2021年11月20日

なぜ南相馬市と相馬市に綿津見神社と山津見神社が多いのか?(1ー前編) ( 八木沢峠ー八木平ー犬養(犬飼)(いぬかい)は姓名であり安曇氏と同族だった)


なぜ南相馬市と相馬市に綿津見神社と山津見神社が多いのか?(1ー前編)

( 八木沢峠ー八木平ー犬養(犬飼)(いぬかい)は姓名であり安曇氏と同族だった)

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八木沢峠
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犬養⇒犬飼(霊山町)

●古事記の神話を作ったのは海人族の安曇氏などである

名前にワタツミとつく神を祖神としている氏族は、阿曇連に限らず、安曇宿禰、海犬養、凡海連、凡海連といった海人の氏族がいる(『新撰姓氏録』)。ワタツミの神が海人の諸氏族によって広範囲にわたって信仰されていたことがうかがわれる。

践祚大嘗祭において阿曇氏が神膳奉仕の職掌を担っていることの由来を物語るものと捉える説もある。また、綿津見神が火遠理命に娘の二柱の神を献上する話は、山(地上)を支配する大山津見神が天孫・邇々芸命に娘の二柱の神を献上する話と対応しており、この二つの神話は、山(地上)と海との両者の呪力あるいは統治の権威が、天孫に併合されることを示す構想に基づくものと解されている。
http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/shinmei/watatsuminokami/

水の底で身体を洗ったときに生まれた神が底津綿津身神(ソコツワタツミノカミ)。次に底筒之男命(ソコツツノオノミコト)。
中ほどで成った神が中津綿津身神(ナカツワタツミノカミ)。次に中筒之男命(ナカツツノオノミコト)。
水の上のほうで身体を洗ったときに生まれた神が上津綿津身神(ウワツワタツミノカミ)。次に上筒之男命(ウワツツノオノミコト)。

ワダツミ神の宮殿へ
(塩椎神は言いました)
「わたしが今から、この船を押して流します。
しばらくそのまま進んで行ってください。
味し御路(良い海流?)があり、その海流に乗って行けば、
魚の鱗(ウロコ)のように家を並べた宮殿があります。
それは綿津見神(ワダツミ神)の宮殿です……
https://nihonsinwa.com/page/1827.html

伊邪那岐命と伊邪那美命の二人は引き続き神をお生みになります。

風の神、名は志那都比古神(シナツヒコの神)をお生みになり、
次に木の神、名は久久能智神(ククノチの神)をお生みになり、
次に山の神、名は大山津見神(オホヤマツミの神)をお生みになり、
次に野の神、名は鹿屋野比賣神(カヤノヒメの神)をお生みになられました。

鹿屋野比賣神は、草の神です。名前の通り「萱」を神格化したものと思われます。「萱」は、油分を含むので水をはじきます。そして軽い。屋根の材料として便利な植物です

鳥飼、鵜飼、馬飼などの地名は、大和朝廷の時代に朝廷が飼っている動物の世話役が住んでいた所。当時の犬は愛玩用では無く警備のためだった。鳥飼とは愛玩用の白鳥を飼うこと。

 大王の身辺の警備をする豪族を門号氏族(もんごうしぞく)と言い、大伴氏などの武芸に秀でた豪族が努めた。門号氏族のなかに、三系統の犬飼の家が見られ、県(あがた)犬養氏、稚(わか)犬養氏、海(あま)犬養氏である。

 六世紀には朝廷は諸国に犬飼部をおかせた。これは諸国の皇室領地の屯倉の警備のため。奈良時代のはじめに朝廷の犬養は廃止。

古代豪族の八木氏は安曇氏と同族

海人族、海洋民族が渡ってきて日本の国造りの神話を作った
国生み神話などでもいかに海洋民が作ったか明確である

底津綿津身神(ソコツワタツミノカミ)。次に底筒之男命(ソコツツノオノミコト)。
中ほどで成った神が中津綿津身神(ナカツワタツミノカミ)。次に中筒之男命(ナカツツノオノミコト)。
水の上のほうで身体を洗ったときに生まれた神が上津綿津身神(ウワツワタツミノカミ)。次に上筒之男命(ウワツツノオノミコト)。



