2021年07月21日

真野の草原は自然境界でもあった (ゲノム解析で判明した縄文人のルーツ)


真野の草原は自然境界でもあった

(ゲノム解析で判明した縄文人のルーツ)

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●自然境界ー天候、地形(山や川)

●人為的境界、政治的境界

境界がどうして作られたかとなると自然の作用で作られた、山があり川があればそこを越えたり渡ることが困難になる
それで自ずと自然境界となる、だから実際は境界は神が決めたものである
その後に人為的境界が作られた、だから歴史でも自然から見ることが大事になる
つまり歴史とは地歴なのである、地理がありその上に人為的な人間の歴史がある
古代とかなる自然が大きな力をもっていたからその境界は自ずと原始自然状態に左右されるのである
自然の動植物の分布でもそうである、暑さ寒さに天候に左右されて分布する
それで南相馬市の鹿島区の海老村がマルハシャリンバイの南限の地となっていた
それは南国産であり奄美大島辺りから種が流れついて自生したとなる
つまりここはそうした南と北の自然境界線だったのである

これは草原(かやはら)とあっても萱のことではない、伽耶の国とも関係したとして考察した、ただそれは明確に証明はできない、確かなことはカヤと発音されても当て字なのである、なぜそうなったかというと伽耶というのが日本と深く関係して渡来人が鉄の生産の技術者が鉄を求めて海外沿いを来て地名を残した
真野というのもそうである、真野氏一族が石巻から北上川をさかのぼって登米まで行って地名を残しているからである
真野郷とは真野氏一族だとなり近江にも関係している、工人が直接真野郷から近江の栗原郡まで行き来していたからである

そして今回発見したのがDNA研究から明らかになったことである
それをyoutubeで見てわかった、ここではアイヌ人と沖縄人がDNAで近接していて同類の割合が強いとしている、また青森県の人と沖縄人がDNAで共通しているとしている
これは興味深いことである、青森はアイヌ語由来の地名が多くあることで知られているからである
また沖縄人とアイヌ人の顔が何か似ている、それは縄文人だとしている
そして日本列島のヤマトとは北海道に入らなかった、アイヌは江戸時代まで存続していたのである、その人たちが縄文人の末裔だとしている
確かに沖縄人とアイヌ人は顔が彫りが深く似ている

ただ疑問なのはそしたらアイヌ語は明らかに縄文語になる、そのアイヌの言葉が今の日本語と縁戚関係になるがそういうことは見えないのである、アイヌ語は日本語と共通性がない、アイヌ語は語彙も日本語からすると少なすぎる、何か表現するにしても余りにも単純すぎる、幼稚な言葉なのである、でももし縄文人だったら何かしら今の日本語に通じるものがあるはずだが何か見られない、アイヌは何かヨ−ロッパ系統にも見えるのである
なぜならhave動詞は似たようなものを使っているからこれはアーリアン人系統の印欧語族に由来するとなるからだ
だからアイヌ人は比較的新しい民族にも見えるのである
ただDNAいうとき私は理系でもないしわからないからどう判断していいかわからない
でも言語的に見るとアイヌ語が日本語の祖語には思えないのである

縄文人が韓国人に一番近いというのはわかる、その次が漢人だとなる、ただ地理的に日本に入って来たのが一番近いのが樺太から渡ってきたのと韓国から渡って来た人たちであるそれは地理を見れば一目瞭然だからである
あとは台湾を経由して沖縄諸島を渡って来た人たちである、それも島伝いに来ると渡り安いからである、船にしても今のものとは違う、丸太舟とか筏の船とともなれば島伝いに行くから途中に島がないと海は渡れないからである
だからこれは地理的に理解しやすいのである

そもそも青森の地域、津軽の地域は特異であり東北でも異色なのである
丸山三内の縄文遺跡とかでもそうである、亀ヶ岡土器文化があり縄文文化が早めに発達した地域であり先進国だったからである、漆塗りの土器などもある
青森が遅れた県として今は見るが縄文時代は先進国だったのである
東北も遅れた国とみているが縄文時代は先進国だったのである、西が遅れていたのであるただ西は渡来人が来て稲作が広範囲にはじまり弥生文化の中心地になったのである

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青森は津軽海峡に隔てられているが北海道の植物も育つ、動物では津軽海峡でさえぎられてニホンザルの住む限界となる、ブラキストン線がある

このyoutubeで一番注目したのが青森のDNAが沖縄と近く青森と秋田、宮城がDNAで共通している

ここに福島県が入っていない!

