木の根っこ(飯館村の春の詩―私の思い)

木は大地に根を張る
徐々に深く深く根を張る
そして長い時間で成長する
ここに飢饉の碑がある
江戸時代の宝暦と記されている
寒冷の高原の地で民は苦しむ
でもここに根を張った木は動かない
その時代から代々人はここに生き続ける
そして我々の生は受け継がれる
その土地土地に歴史がある
歴史は先祖の苦労を偲ぶこと
その土地の根となること
それがこの地に生きること
苦しくも悲しくもまた喜びをともにする
それが断たれ失われ時
その根っこも失われる
その土地に死者も生き続ける
その土地から離れず生き続ける
その土地に根付き働き苦労して
その土地を作ったものだから
苦しくも峠を越えて私はまたここにやってきた
木は春になり芽吹く
風がそよぎ春の光りその根にさしている
私はその露わなる根を見る
土地に根付くその根を見る
そしてここに生きる人を思う
その場に人は生きた
その深い思いがここに残っている
でも人が住まなければそれもない
それが悔しく残念である
故にこうさせたものを憎む
憤りをもつ、怒りとなる
六字名号の碑の側に根も露わな木がある、今回はその根に感じた
何かそれが飯館村を象徴していた、飢饉もあり人々は苦しんだ
でもそれでも人々は代々ここに生き続けていたのである
村がなくなるということはなかった
人口が減っても村自体がなくなるとういことはなかった
そんなこと想像もできなかった
その村自体に人が住まなくなり荒廃した
確かに新しいこじんまりした家は建っている、でもそれは別荘だとういのも変なのである別荘とそこで暮らすのは違っている、別荘という時東京の金持ちが東京近辺に建てるものである、飯館村は別荘は似合わない、だから違和感がある
要するに原発事故で飯館村でも他でも放射線被害の大きい避難区域は根が失われたのではないか?
ただ帰ってきて何か農業でも始める人もいるし外から来た人が新しいことをはじめはている
でも肝心の村人で帰った人は少ないし60過ぎの人が多いだろう
もともと農業は60以上の人がしていた、そして近くの畑でも遂に死んだ人もいるし体がつづかなくなり畑をやめたとかある
そして耕作放棄地になった、原発事故以後はそういう土地が多いのである
それはここだけではない全国的にそうなのである
人間が生きるということはやはり生きる場が必要である
その場が故郷であり代々生きることが継続される
それが断たれることは歴史を失うことであり深刻になる
ただ歴史が失われるとしてもそれを感じない人もいる
金をもらえばいいとかなる人もいる
もともとここで暮らすのは苦しいから嫌だから住みたくないという人もいた
ただそこに生きることにかけがえのないものを感じていた人もいる
そういうことをまた原発事故以後痛切に感じた人もいる
それで山尾三省が東京に住んでどれほど田舎で暮らすことに価値を見出したか
まるで田舎の殉教者みたくなっていたのである
あんなふうに第一田舎の人でもならない、なぜならみんな車をもっているし一人一台でももっているからである、車がないと田舎では暮らせないからである
それは極端にしても何かそれほどまで一つの自分の生きる場を郷(くに)を求めた人はいない
それで原発事故以後共鳴したのである、あからさまに原発事故に反対してそのアンチテーゼとして自ら実践したのである
おそらく田舎に住む人より田舎の価値を農業の価値を生きたかったのである
それでその喜びが詩ともなったのである
私はただ別に農業をするわけでもない、飯館村に行ったのは他国をたずねるような気分でしかなかった、そこに暮らす人の苦労も知らない、ただ花を見て帰っただけだともなる
でもそこに峠を越えて常に行っていたから思い入れが生まれたのである
飯館村は相馬藩内だからやはり土地でもつながっていた
なぜなら新田川の上流が飯館の中心部の草野から流れていたからである
真野川は大倉村から流れているからである
土地としてもつながっている、それで放射性物質をつめこんだ袋が破れて流れたとき
それは南相馬市にも流れて来る、もちろん真野ダムに放射性物質がたまり流れだして来るだから飯館村だけが汚染されるということでもなかったのである
でも人が住まなければそれもない
それが悔しく残念である
故にこうさせたものを憎む
憤りをもつ、怒りとなる
六字名号の碑の側に根も露わな木がある、今回はその根に感じた
何かそれが飯館村を象徴していた、飢饉もあり人々は苦しんだ
でもそれでも人々は代々ここに生き続けていたのである
村がなくなるということはなかった
人口が減っても村自体がなくなるとういことはなかった
そんなこと想像もできなかった
その村自体に人が住まなくなり荒廃した
確かに新しいこじんまりした家は建っている、でもそれは別荘だとういのも変なのである別荘とそこで暮らすのは違っている、別荘という時東京の金持ちが東京近辺に建てるものである、飯館村は別荘は似合わない、だから違和感がある
要するに原発事故で飯館村でも他でも放射線被害の大きい避難区域は根が失われたのではないか?
ただ帰ってきて何か農業でも始める人もいるし外から来た人が新しいことをはじめはている
でも肝心の村人で帰った人は少ないし60過ぎの人が多いだろう
もともと農業は60以上の人がしていた、そして近くの畑でも遂に死んだ人もいるし体がつづかなくなり畑をやめたとかある
そして耕作放棄地になった、原発事故以後はそういう土地が多いのである
それはここだけではない全国的にそうなのである
人間が生きるということはやはり生きる場が必要である
その場が故郷であり代々生きることが継続される
それが断たれることは歴史を失うことであり深刻になる
ただ歴史が失われるとしてもそれを感じない人もいる
金をもらえばいいとかなる人もいる
もともとここで暮らすのは苦しいから嫌だから住みたくないという人もいた
ただそこに生きることにかけがえのないものを感じていた人もいる
そういうことをまた原発事故以後痛切に感じた人もいる
それで山尾三省が東京に住んでどれほど田舎で暮らすことに価値を見出したか
まるで田舎の殉教者みたくなっていたのである
あんなふうに第一田舎の人でもならない、なぜならみんな車をもっているし一人一台でももっているからである、車がないと田舎では暮らせないからである
それは極端にしても何かそれほどまで一つの自分の生きる場を郷(くに)を求めた人はいない
それで原発事故以後共鳴したのである、あからさまに原発事故に反対してそのアンチテーゼとして自ら実践したのである
おそらく田舎に住む人より田舎の価値を農業の価値を生きたかったのである
それでその喜びが詩ともなったのである
私はただ別に農業をするわけでもない、飯館村に行ったのは他国をたずねるような気分でしかなかった、そこに暮らす人の苦労も知らない、ただ花を見て帰っただけだともなる
でもそこに峠を越えて常に行っていたから思い入れが生まれたのである
飯館村は相馬藩内だからやはり土地でもつながっていた
なぜなら新田川の上流が飯館の中心部の草野から流れていたからである
真野川は大倉村から流れているからである
土地としてもつながっている、それで放射性物質をつめこんだ袋が破れて流れたとき
それは南相馬市にも流れて来る、もちろん真野ダムに放射性物質がたまり流れだして来るだから飯館村だけが汚染されるということでもなかったのである