海の底を三つに分ける発想は海の中に潜り海の産物をとって生活していたからこそであるここには現実体験から生まれた生々しいものがあるからだ

海人族が海洋民がこうした径路で広がり日本に定着した、島伝いに来たことを示している小さな島を産んだというのはやはり島伝いに渡ってきた海人族だったからである
この海人族は世界に広げると世界の海岸沿いを渡ってきたともなる
陸の海岸沿いを渡りめぐりめぐって日本まで来たとなる
それは雄大な発想になるが海岸沿いだったら船で渡って行ける、そこに大きな川があるとその川を上って行く、長江とかなるとその上はチベットとかなるのである
山岳民族がいるとしたらまず海から川を上って定着したとなる
つまり海は古代では道であり川も道なのである
なぜなら古代では鬱蒼としたジャングルとか森でおおわれていて道がなかったからだ
だから海を道として川を道として渡る人々、海人族が海洋民が世界に広がったのである

●霊山町の八木ー犬養(犬飼)の地名は安曇族の関係である

大王の身辺の警備をする豪族を門号氏族(もんごうしぞく)と言い、大伴氏などの武芸に秀でた豪族が努めた。門号氏族のなかに、三系統の犬飼の家が見られ、県(あがた)犬養氏、稚(わか)犬養氏、海(あま)犬養氏である。

 六世紀には朝廷は諸国に犬飼部をおかせた。これは諸国の皇室領地の屯倉の警備のため奈良時代のはじめに朝廷の犬養は廃止

古代豪族の八木氏は安曇氏と同族

川が道にっていたという時真野川をさかのぼって行った海人族がいる、その径路に海人族が定着した、なぜなら栃窪村に山津見神社があり山の方に行くと山津見神社になる
宇多川沿いの山にも山津見神社が隠れるようにしてあった、それは小さい社である
鳥居だけあって隠されるように山津見の神の社があった
真野川をさかのぼる終点に山津見神社がありここは有名である
でも綿津見神社も飯館村にありこれは対になっている神社である

だから不思議だったのは松川浦に山津見という地名があり和田という地名がある
なぜここで二つが地名化しているのか?ここが海人族の上陸地点だったからである
なかなか地名になるのは記念となる場所であり地名の起源は古代にさかのぼることが多いからだ
綿津見神社が多いのは南相馬市の原町区と小高にもあるし相馬市にもある

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この図で福島県の綿津見神社は南相馬市と相馬市が大半である、何かもっと多い感じがする、とにかくここも綿津見神社なのかと神社を見ると実感的に多いからである
山津見神社は山の方に行くと多いのである
もう一つ注意すべきは静岡県が多いのである、そして桜井古墳の発掘された物に静岡県由来のものがある



ヤマトタケルが駿河で敵に欺かれ野原に連れ出されて焼き討ちにあうが、火打ち石で向火をつけて難を逃れたとする有名な説話である。欺かれたことを知ったヤマトタケルは、敵を焼き滅ぼしたので、この地が「焼津」」とよばれたことや、身につけていた剣が自然に鞘から抜け、草を薙ぎ払ったので、その剣を「草薙」と名付けた地名起源説話を
伝えている。



この説話は焼畑と関係している、野を焼き払うとか焼畑をイメージさせるからである
ヤマトタケルの伝説には安曇族の海人族が船で渡って入植したことから生まれている
古事記でももともと安曇族の海人族が作ったものであるからそもを基にヤマトタケルの神話が作られたのである
焼畑というとき海人族がもたらした農耕技術であったからだ
飯館村の佐須が焼畑地名だというのもそうである

この松川浦から霊山への道で重要なのは一族の姓が地名化していることである
なぜこれが重要かとなると安曇族が来たとしてその姓もないし伝承すらないのである
ただやたら神社だけが残されていて海人族のことが不明になったからである
神社にしてもただ神社だけがあり伝承がないからである
おそらく安曇氏の後継として犬養(いぬかい)氏がいて八木氏がいてそれが地名化した
犬養は間違いないのである、犬を飼うということも一つの技術であり羊とか馬とか家畜化するのと似ている

