2021年07月19日

多様な多角的な視点からみるネットの情報 (マスコミでは視点は一つになりやすく偏る)


多様な多角的な視点からみるネットの情報

(マスコミでは視点は一つになりやすく偏る)
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インタ−ネットの情報は多様であり多角的になる、それは個々人が発信しているからである、マスコミはマスを対象として視点が一つになりやすい
コメンテ―ターとしても専門家でもしゃべらせるのはわずかしかない
すると実際はその話すことはマスコミでテレビ局のいいようにしゃべらせているとなる
必ず個々人が十分に言いたいことは伝えないのである
その一部を切りとったものをしゃべらせて局で編集するのである
それは取材でもテレビ局で報道したいものを取材して編集して放送する
つまりテレビ局が結局は報道することを決めて何かいいのか悪いのかなどを決めているのである、だから一方的であり多様な多角的な意見でも出ないのである

だからインタ−ネットだとこういう視点で話すこともあるのかとみる、それは個々人の視点でありマスコミの視点ではないのである
だから多様で多角的になるのである、例えば同じ景色でもカメラマンによって撮る角度が違ったりカメラ自体がいいものだったりその時の天候などで多様に見える
同じ景色をとっても違って見えるのである、それでこんなふうに見えるのかと感心するのである、同じ場所でも角度が違ってとると別な見え方をするからである
それで写真をとるときとにかくいろいろ角度から撮るといいとなる
その中からいいものを選ぶといいとなる、一枚だけいい写真を撮ろうとしてもとれないのである

この多様な多角的な視点というとき別に特別優れた人でなくてもいい、専門家でなくてもいいのである、人間はそれぞれ住んでいる場所も違っているし経験も違っているし生い立ちも違っているし世代をも違っているとみんな違った見方をするのである
だから若い人が老人に学ぶこともあるし老人でも若い人の見方とか情報でも取り入れることができる、ただ深い見方をするのは老人である

インタ−ネットはそういう多様性多角的なものを提供する、でも数が多くなると人気のものを見るがでも少数者のものでも眼にとまるのがインタ−ネットのいい所なのである
マスコミではそうした少数者のことは絶対に取り上げないからである
だから圧力団体から組織から推薦される人を取り上げやすい、また組織団体の批判はしないとなる、マスコミとはそうしてマス(大衆、大勢)相手にするメデアなのである
だから視聴率がすべてだというとき大勢の人が見れば宣伝効果があるとなり会社から宣伝費をもらえて成り立っていたのである

でもインタ−ネットはマスが相手ではない、極端になれば一人が相手でも成り立つとなる一人に語っていても成り立つとなる、なぜならテレビ局のように莫大な金がかかる装置などいらないし個々人で無料でもできるからである
それでそれぞれの発言に何か得られることが多いとなる
ただ数が多いからどうしても見られる読まれことが至難であり実際はほんとんどプログでも読まれたりyoutubeでも見られないとなる
それはそんなにいろいろなものを目に通す時間がないからである

とにかく映画でも一発勝負となると何十億とかかけるものはリスクが大きすぎる
何百億かけるものもある、それが失敗すると何百億の損になる
だから金をかけないで短編を作りyoutubeに出すとかする
またマスを相手だと映画会社とか本でも編集者とかがかかわりその人たちに何かしら本人が言いたいことが言えないとなる、youtubeではすでにそういうことが起きている
発言がおさえられている
そういうことがない世界がインタ−ネットで開けた、毎日こうして自分は部屋に籠もりプログを書いている、別に出版社もテレビ局もかかわらないである
本人が直接伝えたいことを伝えているのである
だからマスコミでは取り上げないことを発言できているとなる

いづれこにしろ今になると高度成長時代なら同じような商品を大量生産していれば売れていたのである、それは物でもそうだったが今やそうした大量の規格品はいらないとなる
それでテレビでも他の電器製品でも実は外国でも作れたのである
だから日本の電器製品は売れなくなり日本が貧困化したのである
同じものが作れるとしたら安い方がいいとなるからだ、その品質でも外国製品でも中国産でも見劣りしなくなったのである、つまり高品質なもので何か他では作れないまねできないものを作らないかぎりもはや日本の復活はないとなる
ただ日本は外国のものをまねて改良改善するのは得意でも新しいものを作りだすことが苦手である、アメリカとかはヨ−ロッパでも新しいものを作りだしてきたから先進国になりえたのである
だから欧米で発明したものが多いし天才でもヨ−ロッパに多いのである

ただこれからの社会は多様性であり多角的なものの見方をつける、それぞれの個性が重んじられる、多様性というとき人間はみんな住んでいる場所が違っている
見る景色も違っている、海側だと太陽は海から昇る、盆地だと太陽は山から昇る、その感覚が相当に違ったものでありそこにすでに多様な見方が多角的な見方が土地土地によって生まれるのである
海側に住んでいると朝日を山から昇るのを見ないのである、朝早いから旅行しても見ずらいということがある、また高い山というのがないと山というのがわからないのである
私の住んでいる場所には高い山がないからものたりないし山のことがわからないとなる

ともかく地理から見れば日本でも多様であり世界になればさらに多様になる
そして人の経験も多様であり語ることが違ってくる
それでそんなことがあったのとか新鮮になる、そして一人一人の生い立ちが家族でも違っていて多様なものになる
ただ現代はマス社会でありマスを相手にしていたのである、すべて数で決まる
民主主義自体が多様性があるとして自由な発言を許すとしても現実は選挙も数であり数を集めることで決まる
だから民主主義は数の民主主義であり結局一番全体主義に近く同じような顔をした大衆が数で決める、それがナチスにもなったのである
そこでは各人の個性を無視して多様性を無視したからである
報道もマスコミでありマスが大衆が相手だから一つの見方それもテレビ局で方向づけられた一方的見方がおしつけられていたのである

文化とは多様性である、でも国家とかなると国家内にある地域的国々の多様性を無視するまた世界でも国々の多様性を文化を無視して一つの色にそめる
共産主義だと全体主義だからそうなる、政治と文化は対立するのである
だから民族の言葉自体を抹殺して中国ならウイグルとかモンゴルでも漢語にしろとかなる言葉一番文化であるから言葉を否定されたらその国々の文化も喪失するとなる
ただグロ−バル化するとどうしても共通語が必要になる
でも民族独自の言葉を失えば文化も喪失するのであり生きる意味を失うとまでなるのだ
だから多様な文化を許容するのがいいのである
民主主義はそういうことがあったが民主主義の弱点はすべてが数で決まることである
最も全体主義になりやすいのである、だからナチスは合法的に選挙で生まれたのである

いづれにしろマスコミの時代は終わりつつある、youtubeとも同格とかテレビでなるとやがてマスコミは装置に金がかかるからやっていけなくなる
装置に巨大であり金がかかることが足かせとなり維持できないとなってしまうのである
youtubeだと一個人でも手間がかかっても放送局になれる
ただ問題は取材するにも限度があり個人の交際範囲とか経験とか見聞になる
そこにまた弱点がある、何か取材するとなると支援するものがありそれなりの権力を持たないとできない、ブロガーとか取材に来ても応じないとなるからである
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