2021年10月20日

IT化が進まない理由 ( 日本文化がITとコンピュターと相性が悪い‐メデアの変化)


IT化が進まない理由

( 日本文化がITとコンピュターと相性が悪い‐メデアの変化)

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●メデアの相違で感じ方が違ってくる

ただこのコンピュターになると頭脳と深く関係している
第二の頭脳のようになっている、AIとかもそうである、それで翻訳ではAIの方が優れていると感心した、学校の英語の先生より優れている、となると英語の先生も失業するともなる、AIは頭脳と深く関係しているからかえって事務とかはコンピュターに変わられて人間はいらないとなる

そしてメデアというとき仲介するもののことであり仲介するものによって表現するものが大きく変わる、今の時代の大きな変化はITとかAIによるメデアの変化に直面しているのである
これまでもいろいろな変化があり技術の進歩があった、現代を最も象徴する変化は通信の変化なのである、それにともなってメデアが変化したことの影響が大きいのである
メデアというとき仲介するものである、例えば乗り物も仲介するものでありそれによって感じるものが違ってくる
なぜなら人間が移動するときは歩くことしかなかったからである
馬とか馬車とか船でもあったにしろ基本的に移動するのは歩くことしかなかった
江戸時代の旅は歩くことでしか移動できないのである
すると歩く感覚から外界を自然でも何でも感じていたのである

菜の花や普通列車になまりかな

タンポポや一挙に着くや新幹線

電車でも急行があり普通列車がある、この普通列車は地元に根ざしているのが多い
通学とかに使うからである、そこで外を見ると菜の花が一面に見えた
高校生がその土地の訛り(なまり)で話していた、それが普通列車にふさわしいものだった、急行だというそれが感じないのである
さらに新幹線だともうその土地とは関係なくなる、一挙に遠くへと一瞬で行く感じにもなる、そしてタンポポが咲いていたのである、ただ途中は飛ばされて視界に入らないとまでなっている

また車だと自然を感じない、鋼鉄で覆われているから風を感じないし雨も感じない
時雨が降っていてもわからない、でも自転車だと必ず風を感じる、東風でも北風でも感じる、今年は早く北風が吹いて早く冬が来るのかと感じた
車だと風を感じないから風流がないとなる、それで私は自転車が好きなのである
それは自然を感じるからである、自然を感じなかったら俳句も短歌もありえないからである

●マスコミ支配の終わり

ともかくメデアの変化は大きい、通信の発達は現代を象徴するものである
通信でもメデアでも新聞がありテレビがありこの時代は長い、新聞だともう百年以上でありテレビでも50年もつづいている、テレビの影響は大きかった、テレビに映るだけでみんなテレビに食い入るようにしして見ていたのである、中味がなくてもテレビに映ることで見ていたのである、それが茶の間の主役となったのである
つまり茶の間に中心にあるということはいかに影響が大きいものだった
それにともないテレビを通じて番組を作るマスコミの影響がどれだけ大きいものだったかをふりかえる、テレビの時代はマスコミが教育者となり扇動者となり裁判官にもなり大衆を導くものとなっていたのである
だから第三の権力をもつようになりあらゆることで支配的役割を担ったのである
そこで相当に歪めれたものがあったがそれは見逃されたのである

メデアを持つということがどれだけ大きなことかインタ−ネットが生まれてホームページでも次にプログでもそれからyoutubeとかにもなりそこで個人発言でき表現できる時代になったとき発信者になったときみんな感じたのである
自分自身でも今はプログで発信しているけどこれは写真も絵でも載せられる、視覚的にも表現できるから表現力がある、それも簡単にできるということでこのことは大きいメデアの変化だったと感じた、何か表現するには必ず仲介がメデアが必要だったがそれは新聞であれ雑誌であれ本であれ簡単にはできない、そして不思議なのは必ずそうしたメデアは大きな権力をもっていて取捨選択するのはメデア側にあり発言する方にはなかったのであるでも直接発言することがてきるということが不思議なものになっていたのだ
そこに検閲もないのである、だから問題も起きたのである