●安曇氏系統の犬養氏と八木氏の探求


八木沢神社ヤギサワジンジャ
新町の観音様
挿絵
全国
秋田の神社・寺院
横手市
御祭神※
大山祇命オオヤマヅミノミコ

駅から歩いて5分ほどの場所に八木沢神社がある。「帆船女神像の里」とも言われる神社だ。航海練習船の帆船日本丸の船首像「藍青(らんじょう)」と、姉妹船の海王丸の「紺青(こんじょう)」は、境内にあったご神木のケヤキが使われている。
https://www.asahi.com/articles/ASM2V52WWM2VUTIL02T.html

阿曇犬養連は、「海神大和多罪(おおわたつみ)命の三世孫(みつぎのひこ)、穂己都久
(ほこつく)命の後なり」

阿曇氏の発祥の地

筑前国糟屋郡安曇郷(福岡市東区和白・福岡県粕屋郡新宮町あたり)、志珂郷(福岡市東区
志賀島)を中心とした地域

式内名神大社志加海(しかわた)神社があり、神職は阿曇氏
4.安曇氏族の系列

阿曇連(あずみのむらじ)(または阿曇宿禰)
海犬養連(あまのいぬかいむらじ
凡海連(おおしあまのむらじ)
八木造(やぎのみやつこ)
阿曇犬養連(あづみのいぬかいのむらじ)

日本書紀によると「蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子(もろもろのみこたち)と群臣(まえつきみ
たち)とに勧めて、物部守屋大連を滅ぼさむことを謀る」とある。
589 年(当時の蝦夷との勢力関係において安曇氏は登場しない)
http://azuminorekishi.sakura.ne.jp/siryou.pdf

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大阪府岸和田市中井町

夜疑(やぎ)神社であり当て字でありこの字の方が古いのかもしれない、夜疑⇒八木になった

当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、当地は『倭名類聚抄』にある和泉国和泉郡の「八木郷」と推定され、当地に居住した「八木氏」が祖神を祀ったのが当社であると考えられています。

『新撰姓氏録』右京神別に和多罪豊玉彦命の子、布留多摩乃命の後裔であるという「八木造」が登載されており、和泉国には見えないもののこの氏族が当社を奉斎したものと思われます。

八木氏の祖神であり当社の御祭神である「布留多摩命」は海神である豊玉彦命の子であり、豊玉姫命と兄弟姉妹の関係にあたります。このことから八木氏は、同様に豊玉彦命を祖とする海人族「安曇氏」と同族であることが示唆されています。

『倭名類聚抄』にある和泉国和泉郡の「掃守郷」は「八木郷」に隣接していたと見られ、かつて掃守郷の氏神だった「兵主神社」(西之内町に鎮座)には境内社に豊玉姫命が祀られています。
https://jun-yu-roku.com/izumi-minami-nakai-yagi/

安曇族

477 右京 神別 地祇 安曇宿祢 宿祢   海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也
478 右京 神別 地祇 海犬養     海神綿積命之後也     236
479 右京 神別 地祇 凡海連 連   同神男穂高見命之後也     236
678 河内国 神別 地祇 安曇連 連   綿積神命児穂高見命之後也
611 摂津国 神別 地祇 阿曇犬養連 連   海神大和多羅命三世孫穂己都久命之後也  
610 摂津国 神別 地祇 凡海連 連 安曇宿祢同祖 綿積命六世孫小栲梨命之後也

宗像族

476 右京 神別 地祇 宗形朝臣 朝臣 大神朝臣同祖 吾田片隅命之後也     235
677 河内国 神別 地祇 宗形君     大国主命六世孫吾田片隅命之後也

素盞鳴尊八世孫、和邇君の租神。大国主神の六世の孫裔ともいう
宗像三女神の七代孫とする説もあり、 「新撰姓氏録」では「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也」とあり、宗形朝臣の祖。大神朝臣の祖。