つまり真野の草原はまさに宮城県との境界でありそこに入っていない、すると人種的には福島県は縄文人時代があったとしても早めに渡来人とかと混血していたのかとなる
ただ青森の津軽にしてもツガルがツノガノアラシトの系統なのかともみる
ツノガノアラシトが縮まってツガルとなったかともみる

それで不思議なのは棚倉でヤマトタケルの皇子と戦った蝦夷軍にツガルの蝦夷が援軍として来ていたことである、なぜそんなに遠くから援軍に来たのか?
つまりなんらか同盟関係がありそんな遠くから来たとなる
ただその時代にここの蝦夷は青森、秋田、宮城からすると別な人種だともなっていたのである

陸奥国風土記逸文に『磐城の国造磐城彦が福島県石城郡棚倉町八槻の蝦夷に敗れたので日本武尊が征討軍としてやってきた そこで蝦夷は津軽の蝦夷の援護を要請したので日本武尊は非常に苦戦した』とある

一番遠くにあってそして一番強いのが津軽の蝦夷=都加留で上津野の蝦夷も都加留に属していたろう。矢立峠・坂梨峠を越えれば直ぐ出羽でも陸奥でも未だ国名もない漠とした津軽なのだ。その強さは大和朝廷圧制に耐えがたきを耐え忍び難きを忍んだ末のやむにやまれぬ末の抵抗だったのです。

元慶の乱に於いて鎮守将軍小野春風は七時雨道(鹿角街道)と言うわざわざ岩手県を迂回して最初に『言向けて和(やわ)し』たのも鹿角蝦夷なのだ

鹿角蝦夷(かづのえぞ)とはかずのとはかーつのでありツノガノアラシトなのである
相馬市松川浦の津神社もつのみや神社のである
ここで誤解しやすいのは津神社となっていてツノミヤ神社となっている
これはつつげてツノ神社となりつのみやとなった、ツノガノアラシトのツノなのである
ここがまぎらわしいのである、かづのもだからかづのとあっても明らかに角(つの)とありツノガノアラシトアラシトなのである、これは伽耶国の王子なのである


八槻の伝説-----------------------

都々古別神社の伝説から。

倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という

「八目の鳴鏑矢で賊を射たおしたとあり、
その矢が落ちたところを矢著、正倉がある矢著を八槻となった。

その八槻とは、八人の土蜘蛛で、

@里鷲A神衣姫B草野灰C保々吉灰
DあざになひめEたく猪F神石かやGさしな、

が八か所の石室にいたが王に従わずヤマトタケルは土蜘蛛を討伐した。

草野灰、神石萱のかやのはいとかみいしかやの萱は必ずしも萱とはならない
萱は伽耶に通じている、渡来人集団が蝦夷にもなっていたのである
ヤマトタケルと敵対する蝦夷となっていたのである
それがなぜ津軽の蝦夷に援軍を依頼したのとなる、そこは遠いからである
でも津軽まで同盟関係がありできたとなる、そして津軽は一番蝦夷の根拠地にもなる

その強さは大和朝廷圧制に耐えがたきを耐え忍び難きを忍んだ末のやむにやまれぬ末の抵抗だったのです。

たがらこそ遠くからでも援軍を頼んだのである、ただ福島県の浜通り辺りは棚倉でヤマトタケルと戦い大和に早めに服属した地域になっていた
その歌が

の強さは大和朝廷圧制に耐えがたきを耐え忍び難きを忍んだ末のやむにやまれぬ末の抵抗だったのです。
この歌は単なる笠女郎が大伴家持慕う恋の歌ではない、大和朝廷に服属した地域となった境界線だから歌われたのである、それで青森と秋田と宮城県がDNAで共通していて沖縄人と同類に近いと分析されたのである、ただここで岩手県は出ていない

みちのくの真野の草原(かやはら)遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

明らかなことは真野の草原は明らかに自然の境界でありまたその後に人種的にも宮城県とか秋田県とか青森県とも違うものともなり早くから大和朝廷に服属した蝦夷の地域ともなっていたのである
そこに二人の恋の歌ではない、古代の歴史的背景がありそこを読まないと鑑賞できないのである、万葉集にはその背景が古代の歴史と深く関係していて単なる恋の歌ではないのが多いのである、だからその背後にある古代の歴史を知らないと浅薄なものとしてしか鑑賞できないのである


ツノガノアラシトについて

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都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は、『日本書紀』では「都怒我阿羅斯等」、他文献では「都怒賀阿羅斯止」「都怒何阿羅志止」「都奴加阿羅志等」とも表記される。また『日本書紀』では別名を「于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」とする。

意富加羅国(大加耶/大加羅、おほからのくに、現在の韓国南部)の王子で、地名「敦賀(つるが)」の由来の人物といわれる。

敦賀からツノガノアラシトが入ってきた、敦賀(つるがーつがる)ともなり似ているのである、まぎらわしいのが津神社となっているとき津神社はつの神社と呼ぶからまぎらわしいのである
とにかくこのツノガノアラシトは伽耶国の王子でありその渡来人の一団が製鉄の技術者として地名までになったのである
ただその後にこの事実は歴史から隠されて来たのである
ただ伽耶国とヤマトは一体であり日本がの一部として日本府がありそこから天皇が出たという説もあるのだ
posted by 老鶯 at 15:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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