分去や追分の地名を偲ぶ(丸森ー大張村の詩)
(機械化すると人間の情が失われる)
街道の分岐点をいう。そこまでは一本であった道が二つに分かれ,それぞれ異なる方向に進みはじめるところである。追ってきた牛や馬を,どちらか一方の道に〈追い分ける〉ことから生じた名称と言われている。〈追分〉という地名は今も各地に残されている。その代表例として著名なのは長野県北佐久郡軽井沢町の追分で,中山道と北国街道の分岐点であった
わかさ(逆引き)
ことに昔の本陣だつたままの家作りの牡丹屋や桝形の茶屋の古びた美しさや、その村はづれの分去れのあたりの山々の眺めなどをなつかしんで
ふるさとびと (旧字旧仮名) / 堀辰雄(著)
おえふがまだ二十かそこいらで、もう夫と離別し、幼兒をひとりかかへて、生みの親たちと一しよに住むことになつた分去れの村は、その頃、みるかげもない寒村になつてゐた。
ふるさとびと (旧字旧仮名) / 堀辰雄(著)
わかされ(逆引き)
その翌日、英夫君は二時の汽車で帰るというので、昼飯を早目にすませてから、お別れに村の西のはずれの、分去のところまでぶらっと散歩に行った。
雉子日記 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
分れる、去るからこの地名が生まれた、こういう地名が生まれたのは何か人々の思いが残されたものとしてある
追分というのが追ってきた牛や馬を,どちらか一方の道に〈追い分ける〉ことから生じた名称と言われている
これも牛と馬が人間と一体となりあったから生まれた地名だとなる
そういう昔の生活を偲ばないと地名の意味を知ることはできない
つくづく私は自転車で旅するとき必ず道を行くと道が二つに分かれる
そういう場所にどっちに行こうかとなる、だから分かれ道が一つの思案する場所になる
江戸時代辺りだと電車も車もないのだから道を行くから必ず分かれ道がある
その分かれ道が心に残る
そして分れ去ってゆくということ、道行きで道連れがあっても別々の道を分かれ去ってゆく、その時今のように再び逢うということがなくなることも多い
だからこそ分かれ去りには人の思いが残ったのである
そこで人はその後姿を見て見送ったのである
現代とこうした感覚がなくなった、電車でも車でもない、機械は何か人間的なものを奪うことが常にある、それで老子は鍬まで否定したのである
機械は悪いとかではない、人間的なものを奪うのである、鉄道とかに愛着がある
鉄道は何か車と比べると人間的なものとして残されたとなる
それは駅舎に待つ時間がありまた人が出会い分かれる場所としてまだあった
しかしそれも無人駅化するとか鉄道から車時代になると失われたともなる
車は便利でもどうしてもやはり人間的なものを失ってゆく、そして鉄道の駅舎とか鉄道自体が昔の暮らしを偲ぶ回顧的な場所になった
新幹線でもそれが早すぎて何か人が出会い分れるとか見送るとかの時間がなくなるのである
つまり時間の感覚が相当に違ったものになっているのだ
どうしても車で来ても車を見送るという感覚になれない、そこに肝心なのは人間の情が失われたことなのである
江戸時代とかを理想化するわけではないが明治時代でも戦前でも義理人情とかが日本人にあった、でもそういうものも機械化がすすむと失われてきた
それはやはり機械化とかいろいろ文明化して失われたとなる
旅だけではない、農業だったら昔は田植えでも協同作業でありみんなで田植えをした
村総出でみんなで村の田植えをしてそこに人間の結びつきがうまれた
機械化するとそういうものもなくなり村の結びつきも失われてきたともなる
機械化文明化で失われたものが相当にある
ただそれに気付いていないのである、何か現代が情がなく冷たくなったというとき
社会が変わったためだともなる
例えばその人がいつも言っている、道端で倒れても誰も助けてくれないという
それは車社会になると道端に倒れていても見えない、突っ走ってゆくだけだとなる
車だとそれは人間ではない、物体なのである
だから人間と人間が情を交わすことがなくなる
旅しても旅は道連れともならないのである、それは鋼鉄の物体なのである
そこに閉ざされて人間的交流を拒絶しているともなる
だからキレる人間が多くなったという時、車自体がキレるものなのである
それで突然自転車に向かって「馬鹿野郎」とか突っ走ってゆく
それも車から見れば自転車は邪魔者であり目障りになっているからである
歩行者でも車社会になると目障りになることがあるからだ
人間が車をもつこと車社会が人間をいかに変えてしまったかを知るべきである
足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹はさやに見もかも
袖振らば見ゆべき限り我れはあれどその松が枝に隠らひにけり
石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
人が分かれる時こうして袖をふる、それは何か呪術のようなものがある
そういうことになったのは人が別れる時なかなか会えなくなるということがあった
遠く解かれて逢えなくなるということで別れを惜しんだのである
それもその別れる姿とかその景色とかのなかに人と人で出会い別れるからそれが心に残るものとなった
車だったらただ車という物体が去って行くというだけになる
また逢うにしても今ならいつでも逢えるとなり逢うことの重みがなくなったとなる
こうして現代は機械化したりして何か人間的なものが喪失していったのである
要するに機械化することは人間も機械のようなる
そして遂にはロボットが人間の友となる、機械が人間の代わりになる
でも機械にはロボットにはいくら知識があっても情をもてないのである
そもそも古来キリストでもお釈迦さまでも宗教は愛とか慈悲を説いた時、最も重んじたのは人間の情愛のことである、それが機械化で失われたのである
その行くつく先が人間はいらない、ロボットが人間の代わりをしてくれるということなのである、ただロボットには肝心の情が愛情などもてないのである
ロボットがすべての代わりをしてくれないのである
底地機械化の盲点がありそれで情がなくなった世界は最も冷酷な社会にもなりうる
ロボットなら情がないのだから平気で人を殺戮できるマシーンになる
それも恐ろしいことなのである、だから機械万能社会になることも危険なのである
ただ人間社会はそういう便利なこと機械化から逃れられない、どこまでも追求してゆく
でもそれが人間のパラダイスになることはない
そのことはみんなすでに情なき社会で苦しんでいるかでもわかる
すべて機械にロボットにしてもロボットには情がもていないのである
だから病院には機械装置で囲まれて人間をみるにしてもそこに情がない世界になるから
嫌だとなる
今でも医者とか看護師でも情がないということがありいくら医療が発達しても病院は怖い場所だとなり病因では死にたくないという人も多いのである
最先端の技術で治療されても情がない世界は怖いということである
人間をただ物体のように見ることがあるからだ
そういうことを経験すると病院では死にたくなとなる
いづれにしろ旅でもそうだがそもそもあらゆるところで機械化してゆく、するとそこに欠けたものが何かわかる、すでに見えてきている、情なき冷酷な世界である
すでにそういう社会になっている、あらゆる場所で機械化自動化される、そこに情なき世界になる、人間はみんな物体になり人間として扱われないとなる
人間の相手をしてくれるのはロボットだけだともなってしまうのである
つまりロボット化することは人間もロボット化することなのである
道具に機械に頼ると人間もやはりその道具や機械によって人間性を奪われると警告していたからである
隠されし村
七曲の道を上り来て
山中分け入りて一村ありぬ
春の日に迷い入るかな
八重桜咲き山家あり
ほのぼのとして陰に休む
山腹に石によりシャガの花咲く
また一つ山の家の古りぬ
粗末な墓のいくつか草にうもれぬ
かくして川張り村を初にたずね
一本の木の下に石二つ
夫婦石ともあれ
ここの暮らしのいかに
かなた白石城への道
こなた梁川城への道
旅行けば道は分れぬ
ここに古くも暮らしありしも
大張村で白石の方に行く道と梁川へ行く道に分かれていた
その時二つの道からその方向への街を意識した、分かれ道は旅情を覚えるのである
つまりどっちに行こうかというときまさに未知(道)なるものへ旅しているからである
これが電車だとそういうことはない、規程路線を行くだけである
また車だとそうならない、ただ方向を変えて突っ走るだけだとなる
分かれ道があったとしてもあまり歩くとか自転車と違って旅情を感じないのである
ただ私は車で旅していないからわからないから車については語ることができない
丸森は阿武隈川あり蔵王が見えるし森か深いしそこに隠された村をがあるとか魅力があるただ一山二山とか全部ソーラーパネルになっていたので興ざめした
それよりもし台風などがきたら木がない山だから水が一気に流れだして来る
それで恐怖を感じた、丸森はソーラーパネル化されている、反対している村もある
何かこうして自然も破壊されて人間の情も喪失してゆくのは現代の文明のためである
それに反対しても社会状況で反対できないとなる
阿武隈高原の回想の旅の短歌 (阿武隈高原の魅力は幾重にも分かれた道にある)
【宮城県(仙台−松島など)(俳句、短歌、詩から歴史)の最新記事】