阿雲犬養・倉海の息子は、穂高神社社家となっていて信州にいる

河内国には安曇氏族の八木造か゛いたことか゛分かっている。八木造は新撰姓氏録によると「和多罪豊玉彦命の児の布留多摩乃命の後」とあり、安曇氏の一族とされている。八木氏は河内国和泉郡八木郷(現 在の岸和田市八木地区)を本拠地としていたとのことて゛ある。この地域に式内社て゛ある夜疑(やき゛)神社 か゛あり、主祭神は布留多摩命て゛ある。布留多摩命は綿津見命の次男て゛あり、八木氏は安曇氏の一族と考 えて良いと思われる。しかし八木氏と安曇氏の関係は詳細不明て゛ある。また淡路島の八木村か゛八木氏の 故地て゛あるという説もある
http://www.tokyox.matrix.jp/forum/discussion/407/%E5%AE%89%E6%9B%87-%E7%B6%BF%E6%B4%A5%E8%A6%8B-%E5%BF%97%E8%B3%80%E6%B5%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE

安曇氏族の系列
  阿曇連(あずみのむらじ)(または阿曇宿禰)
  海犬養連(あまのいぬかいむらじ)
  凡海連(おおしあまのむらじ)
  八木造(やぎのみやつこ)
  阿曇犬養連(あづみのいぬかいのむらじ)
  
安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されており、安曇が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達し、更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達する。

C長門国(安曇族)
  下関市安園町富任 長門国豊浦團五十長凡海我孫2
  大津郡向津具村 八木家所有の畑地から有柄銅剣
  
  子市上安曇(かみあづま)・下安曇(しもあずま)
和名抄に會見郡安曇郷の記載あり、現在でもその地名が残る。
近隣には式内社宗像神社、高良神社があり、九州との関連が考えられる遺跡も散在する。
また上安曇には楽楽福神社があり、当社は鉄との関連が深い神社であることから、安曇氏と産鉄との関係も考慮できるかもしれない。

  http://houki.yonago-kodaisi.com/F-BG-azumi.html
  
安曇族は2〜3世紀の物部東征とともに大和へ進出。やがて物部の力が衰退して神功皇后の時代になると、安曇氏も新権力のもとで朝廷に服従する側にまわったと考えられます。綿津見三神が住吉三神という呼び名に変わったことがそれを象徴しているように思います。

安曇氏は朝廷に仕えながら各地の海人族を統率していましたが、401年に安曇連浜子が天皇暗殺を謀った罪によりその地位を追われます。律令時代には天皇の食事を司る内膳司長官を務め、また660年頃に安曇比羅夫が水軍を率いて百済救援へ向かい、白村江の戦いで戦死。その後安曇氏は中央から消えていきまし


その古墳時代の前期後半(4世紀頃)
に「大和」を支配したのは、弥生終末期に(2世紀後半)、「前方後方墳勢力」、すなわち「ワニ族」によって
駆逐された「奴国系倭人」、すなわち「安曇族集団」であったということである?!その「安曇族集団」が、「大
和」(と朝鮮半島南部)で蘇ったということか?!穿った見方かもしれないが、それが、例の「物部氏」、すなわ
ち、「日神(太陽)信仰」の「饒速日集団」であったのではないか?!そうとも、思われるのである?!

祭神が「木花咲耶姫」(伊予大三島の「大山祇神社」の祭神「大山積(祇)命」の子?)である
「富士山本宮浅間せんげん大社」等は、その「和邇氏(族)」の、東方への進出の事績
http://www.gakuyou.jp/doumotosan/sisakubannimukete2-7.pdf

この「倭国」ですが、一般には「安曇(あずみ)氏」といわれる日本列島先住民である縄文海人族で、「磐余彦(イワレヒコ)」、すなわち、のちの「神武天皇」の出身母体である氏族ですが、後に「磐井の乱」を起こして大和朝と対立した地方支国です。

環太平洋文明圏縄文王国(安曇氏)→後期縄文王国(和田橘氏)→弥生時代
(海部氏・徐福系物部氏、邪馬台国)→大和朝廷(応神以降、秦氏)。

前期縄文王家の安曇氏の中

核は、後に東北側の寒冷化に伴い、列島の中心で黒曜石が取れ、自然の恵み豊
かな土地だった諏訪に隠れた。これが、国譲りに於いて、タケミナカタが諏訪
に追いやられたこととして暗示されている。
http://g-village.net/iyasaka369/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%B5%B7%E4%BA%BA%E3%81%A8%E5
%BC%A5%E7%94%9F%E6%B5%B7%E4%BA%BA.pdf