ともかく個人の自由な発言とか表現は許されていなかった
本だったら出版社を通してしかできないし普通の人はできない、他でも同じである
それらはまた権力がないとできない、なぜなら出版するには金がかかるからである
また売れないと出版社では経営が成り立たないから売れるものを出したいからである
そこで出版する時は背後に大きな組織がないとできない
創価とか他の幸福の科学とか天理教とかなんかいろいろな宗教団体がありその団体の会員が買ってくれるとなるとある
インタ−ネットだとそういう団体に所属していなくても応援がなくても一応発言できる
ただそれに目をとめる人は極めて少ないというだけである
マスコミで顔を出すだけで百万人以上の人が見るということがありそこで顔が売れる
すると中味が何もないのに国会議員とか東京都知事になったりした芸能人がいたのである全国区になると顔を知られることが第一になるからである、中味より大勢に知られることが第一になるからそうなったのである

インタ−ネット時代は何なのか?それは個々の表現の時代になったのである
だからしきりにyoutubeでも表現力がないものはこれから役にたたないとか金にならないとかまで言う、今まではそうした表現力はマスコミが担っていた
そしてゲストとして呼ばれるコメンテーターも飾りのようなもので主体はマスコミにあった、それで武田邦彦氏とかがアナウンサーに怒っている
つまりマスコミのテレビの主役はあくまでアナウンサーだったのである
いつも真ん中にいてアナウンサーが全面に映る主役だったのである
そして呼ばれたコメンテーターの自由な発言を許されなかった

マスコミの言う通りに発言させられるだけなのである、だからこそ自分の言いたいことを言えないで怒ったともなる、マスコミとは単に仲介する機械のメデアではない
意志をもったメデアなのである、だからマスコミの主張を通すために番組を構成するのである、中立ではないのである、それでNHKでもそうだった
上の人達が番組の方針を決める、だから下の人は何も言えない、従うだけだと言っていたからだ、ただ一見中立のように装うのでわかりにくいのである
特にNHKはそれが中立のように見えるように構成するから簡単にわからないことがある
でもNHKの意志があってその意志を主張を通すために番組作りしているのである

●個々の多様な表現の時代へ

ともかくインタ−ネットでもこのITとかAIでも何か人間の頭脳と深く関係している
だから現代とはインタ−ネット時代とは個々の表現の時代だともなる
表現力を磨くことが要求されている、youtubeだと話しがうまい人が人気になる
その話し方もいろいろであり何か話し方がわかりにくいと見る方もいやになる
明確に言葉で話せないとまずいとなる、ただ人の話し方もいろいろあるからその話し方で見る人と見ない人もでてくると見た
これが文章ならそういうことはないのである、もちろん文体とかあるにしても話すのとは違ったいるからである

それでyoutubeを見ていてただ話すだけでは理解しにくいものがあると思った
人が話す時、youtubeだとテレビのように必ず顔を見るのである、すると顔の印象から話すことを聴くのである、ともかく話し方がみんな違っているのである
ただyoutubeが伝えるものとして万能かとなると違っていた
youtubeだと過去のものが記録したログがもう一度見る聴くということがあまりないのである、文章に記録されていればそれを読むとこういうことを言っていたのだとか再確認できる、また文章だとキーワードでその内容も検索できる
それがyoutubeではしにくい、不思議なのは自分は膨大なものを文章で書いている
プログで書いている、それを読み直すとこんなことが書いていたのかと自分で感心している、これも本当に不思議になる、自分の書いたものが自分が書いたと思えないことがあるからだ、いいこと書いていたな自分自身が書いたものに感心しているのである
それだけ人間は常に忘れやすいからそうなる
だから文章で残すということは大事になる、話すだけでは記憶に残らないとういことがあるからだ、それで文章の力は大きいと再認識したのである
自分の場合はそもそも話すのが下手だから余計に文章重視になる

いづれにしろ人間の感じ方はいろいろあるということである
だから歩いて感じることと自転車に乗って感じることと電車に乗って感じることは違ってくる,それはメデアが違っているからである、だから人間の感じ方はいろいろでありメデアによっても多様になる
インタ−ネットだと必ず編集して読むべきだとなるとき多様なものを結びつけることでそうなる、あることで様々な見方がある、一つの見方はないからである
それを一つにしたのがマスコミだったのである、だからそれは偏った見方であり多様な見方を許されなかったのである
第一人間は住んでいる場所がみんな違う、そこからして見方が違ってくる、感じ方も違ってくるからである、この辺では原発事故になってそのことから取り離してみることはできなくなったからである

