2021年10月30日

大衆民主主義は無責任体制―責任が自覚できない (でも必ず責任はとらされる、戦争でも原発でも)


大衆民主主義は無責任体制―責任が自覚できない

(でも必ず責任はとらされる、戦争でも原発でも)

民主主義の欠点はいろいろある、その最大のものが責任をとる選ばれた人ではない
選んだ方の人達である、常に言われるのは政治のレベルは選んだ人達のレベルによって決まる、愚民であれば愚民にふさわしい人たちが選ばれる
いくら選挙でふさわしい能力ある人を選ぶにも選ぶ方の人達がレベルが低くければそれにふさわしい人しか選ばれないとなる
結局数が多ければ選ばれるということ自体、大衆によって数によって決まるのだからその大衆に合わせた人が選ばれるとなる
民主主義はもう数がすべてだからファシズムとポピュリズムくなりやすいのである
ナチスは合法的に選挙で権力を得たからである

またそういう大衆であれ選ぶにしても一票でも百万分の一であり責任などない
もし一人十票を与えられたら責任をかんじるの、である、自分の十票は何か大きく政治でも左右するとなれば責任感じる
第一民主主義社会とか平等を追求する社会はまた無責任社会なのである
百万分の一しか責任がないとすればもう誰でも無責任になる
どうせ自分の一票など何の影響もないとなるからだ

要するに大衆民主主義とは全員が無責任体制だとなる
選ぶ方も選ばれる方も無責任なのである、一方で貴族社会でも日本の侍社会でも一部の人が特権を与えれている代わりに責任が重大になる
なぜ侍が切腹など過酷なことを自ら強いたのか?それだけ責任があり責任をとらされた
とった結果だとなる
それを常に自覚させられているからそんな重い責任をとったとなる

でも民主主義で責任をとるのは選んだ方でも選ばれた方でもない
選ばれた方でも選んだ奴が悪いんだとなり選ぶ方もどうせ百万分の一しか価値がないとなれば無責任になる、選挙に行ったとしても一人など何の価値もないとなるからだ
つまり大衆民主主義きと無責任体制だとなる
誰も責任を自覚しないしとらないのである
この責任を自覚しないということはいい加減でいいとなる
何をするにしても無責任にもなる、どっちにしろ責任がたいして問われないシステムだからである

でも恐ろしいのは人間は必ず責任を問われる、責任を負わされるのである
原発事故をみればわかる、不思議なのは事故を起こした双葉とか大熊からの距離に比例して責任をとらされたのである、、飯館村は例外としてそうなった
それは政府でそうしたのであるが距離に比例して住めなくなったり補償金でも決められたのである、住民は故郷に住めなくなった言うことで責任を取らされた
確かに補償金はもらったが故郷に住めなくなったことで責任はとらされたのである

でも事故を起こした東電の幹部であれ天下りした官僚てあれ多額な金を東電からもらっていても責任はとらない、これだけの被害があっても責任をとった人がいないという不思議である、それは検察自体が責任者でもあったがその検察は東電とか政府の責任をあいまいにしていたのである、検察自体が責任者であったがその責任を問うことがなかったのである
東電では事故になる前から危険なことは承知していた、配管等が老朽化しているから改善してくれとか内部の人が訴えても無視していたし10数メートルの津浪が来るから備えておけと科学者集団が警告していても無視した、コストがかかるから無視したのである
そして今頃になって防潮堤を作ったのである
こうして誰も責任をとらないというときどうなるのか?。
何があってもミスがあっても責任をとることはない、原発を運営する人達はそれなら安心だとかなり警戒を怠ることになる
現実原発で原子力村によって「安全神話」が作られた

それがもし重い責任を課せられていたら東電でも原発などやりたくないとなるからだ
ミスしたら事故起こしたら切腹だとなったらもう怖くてできないとなるからだ
でもそのくらいの責任が原発運営にはあったが無視された
そして事故後は誰も責任をとらない、ただ天下りしか官僚でも責任があったが誰一人としてとらなかった、金だけはもらうとなっていたのである
金を返すべきだと思うがそんなことも話題にもならない
なぜなら検察自体がそんなことを問わないからである、検察自体がグルだったともなるからだ

要するに無責任体制で重大なことをしていたのである、民主主義も選ぶ人も選ばれる人も無責任なのである、別に責任は必ずしも問われない、責任を問われるのは選んだ人達だとなっているのが民主主義だからである
それは一票でも百万分の一となれば誰でも責任などないのである
そんな一票など何の力にならないと見て無責任となる、何か真剣にかかわることもないのである

その点医者などは命をあずかる手術でも危険だから相当に責任を感じてしている
でも政治となると民主主義では無責任体制で選ぶ人も選ばれる人も無責任になる
それは結局国の運営でもみんな無責任になっている、国を一個人でも支えている責任があるなど感じないのである、一億人いたら一億分の一しか責任がないとなれは結局無責任であり一人は何の影響もないとして無関心になるのである

ただ必ず責任は誰かがとらされる

それは戦争でもそうだった、それを決めて実行した人達は幹部でも国民でも3百万人が死ぬという恐ろしい責任をとらされたのである
つまり必ず何かを決めて実行すれば責任をとらされる、戦争を決めて命令した人達は責任をとらない人たちがいても国民はとらされた
原発事故でもやはり故郷に住めなくなったという責任はとらされた
これは金では代えられないものであり重い責任をとらされた
でも肝心の原発を作り運営した東電の幹部でも政府関係者でも天下りした官僚でも検察と警察関係でもいたが責任はとっていない、金をもらったいても返還もしないのである