安曇族は熊襲、隼人、宗像、出雲、阿蘇多氏と血縁であろう。さらに秦氏、尾張氏、多氏、中臣氏、物部氏とも海運業の上で提携していたであろう。
天武朝の役人ともなった。阿曇連が記録に見える。右京神別。宿禰。
また同じ宿禰に海犬養連(あまいぬかいむらじ)、凡海(おほしあま)連がいる。
海犬養連はおそらく隼人である。隼人は出自として証せないので安曇氏を名乗った
http://www.oct-net.ne.jp/hatahata/azumino.html

和邇氏の実際の始祖は和邇日子押人命だと思われ(孝昭天皇後裔は後世の仮冒)、元々の姓は「鰐積」(安曇、穂積、出雲積などと同じ)だったと思われます。だからこそ、春日臣から和邇を名乗る者が出たのだと思います。「鰐」をシンボルとする海神系の氏族集団でしたので、本来は安曇同族で、綿津見豊玉彦が遠祖であったはずです。

まず、海の民は「まっすぐ伸びた巨木」を求めていたということだ。もちろん、木を刳(く)り抜いて船(丸木舟)を造るためだ。また、海の民は山を目印に航海をした(山アテ)ので、山の神を大切に祀ってきた。

海人族はこの辰砂を始め鉄や銅などの産出地を見極める技術や冶金術(鉱物から金属を取り出し精製する技術)をもっていたと考えられます。安曇の祖は穂高見命またの名を宇都志日金析命とあり、金カネの字があてられています。後裔の凡海氏はその冶金の技術を買われて陸奥国に派遣されています。
https://lifeskills.amebaownd.com/posts/11146489

『新撰姓氏録』によれば、和多罪豊玉彦命(わたつみとよたまひこのみこと)の児神、布留多摩乃命(ふるたまのみこと)の後裔とされる。一族の始祖は布留多摩命の孫で、椎根津彦とは兄弟関係にある八玉彦命。

やぎ神社

「八木」の氏名(うじな)は河内国和泉郡(後に和泉国和泉郡)八木郷(現大阪府岸和田市八木地区)の地名に基づくとされるが、現奈良県橿原市八木町に八木寺(廃寺)があり、その創建は奈良時代に遡るものと見られるので、これを八木氏の氏寺と見て同地一帯に一族が蟠踞した可能性を説く説もある。また、一族で東大寺の写経生であった八木宮主が氏神の祭りを理由に休暇を請うた記録が『正倉院文書』に残されており、この氏神を鴨大神(現高鴨神社)と見て、その鎮座地である大和国葛上郡(現奈良県御所市)及びその南隣の同国宇智郡(現同県五條市)に住した一族がいた可能性も指摘されている。




安曇氏は早い時期に歴史から消えた、それは謎であるがこの辺では伝承もなく何も伝えられていない

しかし地名がその歴史を記していた、飯館村に行く八木沢峠とか霊山の八木平とか犬養は安曇氏と同族であり姓名だった、古代には姓名がそのまま地名化することがある
安曇は長野県で安曇として地名を残している
ただ南相馬市とか相馬市では安曇氏の関連は見いだせないがその後続として同族の八木氏とか犬養氏がこの辺に移住して農業などにたづさわっていたのである
明確なのは松川浦に山津見神社があり和田があるこの和田は綿津見(わたつみ)のことである、つまりそこが上陸地点だったことがわかる、そこから宇多川を上り玉野に出て
霊山町まで行った、途中に八木平があり霊山を越えると犬養がある
佐須までは真野川をさかのぼり行った、途中の栃窪村に山津見神社があり大倉に山津見神社がある、また原町の方から八木沢峠がありこれは八木氏と関係していて名付けられた
地形地名とは違っていたのである

ともかくなぜこれほど綿津見神社神社や山津見神社が多いのにこのことが見逃されていたそれは安曇氏とかの歴史が途絶えたからである、そして神社だけは伝承もなくこの辺に多く残されたのである
つまり神社だけが歴史の証拠として残されていたのである
そして地名が歴史の証拠であった、その外に解明する方法がないのである
posted by 老鶯 at 10:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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