川は道となり海も道となり歴史を作る
(阿武隈川から太平洋に出て塩釜から江戸へ船で荷を運ぶ道)
山川海の道
山は閉ざす
川は道である
上と下とを結ぶ
山は閉ざす
峠を越えると
新しい世界が開け
そこに小国がある
川は物を運ぶ道
同時に心の通う道
はるか上と下とを結ぶ
山は閉ざす
川は山間を出て流れ
平野に導き
街に導く
山間ぬうて
何か蛇のように
道は曲がりくねる
道は分れ一時とどまる
どちらに行くか
道は未知である
分去(わかれさり)に旅人の思い
日永の春の日に
いづこへともなく旅をする
ああ、その日がなつかしい
山はとざす
道は外へ通じる
家と家をつなぎ
村と村をつなぎ
街へ出る道
道が違えば新たな世界が開ける
常に道に誘われ旅人は行く
その道は尽きることがない
山中深くさえづりはひびき
山は閉ざしぬ
草にうもれ墓あわれ
一軒の家の暮らしあり
石のかたえにシャガの花咲き
その家の古りしも
我は道をたどり旅をつづける
交通から自然と歴史をみる、地形とかからもみる、それは旅が仕事になっていたから自分に合っていた、これは興味が尽きないのである
日本では川が外国と違って急流となったり障害が多く交通路になりにくい
外国人からみると日本の川は滝だというのもわかる
ただそれでも最上川は交通路になっていた
そして阿武隈川も小規模であれ交通路になっていた
そこから歴史でも地域でも見る、するとわかりやすいとなる
なぜなら交通路になっていることは物流であっても人と人が結ばれることだからである
地形的には山は閉ざされる、そこで山形県出身の真壁仁が峠の詩を書いたことはわかる
山形県から宮城県に入るにはまた福島県に入るにも山がさえぎるからだ
鉄道がないときは山形県の山寺に出るにも山で遮られているから峠を越えなければ行けないとなる、それで福島県に出る山の上に鉄道の峠駅があるのもわかる
峠の字は国字なのもわかる、それだけ日本には峠が多いのである
だから山は閉ざすのである
峠は決定しているところだ
峠には訣別のための明るい憂愁が流れている
峠を越えて
新しい世界が開ける
峠を越える時すぎこし道のなつかしく
開ける道は楽しい
道は答えない
道はかぎりく誘うばかりだ
(真壁仁)
峠はこういう場所である、峠というのは新しい世界に入る場所なのである
会津でも山国でも新潟と阿賀野川を通じて交通があり物が運ばれた
北前船が入ってきていたからだ
それと同時にコレラとかが流行したとき伝染病も入って来たとなる
疫病の伝染は交通路と深く関係していたからである
それで川は交通路になると外部へ開く道となる、阿武隈川だと福島市から米などを運ばれていた、板倉藩があり河岸に港があり梁川の方へ阿武隈川が流れて丸森へ運ばれる
丸森から岩沼へ運ばれ荒浜の港へと運ばれる
でもそこで問題だったのは阿武隈川を荷物をのせて下って来た船は小舟である
大きくはない、すると海を渡るのは無理だった
それで一旦塩釜の寒風沢島(さぶさわしま)に行って荷物を別な大きな船に乗せたのである、そこから江戸へ米などを運んだのである
その大きな船がなぜ作れたのか?
伊達政宗が慶長遣欧使節団をヨ−ロッパに送ることができたのか、太平洋を渡りメキシコから大西洋を渡ることができたのか?
