2021年10月18日

原発事故でなぜ一挙に町や村が崩壊したのか? (広域化グロ−バル経済で共同体のつながりがなくなっていた)


原発事故でなぜ一挙に町や村が崩壊したのか?

(広域化グロ−バル経済で共同体のつながりがなくなっていた)

飢饉の時などは比較的余裕のある藩でも「津留」といい禁輸措置をとりました
自分のところに波及するのを過度に恐れたわけです
結果としてしばしば食料が不足地帯に流れず飢饉が不必要に激化する傾向がありました

川とか海の港で行われた、相馬藩でも飯館村が飢饉の時相馬藩内では援助したが伊達藩ではむしろ関所でとりしまり支援しない、それが江戸時代だった
こういう社会とまるで逆なのが現代だけどやはり国内ではこういうことがなくてもグロ−バル化すると外国から品物が入って来なくなる、最近ではコロナウィルスでマスクが自国で生産していないので中国から輸入するほかなくなったとかある
つまり現代ではグロ−バル化すると外国から品物が入らないと致命的になる
最近では円安になり小麦の値段があがるなどして影響が大きい
どうしても自国優先になるから食料が何かの影響で入らなくなると窮地になる

一方で地域の繋がりが希薄化した、米でもなんでも食料でも外部からいくらでも入ってくるとなると地元でとれるものにこだわらない、野菜にしてもみんな外から九州でも北海道からでも入ってくる、すると地元に頼らないのだから地元の農家でも別になくても食料は入るとなるから関心が薄れるのである
米でも様々なブランド米がありただ金があればどれでも選んで買えばいいとなる
ただこの辺で天の粒とかは500円くらい安かった、それは別にうまくないものではない
だから安さで買った、野菜でも地元のはわずかでありみんな外部から入ってくる
それは専業農家が大量に安く作って売っているものである
約八割は専業農家がキャベツでも何でも作って売っているのである
だから農業がもうからないというがキャベツ農家は一千万の収入があるとかされている
ただその労働力がたりないので外国人労働者を安く雇っているとなる
つまり労働力を安くして安く売れるとなる、これもまた広域化グロ−バル化経済だとなるのである

でもこうなると地域とかのつながりは希薄化する、何か昔の村とかとはもう違っている
昔の村だと自給自足が基本にあった、なぜなら戦前でも戦後まもなくでも農民が八割とか戦後でも六割とか多かったからである
すると農民社会であり農民は今でもそうだが結びつきが強い、それで三代でも農家でないと仲間になれないとか言われる
それは江戸時代から村の結束は強かった、人間は共同体というとき生産共同体であり消費共同体というのはない、米でも共同の労働があってそこで村の結束が生まれた
だから農家が前は大きな票田となっていたのである

現代経済は消費社会ともなっている、消費者は王様だともなる、何か店でも農家でも米を買ってくれとなる、買ってくれる人がお客様となるからだ
米でも今年はコロナウィルスで消費が減って余り米の値段が下がったとかなり買ってくれとなる、でも消費するだけだと仲間にはなれない、人間の結びつきが生まれない
だから何か地域の結びつきは希薄化してきた、農家でも全体の生産の一割にも満たない
いくら
回りが田畑があっても現実の経済では田舎でも経済の比重が前より相当に下がっている
それで原発事故で仮設に住んでいた人がここで買い物したりして金を使うから地元の人達を助けていると言っていたのである、それが何かおかしいのだけどここに現代の社会を象徴したものがあったとみる

消費者は王様だとなっている社会だからである、そこで地元の人に助けられているという感覚はなかったのである、かえって外部から来たボランティアは毎日来ていたから外部の人に助けられている、なぜ地元の人は不満なのかとかえって地元の人達とは一体感もないのである、地元の人達は冷たいとなっていたのである
これも何か矛盾していたがこういう社会で起きた現象だとも見る
こういう社会だったら別に金があれば他に移り住んだ方がいいとなる、地元はかえって冷たいとなるからだ

でも例えば原発事故以後この辺で荒地化したが農業をやる人はなかなかない
そんな小規模の農業はただ骨が折れるだけだとなる、そして高齢化しているから知っている人の畑で野菜を作っていた人も体が弱りやめた、回りも病気とか高齢化でやめた
でもその後も誰も畑で野菜を作る人はいない、放置されているだけである
戦後は引揚者が働く場所もなくどんな不便な場所にも開墾に入った、そういう時代なら
そうした空き地は利用されていたのである
その原因は広域化とグロ−バル化経済にあったともなる

このことは飢饉になったら外部から物資が入ってくる、外国からも入ってくる
でも遠くから外国から物資を入れることは頼ることは入らないと危険になる
どうしても自国優先になるからである、地元優先になる、だから広域化グロ−バル化経済はすべていいものとして働かないのである
そして地域の結びつきが弱くなったという時こうした広域化グロ−バル化経済が影響している、食料でも外部から入り頼るとなると地元の農家などでも存在感がなくなる
外部からいくらでも食料が入ってくるではないか、地元のうまくない米など食べる必要がないとなる、

