冬の日暮れぬ(山茶花、秋の雷、秋の暮、・・・我が家で茶を飲む)
ここは沼ではなかった、たまたま雨水がたまって沼になった
後ろは林である
田舎町三人集まり秋の雷
老ゆるともなお閃くや秋の雷
空家の庭烏とまりて秋の暮
日のさして山茶花赤し蔵に映ゆ
冬の日に茶一杯飲み安らぎぬ一人なりしも我が家なるかな
我が一人姉と母とに茶を献げ家を守るや冬の日暮れぬ
我が家に心静かに茶一杯飲むべかりけり老いにけるかな
家の跡土地の狭しもここに住む人し思わむ冬の日暮れぬ
近くにも忘れられしもこの家に住む人思ふ冬の日暮れぬ
新たにめ沼になりぬる細枝を映してあわれ冬の日暮れぬ
原町の方に今日行ったけど冬になっていた、秋の雷は数日前に一回だけ鳴ったからめずらしかった、空家の庭に烏がとまっているのも何か現代の風景である
家に帰ったら茶を飲む、いかにも冬らしいとなる、やはり家族はみんないなくなっても
まだ家があるとなり落ち着くともなる、姉と母とには熱いお茶を献げる
そこにまた死んでも継続して家族があるともなる
ただ正直何の反応もないのだから物足りないとなる
とにかく空家が増えている、私の回りは特に空家が増えた、最近一人死んだ家は農家であり庭が広いからここも空き地になる、家は壊されるみたいだ
狭い土地に家が建っていたところも人がみんな死んで空き地になった
そこは土地が狭い、庭もなかった、そして今になると住んでいる人を偲ぶのだがそれもその人がどういう人だったかわかちなくなった
そのおじいさんは建具屋であり仏壇を作った人である、でもその人はずいぶん前に死んでいるから記憶も定かではない、その後はタクシー運転手した人が住んでいたがその人も妻も死んだ、すると何が記憶されているのかとなるとないのである
人間はそれぞれ長く住んでいても意外と死ぬと記憶されることがないのである
その人の生きた記念とは何なのか?それも何かほとんどないのである
人間は生きている時なにかやと話題になるが死んだら話題にもならない
全く忘れられてしまうのが普通なのである
要するに長く記憶されている人は本当にまれである、ほとんどの人は忘却される
家族でも死んで十年以上過ぎると記憶も定かでなくなる
でも私の場合は姉と母とは60年も子供の時から一緒にいたので忘れられないのである
ともかく今度は本当に冬になった、季節が変わった、冬はやはり冬でいい、冬は田舎の方がいい、冬枯れの景色でも心にしみる、季節を感じるのは田舎なのである
我が家で茶をゆっくり飲むのも落ち着くとなる