
冬の日や一坂越えて次の町
前畑に野菜実るや冬の菊
冬日さし体に熱気馬走る
蟻一匹冬の日に出て我も歩む
夕陽さし赤さを増しぬ紅葉かな
誰が眠る桜井古墳冬の日やここに鎮まり始祖ともなりぬ
公園に樹々の静かやヘンチあり冬の日さして我が座るかな
自転車が故障した、自分で直せなかった、チェーンがはずれたのである
普通なら直せるがこの自転車が直せなかった
自転車は故障すると歩くほかなくなるから大変である、幸い原町は二里ほど8キロくらいだから歩いて戻ることができた
ただそのことで歩いたら見る風景が違っていた、それで俳句ができた
人間は歩いてみる風景と自転車で見る風景は違う、自転車で見えないものが見えた
ましてやバイクと車になるとほとんど回りを見ないで突っ走るだけになる
通り過ぎるごたけになる、現代に旅がなくなったというとき歩くことがなくなったからである
旅とは歩きながら物に感じることである、風景と一体化することである
車でもバイクでも何か風景を切り裂く感じになる
自然と風景と一体化するものではないのだ
私は旅を日本なら隈なくしたとしても歩いた旅をしていないから本当に旅したとはならないのである、ただ歩く旅となると現代は相当に苦労になる、どうしても国道を行くことになりすると車の洪水の中を行くからいくら歩くとしても車のない時代とは違う
車がない所を歩くと人間回復になる
それを感じたのは相馬市から玉野村から霊山へ行く道である、中央高速道ができたので
車が全く通らないのである、それでその道が不思議だった、サイクリングロードのようになったからである、まさに江戸時代の街道になった、中村街道というものがあったからそこに戻ったとなる
現代に失われたものがいろいろあるが旅もその一つである、現代ほど移動している時代もなけいから旅をしていると思っているがしていないのである
旅とは本来は歩く旅だったからである、第一歩くこと自体が失われているのだ
歩くことが新鮮な経験になっているのが現代である
現代では歩く旅となると得難い経験になる、でも自分自身でも歩いた旅はしていなのである
だから近くでもは歩いてみると見えないものが見えて来る、ただ歩くことは容易ではない国道は歩いても車の洪水にのみこまれてしまうからだ
ともかく文明が発達して機械文明になると必ず何か失われたものが生まれてそれをなつかしむとかとりもどそうとする、その反動が生まれる、当然東京とから地方へ住みたいという人も増えてくる、人間の五感をとりもどそうとする、旅がなくなったというとき本当の旅をしたいとなり歩く旅をする人もまれにいる
今は旅はない、温泉に泊まって休養するとかはある、でも旅は近くでも歩くと旅になるのである、田舎だったらそうなる、ただ温泉で休養するのはつまらないとなる
ある短い区間でも歩くということを経験することでも旅になる
ただ車でもバイクでも通り過ぎるだけでは経験として残らない、ただ走るという快感だけである、それは後に記憶として残らないのである
秋の暮歩いて去りし人思ふ
上り来て峠の茶屋や秋の暮