そこで一番肝心なものは何か

金があればいい

こうなったのが現代である、金があれば外部からいくらでも買えるからである
そうして地域のつながりが薄れるとどうなるのか、何かあると地域が簡単に崩壊する
それが起きたのが原発事故で町や村が一挙にゴーストタウンにビレッジになったことである、これは放射性物質汚染で住めなくなったこともある
でももともと農業でもそれが主産業ではない、だから東電で電気関係の仕事をしていた
浪江の人は補償金もらって老後も安泰であり良かったとしている
あれだけ寂れた街に住んでいてもそうである、回りの田畑は草ぼうぼうでもその田畑に無関心だったのである、もともとその人は電気関係の仕事だから田畑が草ぼうぼうになっても関係ないのである、別に金があれば一応何でも買えるからである
確かに買い物が不便でも品物は外部から入ってくる、要するに金さえあればどうにかなる最も怖いのは金がないことである、それで最底辺層は毎月ガス、電気、水道が止められることで窮地に追い込まれるのである
そううい人は金が得られるならば地元に執着しないだろう、第一そこまで貧乏なら外部に移って豊かに暮らせるならそうするからである

原発事故でなぜ簡単に村でも町でも崩壊したのか?それは放射性物質に汚染されて住めないともなった、でも不思議なのは地元でももともと米でも野菜でも外部から入ってくるものを食べていた、だから放射性物質に汚染されないものを買って食べればいいのである
そうすれば地元に住めなるとなる、ただ空気とか水とかまで汚染されたから住めないともなった、でも別にもし放射性物質汚染でも気にしなければ住めるのである
食料は外部から入ってくるし車があれば買い出しもできるからである
だからすぐに飢え死にしたりしない、江戸時代の飢饉だと飢え死にしている
外部から食料が入ってこないからである、津留とかは外部に食料を流出しないように止める役割があった、飢饉の時などは流出しては困るからである

何か現代は外部とのつながりはこうして強くなった、それもグロ−バル化すれば外国とのつながりでもそうである、でもかえって地元の地域のつながりは希薄化したのである
原発事故では仮設には毎日のようにボランティアが来て援助していた
こうして外部とのつながりが強調されたのである
そして内部のつながりは奇妙なのは補償金で分断されたのである
こっちが多くもらったこっちはもらえないとして分断してしまった
あとは多額の補償金をもらった人たちは外部に流出した、仙台市とかに資本金ができたので商売して成功した人達もいる、つまり金があればどこでも移住していいし一旦村でも町でも荒地になりゴーストタウンになったら他に移った方がいいとなる
その資金も金も得たからである

私は別にそういう人達を批判するのてはなくそういう社会で起きたということを考察しているのである
だからこれは別に原発事故という特殊なことでもなくても他でもありうる
地元のつながりは希薄化しているから地元にこだわらない社会である
金さえあれば便利な所に移ればいいとなるからである、例えば老後でも東京に住まずに金さえあれば地方でも住めるとなる、その選択は自由であり問題は金があることである
広域化したグロ−バル化した社会の矛盾がある、私は車をもっていないから原町に買い物に行く、でも量販店の電器店でも他のチェーン店でも配達すると配達料がかかる、それが三千円とか高くなる
奇妙なのはインタ−ネットで注文したとき配達料が無料で送られてくることである
だから重いものは自転車で運べないから通販の方がいいとなってしまうのである
現実にケーズデンキでもインタ−ネットで通販しているのである
そこでは配達料は無料であり実店舗になると配達料がとられるのである
それは配達は委託している場合が多いからそこに払うからそうなるともみる
これは広域化グロ−バル化した社会の矛盾なのである

ただこうした社会は村でも町でも市でも簡単に崩壊しやすいともなる
外部とのつながりの中で生きているから別に今住んでいる地元にこだわる必要ないとなるからだ

金がすべていいものとして働かない

これも現実なのである、結婚するにしても金持になると相手が金ばかりを見て寄ってくるとか金を目当てにするのが多くなる、自分の家族の介護でも来た人たちは金を得たいためであり現実に大金を盗まれたりした
兄は交通事故で死んだけど雇い主は働いている時はいい人だったが保険金がおりるとなり豹変した、身よりがないものと思っていたから保険金の受取人になろうとしたのである
原発事故でも多額の補償金をもらえるとなるとそれしか頭になくなったのである
そうして町とか村の復興など念頭になくなる、ただ金が欲しいとなるだけであった
あとはその金で外に出て新しい家を建てればいいとなる
現代社会の怖さはすべて金になり金に追われ金に狂う社会なのである
確かに放射性物質お汚染があるのだから仕方ないと見る、その放射性物質でも30年とか消えないとかなっているからだ、そんな所に住めないというのもわかる

でも代々住んでいた場所にこだわりがあり何かそれだけが理由とも思えないのである
たとえそうであっても簡単に町でも村でも捨てられることがあっていいのかとなる
それが一部の人ならいいが全体でそうなってしまうことがあっていいのかとなる
でも現代は町でも村ですらそういうふうにつながりが希薄化しているから簡単に町や村でも捨てられるとなったのかと見る
やはり広域化グロ−バル化経済の中でこういうことも起きて来たとみる
共同体とは基本的に生産共同体であり消費共同体ではない、その生産共同体が農民を中心とした第一次産業を基本とした共同体が町や村を構成しなくなった
そもそも消費だけの共同体は成り立たない、消費するものが王様となりえない
その土地で生産するものがあって共同体も成り立つからである
だから一時的には補償金で成立つとしても継続しては成り立たない、何かしら生産して金を得なければ生活できなくなる、ただ現代はベーシックインカムなどが言われるから
消費に重点が置かれる社会にもなる、生産しないで金をもらえる
でも消費共同体とかはありえないだろう、何か生産しないで消費するだけの社会はありえないからである




posted by 老鶯 at 11:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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