結局民主主義の問題はこうしてみんな無責任になり重大なことでも無責任になり何ら責任もとらないことにある、無責任体制になっている、それが恐ろしいともなる
なぜならそうした無責任体制で何でも決めて実行してゆくとなると結果的に戦争で国民が三百万人も死ぬともなりかねないからである
ただそういう重い責任を感じてするならいい、ただみんな無責任で実行することは恐ろしい結果になる

なぜなら必ず行為(カルマ)には責任をともなう

何かを決めて実行することは必ず責任をともなうしとらされる
だから人間の個々人の行為には責任があり責任をとらされるとなる、それがカルマだとなる、それは重いものとなる
そして現代だと金は具体的な責任となっていたのである
それでそのことを追求して来た、船主でも事故前に多額の補償金をもらっていたことが
判明したからである、その時は別にもらえる金はもらえばいいとかくらいにしか思っていなかったがが事故になってなぜそんな金を事故前からもらっていたのだと責められるようになったからである

つまり現代では金が具体的な責任となっていたのである
金を得ることが責任なのである、金をもらったら確実に責任がともなう
またその額によっても責任の重さが違ってくる、十万よりは百万もらえば責任が重くなるそれで江戸時代は十両盗むと死刑になっていたのである
その額によって計られていたのである
現代では責任は金で計られている、それが具体的な責任として見えるからである
あなたはいくらもらいましたね、ではその分の責任をとってもらえますとなるからであるだから金は本当に責任なのである、遺産でも多くもらいたいとしても多くもらえば責任が生じるのである、額によっても責任の大小が生じる
でもその責任を感じることなく金をもらえばいいとなっているのが現実なのである
でもこうして後で怖いことが起きてくる

いづれにしろ大衆民主主義は誰も責任を自覚しないしとらない

でも必ず責任はとらされる

選ぶ方にしても責任はとらされる、ただその責任は一票は百万分の一だとしら責任は自覚できない、そこに大衆民主主義の大きな問題がある
まず責任をとるというとき責任をとらされることは恐怖である
だから神が裁くなというとき人には裁く権限がないからである、何が罪なのかもわからないからである、要するに人間は人間を裁けない、裁けるのは神だけだとなる
国々の戦争でもそうである、勝ち負けがあったとしても誰も裁けないのである
裁きうるものがあるとしたら神しかないとなる
人間なら裁く方が今度は裁かれることになるからだ、だから東京裁判などは不公平だったのである

ただ人間社会で起きることには必ず責任が課せられて責任を取らされることである
大衆民主主義でもみんな無責任になっていてもその責任はファシズムとなりナチスのようにもなる、それは政治に無関心だったとかされている
何かわからないままに無関心でいた結果いつのまにかナチスが台頭して席巻したとされる日本の戦争でもそうだったとなる
無関心でいることが無責任で見ていた結果ナチスが社会を席巻してしまったのである
原発事故でもやはり鐘になればいいやとかでみんな地元でも無責任になっていたから起きたともなる、もっと厳しく監視してしいればこうはならなかったともなるからだ
でもそれも後の祭りだとなる

ただ確かなことは無責任社会でも必ず責任はとらされる

この責任から逃れることができないのである、それは個々人でもそうであり国民でもそうである、だから責任を自覚できない大衆民主主義は危険だともなる
どうせ一票など何の力にもならない、責任はないとなりみんな無責任になってしまうからである、ここに大衆民主主義の危険がある、でもどういう体制がいいのかとなるとむずかしいとなる、常に平等を追求してきたのが現代でありその平等を追求することは不平等になっていたのである
でも民主主義は限界に来ている、結局原発事故でも誰も責任をとらなかったように無責任体制だからである、でも必ず誰かが責任をとらされるのである
政治のミスは戦争で三百万人死ぬとかまた他でもオリッピックの失敗でも莫大な金を使い施設でも維持するの金がかかりつづけるとかその失敗のつけは国民が払うのである
政治の失敗は国民の命にもかかわってくる
ただ大衆民主主義は責任が自覚できない、無責任体制なのである

ただ一個人が発言できる、インタ−ネットとかになると何か個人でも意見が言えるからそこから多少責任を感じる
読者が多ければ多いほど責任を多少感じる、だからマスコミだったらその責任は重いものだったのである
そこで報道することが国を左右するとまでなっていたからである
インタ−ネットでも発言する人は無数の匿名の人達がいて無責任になっていたからである
ただ最近は実名で発言するしyoutubeだと顔を出しているから責任が明確になる
でもインタ−ネットになると発言する人も無数にいるし匿名だったり無責任になる
そして読まれることはわずかだから発言してもそれほど影響がないとなり無責任にもなる
つまりインタ−ネットでも大衆インタ−ネットになり発言できてもそれが影響することはわずかであり責任を感じないともなる
全く読まれないとういことも普通にあるからだ
インタ−ネットも大衆化した結果無責任になる、要するに数が増えるとみんな無責任になるということである
それが大衆民主主義の大きな問題なのである


posted by 老鶯 at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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