2021年05月12日

藤の花と相馬の城下町 (中村喫茶店の藤の花)


藤の花と相馬の城下町

(中村喫茶店の藤の花)

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城跡にシャガの花

中村喫茶店

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松並木影なし行きて藤の花

城下町路地の細道藤と松

城跡に何を語るやシャガの花

藤垂れて黒門下り夕暮れぬ


白藤の風にそよゆれ城跡の掘りに映れるあやめの花かな

紫と黄色のあやめ堀映り静かに歩む城下町かな

藤の花午後散り静か喫茶店猫一匹の歩みけるかな

長々と藤の花垂れそよゆれぬ優雅な時を過ごすべしかな


相馬市の城跡の藤の花をみて中村喫茶店の藤棚の花を見た
中村喫茶店の藤は半分は散っていたので残念だった
藤の季節である、どうも万葉集時代は藤の花はまだ日本的美として見出されていなかったそれがわかるのは平安時代になり藤の花が良く愛でられるようになったからである
それは宮廷の御殿の庭に植えられて愛でられるようになったからである

つまり庭で見ている藤と外で見る藤は違っていたのである
万葉時代は外で見た藤であり庭で見るということはまだなかったともなる
藤棚で藤を見るのは平安時代からであろう
他の花でも庭で見る花と自然の中で見る花は違って見えるのである
庭で見る花はより人間的な花となる、それは庭の石すら人間のように見えるようになるからだ、それで原発事故の避難区域で空家となった家の庭が淋しいのは主がいなくなり
何か石すら人間に見えるからである、人間化した石だから余計ち淋しいと感じるのである
藤は日本の歴史のなかでよく鑑賞されてきた花である、松も同じなのである
松はその高さでもあまり高くないし人間に見えるのである
だから次の歌はそれを象徴しているのだ

「常磐なる松の名たてにあやなくも、かかれる藤の咲きて散るかな。

(歌意、松の緑の美しさを引き立てるために咲いて散っていくことだ)」は
内親王の髪上げのときの屏風絵に題した紀貫之の歌だそうで、貫之集、和漢朗詠集に
採られています。

名たてとかあやなくとかわかりにくい、名たてとは松をひきたてることなのか?
あやなくもというのもわかりにくい古語である、あやとは文ともあてる
何か理由もなくとかの意味で藤の花と松を歌っている
常盤の松によるかよほい女性を暗示しているともなる、あやなくとは頼りないとかよめる松と藤はこのようにあっているのである

そしてなぜか相馬市の城下町に藤の花があっているのだ、だから城跡の藤の花もいいし
中村喫茶店の藤の花もいい、ただ庭はまだ改造していない、なんか金がかかるからである今日は午後でも人が来ていたのはあの藤の花をみるためなのである
ただ半分は散っていた、その下をひっそりと猫が歩むのが合っていたのである
相馬市の城下町は何かひっそりとしているから猫にあっているともなる

城跡の掘りには紫と黄色の菖蒲が映っているのもいい、城下町に菖蒲も似合うからだ
相馬市の不思議はなぜかしんみりとしてこうした花が似合うのである
原町とかとはまるで違った雰囲気があるのが不思議なのである
だから城跡に何もなくてもやはりそういう歴史があり雰囲気が残るものなのかとなる
でもそこに街が発展して高いビルなどが建つと東京のように煩雑になり江戸の雰囲気は感じなくなるなのである



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