桐の花、夏蝋梅、薔薇(最近の短歌十首ー桐の花の詩)
夏蝋梅
我が家につばめ飛び入り去りにけり新しき事起きるべしかな
庭作り働く人のその姿たくましきかな夏の日さしぬ
はなやかに庭を充たして赤き薔薇今盛りと咲きて映えにき
風そよぎ夏蝋梅の我が庭に心地良く咲き影なし休む
黒揚羽飛びてさりにき我が一人家にこもりぬ裏の路地かな
音もなく桐の花散るひそけくも我が命も散るべきものかな
雨しとと桐の花散るこの道を今日も行きしもひそけかりけり
雨しとと水たまりにそ桐の花映して静か我が一人行く
雨しとと水たまりにそ波紋かな桐の花散り道のひそけし
ヨシキリのしきり鳴きにき河原かな小さき町を我が行き来する
真昼の桐の花
屋敷林の影が濃く
長い木陰の道
蔵があり前畑が広い
農家が点々とあり
家はひっそりとして
誰も顔を出さない
農夫が黙って畑を耕している
桐の木が一本
真昼に花が咲く
年老いて今は思う
こういう所に安らぎがある
人は隠れているがよし
こうしてただよそ者として
通りすぎるとき平和がある
藪をつつけば蛇がでる
土を掘ればまた虫が出る
人の世は欲の世
人と交われば欲が出る
血縁とて交わればもめる
人と人とに平和なし
この世に災いは尽きることなし
この道を行く人まれに
桐の花はただ天上を向き
わずかにそよ吹く風にゆれ
静謐さ保ち咲いている
この道をさらに行けば
墓所ありて眠る人は幸い
人に世話にならず
人知れず眠るは幸い
そこに永久の安らぎがある

桐の花の季節である、この花は雨しととふる季節に梅雨にあっているのか?
今年は梅雨が早い、いつも行く裏の道に桐の花が散っていた
桐の花も神秘的である、私の性にあっいるのは桐の花かともなる
何か気づかれないようにひっそりと咲いているからだ
いつもの裏の道を今日行ったら水たまりができて桐の花が散っていた、何かそれでしんみりとする
ただ桐というと会津の木なのである、桐箪笥とか桐の木が用いられるからだ
だから会津に行った時、やはり雨しととふり桐の花が咲いていた
雨しとと会津の墓地や桐の花
こんなふうになる、何かその土地に似合った花がある
でもちょっと旅しただけではわからない、真夏にも会津に行ったが奥会津では鬼百合が咲いていた、それも墓地の中だったのである
だから相反した花でも会津という土地柄に合った花だともなる
今自分の庭に咲いているのは夏蝋梅である、これは葉が大きく高く伸びる、そこに小さな花をつける、これも変わった花だと見る
赤い薔薇が咲いてまた夏蝋梅が咲いて夏である
自分の性格は母親ゆずりである、何か人をいとい内向きであり静かにしていることを好むからである、そういう点で桐の花があっているとなる
まさに詩のうな状態にあるのがいいとなる
とにかく人と人の間には必ず問題が起きて災いが起きる
自然は融和しても人は融和しないのである
それでなぜか自分に来た人が離婚した人が多い、最近小高の人も離婚した
その事情と経過はわからないが60過ぎて離婚した
その人と関係していた女性の人も離婚した、あの人も離婚したとかあの人も離婚したのかと本当に離婚が多い、男女でもこうして離婚が多い
熟年離婚も相当に多いだろう、それだけ男女ですら人間はうまくいかないのである
結婚はおそらく私にはわからないにしろ男女の恋愛とかで結婚しても好きで結婚しても
いろいろあっても結婚というのはうまくいかない理由はなにか?
それは男女二人だけの関係にしてしまうからでないか?
それで昔なら家と家の結婚だった、家というの中心にあって結婚があった
江戸時代でも侍の家なら御家大事なのである
だから江戸時代は藩という言葉はない、・・・御家中である、それが公(おおやけ)であり大きな家が一つになって尽くすということになっていた
つまり男女の好きだとかだけでは結婚は成り立たないとなる、結びつかないともなる
私の家は異常な争う家だったけど家が家を維持するいうことで最後まで成り立っていたから維持できたともなる、その家の中心が自分だったのである
ともかく人間関係はむずかしい、どこでももめている、別に家族でもみんなもめている
兄弟でももめている、だかち血縁でもうまくいかないのである
それで自分は人間関係が嫌で引きこもりになったともなる
人間を嫌い山や木や石とか自然と一体化することをしてきた、そこに人間がいなかったのである、人間からは必ず災いが起きて来る、だから人間と接することでどれだけ問題が起きているのか?それが人間社会だとなる
人間と接しない方が幸福だともなる、だから人間と接触しない、コロナウィルスは悪いことばかりではないとも見ているのである
人間は今や接触過剰になっていたからである