このITとかコンピュターのインタ−ネット時代は世界中でも多様な見方がありそれに触れるという時代になる、日本国内でも多様な見方がある、マスコミのように一つの見方になることはなくなった
もう新聞は過去の物でありテレビのマスコミ支配も終わりつつある
多様な見方からそれぞれ感じたことで判断する、ただそうなるといくら個々人の発言が表現が自由になっても数が多いとどうしても見るのは限られてくるのである
見られない人は全く見られないとなる、それも問題になる
ただ自分にとっては自由に表現できることが魅力であり発信しつづけることになる
それができるのは金がかからないことである、ただ手間はかかる
またプログだけでは表現しきれない、でもワードフプレスになるとめんどうだとか前のホームページもそのままてあり放置してある、何かめんどうだからそうなっている
ホームページでは分類するのが向いている、それも手間でできていないのである
簡単にアップできればいいのだがそれがめんどうなのでできない
無料でも手間だけがかかるのが問題なのである

●日本文化がIT化を受け入れのを拒んだ

技術と文化は関係している、技術をとれいれるとき、その国の文化があり歴史があり
便利だからと無条件に取り入れることができない
文明でもそうである、西欧文明がキリスト教文明でありキリスト教を取り入れなければ
西欧文明を取り入れることができないと内村鑑三が指摘した
でも日本ではヨ−ロッパに行ってみてきたのは宗教ではない、様々な技術だったのである蒸気機関車であれ建築であれ医術であれ様々な科学技術に驚いた
それでその技術を取り入れることが文明を取り入れることだと見たのである
技術だけに注目したのである、この傾向は今でもつづいている

「テレワークの方がオフィス勤務より仕事がはかどる」と答えた人は、グローバルで平均69.1%だったのに対して、日本は42.8%と、調査対象国の中で突出して低く、7カ国中唯一、「テレワークだとはかどらない」人が多数派だった

一方、日本型企業が得意とする人的ネットワークによるインフォーマルなコミュニケーションは、過度に依存すると、簡単なやりとりで済むはずの日常実務においてすら、濃密な人間関係や地理的近接性、時間的同期性が要求されやすい。
https://news.yahoo.co.jp/articles/71fe114c7cbf59d1fcfa208135f733695c09322b?page=2

日本でITが進まないのは話せばわかるとか腹でわかるかとか狭い村がアイディンティティとなっていてそれが文化となった、属人的的であり直接人と合わないと信じられないとかなっていた、だから法律でも苦手である、理屈だからである
でも大陸文化は異民族と絶えず交わるから人種とは関係ない公平さとかを追求する
それを数式のように決めて判断して判決するともなる
そこに文化の相違がありそれが壁となってIT化がすすまないとなる
自分自身でもパソコン通信で文章で見知らぬ人が語りあうことがなじめなかった
そういうことを今まで経験していないからである
でも事務的なことなど別に直接合わなくても処理できるのである
ただ面と向かって合わないとできないこともある

そもそもITというとき英語になる、すると英語圏の人は有利なのである、プログラムでも英語だからである、そして英語は横書きであり日本語は漢字交じりで縦書きである
縦書き文化は漢字圏であるが他ではないのである
でも中国はいち早くIT化したから言葉の相違でIT化できなかったことでもない
中国には日本の様な村がないというときもそうである
そこからして中国大陸の文化と日本は同じようで相当に違っているからだ
ただ文化の相違がありそれは障壁となって日本ではITになじめず遅れることになった
技術と文化も一体だから取り入れることができなかったともみる
文明とはcivilzationでありそのcivilとは市民のことである、でも日本には市民というのはいないから理解できなかった
西欧文明を取り入れてもそもそもそうして理解できないものがありそれがIT化に遅れた原因にもなる、文化には根強く変わらないものがある変えられないものがある
便利な道具を取り入れても国々の文化が違っていてそれで受け入れられないということがある、文化には様々な要素があり風土なども関係している
そのために原発は地震とか津浪とかあり日本の風土に向かいないものだったのである
風土と文化も一体になっているからである
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