それだけの雄大な発想自体できたのかとなる
それは造船技術がなければできないことである、その造船技術はスペインの宣教師が入って来て伝えられたからだとなる
海は日本だと島国であり閉ざすともなるがまた開けるともなる
海はやはり川と同じく交通路になる
ただ太平洋は波が荒く日本海が交通路になった、北前船が通ったからである
ともかく大航海時代の影響は日本がにもあった、キリスト教の宣教師が日本に来て布教した
それは信長が許可したからできた、実際にビスカイノとかが相馬まで来ている
それは慶長地震津波があったときでその報告をしている
そのスペインであれ宣教師の役割りがあり伊達政宗が世界に目を開かされたのである
ただ太平洋をわたり大西洋をわたりヨ−ロッパに行くということは容易ならざることである、それより第一そんな発想自体できないとなる
ただ信長の時代は意外と国際的な時代だったのである
結局海を交通路としたスペイン、ポルトガルが世界の乗り出して歴史を変えた
そのあとにオランダが貿易立国となり豊かになった、そして次にイギリスが七つの海を支配して覇権国になった、その次にアメリカが日本を支配して世界の覇権国になった
日本との戦争が太平洋戦争というのも海を支配したからそうなる
それは海が交通路として重要だからそうなる
今度は中東から石油を運ぶということで太平洋航路が重要になり中国とアメリカが争うことになる、つまり海をめぐっての覇権を争うことになる
海を制するものが世界を制するとなったのが大航海時代以来の歴史だった
交通から歴史をみるとき世界は結ばれるのである
旅は遊行にしてもやはり現実の経済生活と関連している、旅と交通路と道は密接に関連している
ただ旅という時単に効率的に物を運ぶというのではなく、道を行くことで旅の気分になるそれも電車とか車と違って一番道を意識するのは歩く旅とか自転車の旅なのである
今回のその旅を思い出した、大張に来て道が分かれている
白石市に行く道と阿武隈川から梁川に行く道が分れている
そうして分かれ道でどっちに行こうかというのが旅である
それで分去(わかれさり)という地名が残るのもわかる
歩く時代は旅は道連れとしても分かれたらもう二度と逢えないし連絡もとれないとなるからだ、その分去という場には人間の深い思いが残された場所なのである
それは決められ道ではない、道は未知であり未知にいざなわれるのが旅なのである
ただ鉄道とか車だとそういう旅がないのである、ただ移動するだけだともなる
いづれにしろ近くでも旅がある、その旅でも車とか電車だと道を感じない
道に未知に誘われることがない、だから現代では便利になりすぎて旅人もいないし本来の旅ができなくなったのである
ただ正直この年になったら自転車の旅はきつかった、三日くらい足腰が痛く疲れがとれないのである、だから限界を感じた、でも近くでももし歩いてとか自転車だったら旅になるそれで折り畳み自転車ならなんとか旅になると思ったのである
でも坂を上ることがきつかった、七曲りの坂道が延々と続いていたのである
そこで疲れたとなる、でもその七曲りの坂を越えてこそ旅なのである
春光のまぶしや峠のかなたにそ我があこがれて進みけるかな
この時は峠のかなたに行けなかった、とても一日では行けない行程だった
前だったら行っていた、やはり体力がないと旅はできない
でも一日でも歩いたり自転車なら旅になることを知ったのである
川上とこの川下や月の友 芭蕉
これは大きな川ではない、小名木川だとしている
友思ふ舟行く後の松に月 (自作)
浮世絵では運河のような小さな川である、だから人間的だとなる
かなり身近で結ばれていた川であり最上川と大きな長い川ではない
日本だと長い大きな川がないからそうなる
距離もそもほどないから通えたともなる
そこに有名な松もそうである
松は何か人間に見えるからである、人間がそこに立っているという感じになるからだ
とにかく江戸時代の景色は本当に人間的であり自然と調和していたとなる
ただ江戸時代の花見とか枯野見とかまであったのは自然がないから自然に親しみたいとしてそういうことが生まれた
密集した江戸の町中にいるのは確かに閉塞感があり自然を求めた
ただ簡単に行けない、歩くから距離があるからである
つまり江戸では簡単に自然に親しめる環境ではなかったともなる
枯野見と江戸に感じる季節かな
江戸時代、枯野見の名所の一つに雑司が谷がありました。雑司が谷は現在の豊島区池袋近くで今はビルが立ち並ぶ所ですが、当時は静かな耕地だったそうです
とにかく交通路として川がここに現実あったがそれは小さい川であり距離もない
外国になると長大な河になるからだ、それで日本では川が交通路となれなかった
川は交通路となったとき文明が生まれたからである
四大文明そうである、その大きな川がないことで文明そのものを日本では理解しにくいとなっていたのである
芭蕉の川の俳句 小名木川
小名木川は江戸物流の重要河川と認識され、利根川東遷事業と併せて拡幅され、小名木川と旧中川、新川の合流地点には「中川船番所」が置かれた(幕府の役人がそこに駐在し、行き交う船の積み荷に江戸の治安上危険な物などが紛れ込んでいないか確認するために簡易な検査をしたのである)。新川、江戸川、利根川を経由する航路が整備されると、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の年貢米などが行き交う大航路となった。
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