2021年11月16日

新井白石の霊山鎮の漢詩ー相馬の義兄を訪ねて霊山に寄った


新井白石の霊山鎮の漢詩ー相馬の義兄を訪ねて霊山に寄った

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      霊山鎮  (「新井白石全集」所収)
  
  霊山開巨鎮、郷月照雄藩、
  鐘鼓千峯動、貔貅萬竈屯、
  出師資上略、刻日復中原、
  一夕長星堕、年年哭嶺猿、


   (読み下し) 
  霊山、巨鎮を開き、郷月、雄藩を照らす
  鐘鼓、千峯を動かし、貔貅、萬竈に屯す        ※貔貅(ヒキュウ)=猛獣
  出師、上洛を資り、刻日、中原を復す
  一夕、長星、堕ち、年年、哭す、嶺の猿
   (意訳)
  霊山に聳える巨大な山城、霊山鎮。月が南朝方の伊達郡の地を照らしている。
  鐘や鼓の音が千の嶺々に響き、屈強な兵たちが万の家々に屯している。
  奥羽の大軍勢を率いて上洛した北畠顕家公は一旦京都を平定した。
  しかし、ある日の夕方、長大な彗星が墜落した。それを悲しんで 霊山の嶺々の猿が     今でも毎年泣いている。
  

  「顕家生ては、奥羽を以て根拠と為し、身は泉州に死すといえども、魂魄反(帰)りて常に此の山に在るが如し」
  
  ●享保6年(1721)8月9日新井白石書状 水戸彰考館総裁安積澹泊宛(抄)
「 一、奥州に家兄の事、『白石詩草』にて御覧に及ばれ、御尋にて候。某事は亡父の時より
故土屋民部少輔家人にて、民部少輔第二子相馬の家へ養子に罷成り候時に、某兄にて候
者をも附属し、つかはし候に付、相馬の城下中村に居住し候。是は三十年許以前に死去
し候て、子供も両人迄候ひしも打続き死し、今は孫の代に罷成り候。
さて某事は民部少輔子伊予守代に浪人仕り、堀田筑前守(正俊)家へ罷出、下総守(正仲)
代まで彼家に罷在り候。その時に福島へ一度、山県(山形)へ一度、罷越し候事に候ひ
き。信夫郡は即ち福島を申し候。
 兄の名は弥一右衛門正信と申し候ひき。『白石詩草』の中の人名の事、いかにもいかにも
忘れ申さず候。追て書付進呈致すべく候。彼福島より中村迄は僅に六里に候。中路に顕家中納言(北畠顕家)の遺跡霊山鎮是あり候て、今も昔の庭の跡に牡丹など春を忘れず候。礎石等も元のままにて、焦穀時々あなたこなたより出候と申す事に候。」
(「新井白石全集〕所収)
http://datenokaori.web.fc2.com/sub154.html


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晩秋悲風霊山

峨峨たる岩峰迫り
一転雲覆い暗黒
一時に木の葉共に散る
風雪帯ぶ巌に木の根づき
霊山に僧の籠もり修行
南朝の砦となり一〇年
戦い滅び武士の落ち延ぶ
若くして戦士の顕家の魂
ここに宿りて無念を語る
寥々として悲風吹く晩秋
木の葉風に舞い散り
その麓石戸に土蔵古り柿なりぬ
時雨の我が老いの身を濡らす
落武者は相馬の方にあわれ
身をやつして落ちにけり
短日の暮れ安く我も急ぎ帰らむ
その末裔の今に祭りとして
我が里に只野一族の数多
基は郡山の多田野村より来る
その謂れを語り残りけるかな

霊山の巌は黒々と夕暮れや花散りあわれ南朝亡ぶ



新井白石が福島城により霊山により養子となった相馬の義兄をたずねた
これも奇縁だとなる、中村街道を通り相馬の城下まで来たとなる
六里というのは過ちである、というのは旅していると距離の感覚がわからなくなる
ましてや江戸時代となると余計にそうなる、何か時間でも正確に計れないからである

霊山の魅力は玄武岩の黒々とした岩峰でありその黒さが印象的になる
それと南朝の城としての歴史があり歴史と自然が一体となって魅力をかもしだしている
顕家は二一歳で戦死した、あまりにも早い死でありまさに彗星のように消えたとなる
その霊山から落ち延びた落武者の末裔か相馬につづいているのである
南相馬市の日吉神社とか山王神社とかはもともと北畠家が守護神とするものである
それで山王神社とかの旗が野馬追いに出るのである
あとは南朝の菊の紋の旗が出る、霊山の歴史と相馬藩の歴史が重なっているのだ

そもそも霊山では北畠顕家が城とする前に山岳仏教の天台宗の修行の場だった、それは山形県の山寺でも同じである、天台宗なのである
天台宗の本山寺院である比叡山・延暦寺は平安仏教の中心地となり栄えました。
天台宗を基として鎌倉仏教の交流を迎えた、その基礎に天台宗があった
天台とはまさに高い所で天に通じる所で修行するということである
六根清浄の地として山岳仏教が基礎となっていたのである
ただ日蓮とか親鸞とかははなじみがあるが天台宗というとなじみがない、それは中国に留学生として習い伝えたのである

仏教でも空海でも中国に遣唐使に交じり実際に行っている、それから仏教は中国から学んだのである、鎌倉時代に道元は禅の寺を開いたが中国の寧波に渡り天童寺で修行したのである、そこで実際に私は天童寺に行って道元が座禅した部屋を見たのである
古松の道を上ってゆくとその場所がある、春の日に高い塔がいくつか見えた
中国では塔が多いのである、中国が仏教の興隆期があった、それで今でもその遺跡が残っている、でも何か日本では中国でそんなに仏教が普及したのかわからなくなった
仏教は中国経由で学んだのである、それが日蓮とか親鸞とかで日本化した仏教になったのである、宗教でも必ず別な国に普及するとその国の風土とか文化と一体化するのである
日本では神仏習合になったことでもそうである

ただ江戸時代になると仏教は官製のものとなり寺は役所のようになったのである
幕府で仏教は保護したからである、だから仏教の歴史でも江戸時代はむしろ論語を学んだ時代でもあった
ただ現代になると仏教でも論語でも親しみがないし何か伝わらない、教えが継続されていないのである
おそらく明治維新でそうした伝統が途切れてしまったともなる、神道が廃仏希釈などで神道が国家に保護されて天皇が現人神(あらひとかみ)となり国家神道になった
そして戦後はまた国家神道になったことで否定されたので神道というのも何かわからなくなったのである
中国でも仏教は文化革命で破壊された、共産主義思想によって統一されたからである
ただ仏教の遺跡は残っている、でもそれが人民に継続されているかどうかとなるとなっていない、共産主義と相いれないこともあり政府では宗教を警戒しているからである
反政府として宗教をが人をまとめることがありそれを恐れているのであるだからキリスト教も弾圧するとなる











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