2021年10月24日

雲雀が原で秋競馬 (今日は菊花賞であり相馬野馬追いがあるから馬に興味を持つ)


雲雀が原で秋競馬

(今日は菊花賞であり相馬野馬追いがあるから馬に興味を持つ)

streetautumn1.jpg

akikeiba333.jpg

街道や松影なして秋の雲

駆けぬけ風さわやかに秋競馬

秋競馬鼻息荒く走り去る


雲雀が原で人が集まっていたから何か思ったら秋競馬だという
それは雲雀が原の中に入って見れるというから見た
野馬追いの時は中には許可かないと見れない、写真を撮る人は事前に許可をもらって入るその周辺では誰でも写真がとれる、写真をとるために野馬追いを遠くから見に来る人はいる

この競馬は旗はないからものたりないとなる、また5頭しか出ていなかった
でも相当に早かった、旗がないから早く走ったとなる
すぐ側を走ったから鼻息が聞こえた、そしてその速さが怖かった
迫力を感じるにはこうして実際に見ないとわからない

時速60キロのスピードを出すことができて、最高時速は77キロまで到達する、といわれています。

人間の最高時速が37キロですから、馬がどれほど速いのか、ということをご理解いただけると思います。

車が70キロとか60キロの速さで走り去るとしたら本当に馬でも怖い
そういうとき落馬したら死んで不思議ではない、その衝撃は大きい

階級社会から見れば士農工商の商、何の労働もしないで富をえるいちばん悪い儲け方だったので、当然ながら役人は馬の使用を許可しなかったのです。

これが、実際に馬を利用しなかった(できなかった)一番大きな理由です。

もっとも、日本も馬の去勢を取り入れていたら扱いやすい馬が増え、江戸時代には普通に馬や馬車を利用していたかもしれません。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7062952.html

野馬追いとかなると日本人は馬を駆使していたとみる、実際は違っていた
もともと魏志倭人伝にも馬、牛、羊なしと記されていてそのために日本をほど馬を使わない民族はいなかったのである、何かこれも歴史の錯覚である
華々しく合戦では馬が活躍するから馬を日本人は使いこなしていたようにみる
そしてこの辺では相馬野馬追があるから馬を使っていたのが日本だったように見える

そうなると相馬野馬追いのように馬を使うのはむしろ少ないから目立っていたともなる
なぜ相馬藩が伊達という大きな藩と対抗できたのか?
その謎は馬を使いこなしたからだとなる、藩は小さくても馬を使えば武器になりそれで強かったので対抗できたとなる
そもそも相馬野馬追いであれだけの馬が出ることが不思議だからである

何か歴史には常に誤解がある、日本で馬を使わなかったのは去勢することをしないとか
あとは家族で家の中に馬小屋があり家族のように扱ったとかで馬との付き合い方が違っていた、何かするとこれも日本の文化があり馬の扱い方も違っていたとなる
人間まで去勢した宦官がいるのが大陸だからである、これはイスラムまで大陸で広がっている文化なのである、だから人間を売り買いしたり奴隷にするのは大陸文化である
現実にヨ−ロッパ人がイスラム圏に支配されて女性でも奴隷として売られていたのであるこれも今になると信じられないとなる、奴隷にする文化が大陸では前からあったのであるそれはもともと遊牧民文化であり家畜文化があったからなのである
だから日本の歴史とかはその大陸から孤立しているから特殊なのである

今日は菊花賞だった、この競馬でも実際に馬場の中に入り近くで見たらその迫力がすごいだろう、テレビではそうした迫力が実際はわからない、本当の馬を知るなら大陸の草原で自由に走る馬を見ることである
私は中国の内モンゴルで馬にのった、その馬が小さいから全然乗馬の経験もないのに乗れたのである、そもそもあんな小型の馬で良くモンゴル帝国が作られ世界の半分を制覇したと思う、それも意外だったのである
歴史には実際いろいろ意外なことがあり誤解しているのである
まずモンゴル平原とか草原とかを理解できないからである
モンゴルで羊を飼うために一年で住んでいたという人と帰りの船であった

その人は冬は寒くて一回りやせたという、それだけ冬が厳しいのである
そのために床の下に馬糞などを燃やして温める、オンドルと似たようなものを使っていたとかなる、そのオンドルは韓国でも使っている、それはあたたかいである
そのオンドルも日本に伝わったのだが広がっていない、近江でそのオンドルの跡が発見されたからである、日本では気候風土の相違で大陸から伝わっても渡来人が伝えてもそれがみんな定着したとはならないのである

この競馬を見て昔の浜街道の道を行くといい松がある、あの松は前らか注目していた
その松か影なして秋の雲が浮かんでいた
あそこの真っすぐな道は原町の宿場町だったのである、その絵も残っている
原町は大きな宿場町であり駅前通りは鉄道が通るようになってできた街なのである

それで江戸時代以後に明治になって戦後も雲雀が原の近くで開墾した人々がいたのであるそんなところで開墾したというのも今になるとわからなくなるが畑にする土地がなくてそうなった、特に戦後は大量の戦争の引揚者がきてその人たちは職がないからどんな不便な土地にでも入って開墾したのである
だから鹿島区の街のすぐ近くの小池にも開墾した場所があった、そんな近くでもそうなのかと驚く、それだけ仕事がないから食べるためにそうなったのである
雲雀が原でもその近くで畑にしたのもはそのためである

この辺では相馬野馬追いがあるから馬に興味を持つ、野馬追いのために馬を飼っている人がいるからだ、侍の子孫がいるからである、それでその馬で競馬で賞をとった馬が飼われていた、その馬を見るために見に来た人がいたのである
競馬で使いなくなった馬は馬肉とされるとかありかわいそうだとして飼っているとか放送があった、賞をとったような馬はそういうことがある
でも今日菊花賞で7千頭から選ばれた馬だと放送していたがそういう大舞台に出れるのはそれだけえりすぐれた馬だった、そこに出るだけで特別の馬だったのである

posted by 老鶯 at 18:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/189088425
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック