余裕がない人は人を助けることができない
(余裕なき現代はみんな疲れ、人を思う余裕すらない)
人間は何か余裕がないと他人に対して親切になれないし助けることもできない
余裕はだから意外と大事なのである
●時間
●空間
●金(経済)
●健康問題
これらでも余裕がないと人間は自分のことが精一杯で他人のことを思うことすらできない
時間ないんだよ、ここは狭くて窮屈だ、金がないんだ、金が欲しいんだ
俺は病気なんだよ、他人のことを思うより自分の病気のことで精一杯だよ
こうなっているとどうしても余裕が生まれないからギスギスしているし他者に親切になれない
なぜその人は病気だけど仕事している、それでわずかの金でも後から払うとか貸してくれという、でもそれには応じない、そういうお願いする人はいつも金がないのである
だから相手が病気でもそのことを思わない、それより自分の金がないことで苦しめているのがその人だともなってしまうからである
その女性は米を買うにして自転車を直すにしてもそうして金で苦労している
そういう人は相手を思う余裕がないのである
ところが金でも余裕ある人間は病気なのに良く仕事しているなとか同情する
それで多少金がかかってもいいやとなる、奇妙なのはその金のない人に金を与える
その金は病気でも仕事している人に回ってゆく
なぜそうなるのかというと金に余裕があるからそうなるのである
相手が病人でも金のない人は同情しないともなる、なぜなら余裕がないからである
だから意外と余裕がないと相手を思ったり同情したりできないのである
それで自分が病気になり親の介護になったとき来た人は事業に失敗したり金がなくて苦しんている人だった、また原発事故で避難して来た人もいた
こういう人達そもそも余裕がないから人を助けることなどできないのである
大きな負担を背負っているのだからとても他人のことを思うことすらできない
なんとかしてくれとなっている人が他人が苦しんでいることも見えないのである
だから余裕がなければ愛とかいたわりとか同情とかもできない、それより自分をなんとかしてくれとなっているからだ
金に余裕がない人は金を与えることはできない、また苦しんでいる人は自分のことで精一杯だから他人のことに気がまわらないのである
だから助けてもらいたいというとき余裕のない人が来たり余裕のない人の所に行っても無駄だとなる
現代人は何か昔から比べればいい暮らしをしていても余裕がない、心の余裕がもてない
それが何か世の中をギスギスしたものにしている、まず時間の余裕がない人も多い
日本だと国土が狭いから空間的余裕がない、そして時は金なりと資本主義社会で時間に追われる、常に人は何かに追われている、一番は金に追われている
それば贅沢して金に追われている人も多い、借金しても家建てたり高い車を買ったりと金がないのにそうしている人も多い、するとその人たちは金に追われるのである
だから余裕がなくなる
こうしてこの世で余裕がない人がまわりで多くなると実際は住みにくい社会になる
現実になっている
ただ不思議なのは別に金がなくても余裕ある人はいた、そういう人はでも特別の人であり悟りを開いたような人とかなり例外だとなる
今は特に金がないと余裕がもていない、それだけなんでも金のかかる社会だからである
金を払わなければ水も得られない、もし井戸水だったら井戸水が枯れなければ水は得られるとなるからだ、現代は金がないと水道が止められるのである
そもそも昔はその日暮らしの人が多かった、江戸時代は宵越しの銭は持たないとなっていた、その日のうちに金は全部使ってしまうということである
そうなったのはそんなに金を貯えることができなかったからである
日銭暮らしが多かったのである、その日その日を暮らすのが精一杯だったのである
そうなると余裕がないとなるがそうでもなかったとなるのが不思議だとなる
今は一億円たくわえても安心とかにもならない、それはなぜだろうともなる
金でも贅沢しようとすると今は限りない、するといくらあっても金に余裕がない!
こうもなっているためだともなる、いい家が欲しい、車が欲しい、いいものを食べたい、・・・・きりなく欲しいというものがありそれで金に追われるともなる
ただ貧乏になるとその日の金に追われる、何か贅沢するのではない、その日の食べるものを得るために追われるとなる
貧乏暇なしにもなる、だから忙しく金に追われるというとき必ずしも本来はそうしなくてもいいのにしているから時間の余裕もないとなる、現代人は昔に比べると豊かな暮らしているが忙しいし余裕がなのである
私の母はまず一緒に遊んだこともない、暇なし働いていた、それは若い時からそうであるだから何か暇で余裕ある姿を見ていない、店もしていたから食事中でも立ったりしていたそれが嫌だった、でもしかたないということはあったし責められないことはあった
そうして一生働き詰めで終わった、そして花などいらないと自分を怒っていたのである
それはそういう事情があるにしろいい人生だとは思えないである
それはそういうふうに強いられた結果であり母だけの責任ではないにしろ何か全く余裕のない人生も嫌だとなるしそういう人といるのも嫌だともなる
その正反対として余裕のある人生を送れたのが自分だった、何か高校とかまでは勉強でも強いられて嫌いになった、でも大学は時間に追われることがなかった良かった
ただそのために大学が遊びの場になり勉強しなかったことを後悔している
自分の場合は母と反対に余裕がありすぎた人生だったのである、それも問題だとはなった私は旅するかただ家でじっとして黙想しているだけだったからである
だからそういう環境にあったことが奇妙であり不思議だったとなる
それでやはり引き籠もりとなり異常化した人間になっていたのである
ただそうして黙想していることで自然と山とか木とか石と一体化した詩を書いたりしていたのである
自然は山でも木でも石でも沈黙している、すると人間も沈黙しないと一体化できないのである、だから自分は禅宗に座禅して沈黙の業をしている僧と似ていたのである
でもこういう生活は本当に別に寺で修行僧になっていれば異常でもないが日常の社会生活では異常になるのである
ともかくそういうにしていることは余裕がないとできない、なぜなら必ず金を稼げと強いられるからである、そんなことして何になる、一銭の金にもならないとなるからだ
なぜ引きこもりとか多いのかというと親がいて一応食べていけるからそうしている
ということは親でも金に余裕があるから養えるとなっている
もし余裕がない時代だったらそんなことありえないからである
ともかく人間にとって余裕は意外と大事である、そもそも余裕があるから学問でも芸術でも生まれた、暇とはスコーレでありスクールになっているからだ
学校とは暇があって生まれた場だったのである、でも今は学校は全くそうしたものとは違う、受験に追われ膨大な知識に追われる全く余裕のない場なのである
でも余裕なくさせているのは社会がそうさせている、それが何か無駄なものののためにそうさせられる、強いられる、それで団塊の世代の猛烈企業戦士に全員がなったよりそこからはずれて別なことを余裕もって追求する人もいていいと今になると思う
それが自分自身だったのである、ただそのために親の介護とかで四苦八苦した
ただ全員が企業戦士となって猛烈に働くだけの人生は良かったのかとなるとそうでもない何か今になると仕事は遊びだとか好きなことをしろとか価値観が変わってしまったのである、だから猛烈な企業戦士とかは嫌われる時代にもなった
これも奇妙だと思う、それでおそらく団塊の世代は確かに遊び上手の世代ともされた
いろいろ趣味をもっている世代である、でも一方で猛烈企業戦士として会社員として働いた人も多い、とにかく時代によって価値観が変わってくる
それは戦争が終わった時、日本はまるで違った世界に価値観に生きることにてったからだそして戦争から70年過ぎた時、また価値観が大きく変わる
金だけに追われて忙しく生活するのが嫌だという人もでてくる、それは少数でもやはり前よりそういう傾向が大きくなっている、すると時代の価値観が変わった見るのである
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