梁川は地理的要衝の地
(会津と米沢と伊達正宗が争った地)
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伊達政宗の初陣は伊具郡(宮城県丸森町)での相馬氏との戦いであったが、その時に伊達軍の拠点となったのが梁川城で、政宗は梁川八幡宮に戦勝祈願をしたといわれている。また、その政宗が田村郡の田村氏から愛姫(めごひめ)を正室として迎えたとき、花嫁の受け渡しがおこなわれたのも梁川だった。
奥州仕置によって伊達氏が岩出山城へ移ると、梁川城は蒲生氏郷の領地となり、氏郷の死後は、上杉景勝の領地となって、梁川城には須田長義が置かれた。現在の梁川城の遺構は基本的にこの時代の城主(蒲生氏郷家臣の蒲生喜内か上杉景勝家臣の須田長義)によるものと考えられる
寛文4年(1664年)、上杉綱勝が後継者を決めぬまま急死し、本来ならば改易になるところを吉良義央の長男・綱憲を養子に迎えることによって上杉家の存続が認められるという騒動の際に、上杉領は30万石から15万石となり、梁川城を含む伊達郡(および信夫郡と置賜郡屋代)は没収され、天領(約20万石)となった。この時、梁川城は廃城となった。
なぜ梁川城をめぐって伊達と米沢と会津がみつどもえで争ったのか?
そこが。地理的要衝だったからである
その城自体が前に広瀬川があり阿武隈川があり後ろが山であり要衝の地に作られていた
だからここは前々から地理的要衝の地だったのである
それで私が阿武隈川にそって丸森の大張とか耕野から出ると梁川に出て平野が拓ける
そこが春野となっていて気持ちいい光景になる
山に閉ざされたところから出てきて平野に出たなと解放された気分になる
つまりそういう所に梁川城があったということがまさに地理的要衝になっていたのであるだからこそ会津藩でも米沢藩でも伊達藩でもここを支配したいとなったのである
そうなるとここで覇権争いも起きてくる
そのことで丸森の木材をめぐって米沢藩と伊達藩と相馬藩が争ったのである
そういう要衝の地だからこそここが中世から重要な地点となり城がすでに築かれていたのである
そういうことで本当に歴史でも地理がわからないと理解できない、地歴なのである
その地理を理解するには電車だけではわからない、車でもわからないのである
閉ざされた丸森の山間の部落から出てきて峠を越えてそれが体で理解できる
電車だとトンネルをくぐるから峠の感覚がわからないのである
伊達正宗はまずこの梁川をおさえた、それから丸森に入り筆甫に入り相馬氏と戦う
初陣の地が筆甫だったとなる、相馬氏も金山城の城主となっていた、相馬氏も丸森の木材をめぐって争っていた、そういう場所だったのである
梁川城は古い城下町なのである、足軽町とかある、こんなに足軽が住んでいたのかともなる、なぜなら相馬藩だと中村城は城下町でも足軽町とかないのである
城跡があっても何かそうした城を囲んで足軽町がない
それは相馬氏では野馬追いに見られるように農業をして侍だった郷士が多いからである
城勤めではない、もともと農民であり侍であり給金を支給されていてもその土地に土着する農民だったからだとなる
だから野馬追いには農家から出るのがほとんどであり街内から出ないのである

ともかく伊達氏だと白石には伊達政宗の片腕の片倉氏がいて補佐した
それで白石城がある、白石にも丸森から道が通じて近いとなる
そして白石市の菓子屋には足軽まんじゅうを売っていた
足軽が食べた饅頭だからとなる
足軽の庭は、観賞用ではなく
主に生活のため
果樹を植え、畑もしていたそう
下級武士でも内職していたし庭には必ず柿の木などを植えていた、それは食べるためのものであり鑑賞用ではない、柿は果物がない時代には貴重だったのである
それで大正生まれの母の好物は柿であり干し柿だったのである
果物というときその頃柿を主に食べていたとなる
みかんなどは東北ではとれこないから簡単には食べられないからである
伊達市があんぽ柿で有名である、柿は干し柿として御菓子にもなっていた
それで私の家の庭にも渋柿だけど柿の木があったことを思い出した
農家では今でも柿の木はあるけど街内ではめずらしいとなるがやはり食料として植えていたとなるのかもしれない、とにかく何でも自給しないと生活できない時代が長くつづいていたからである
江戸時代の暮らし
http://hiariya.com/asigaru-haken
ここは結構江戸時代を語っているから面白い、何かあらゆることにいろいろな見方がありそれで検索するとそれなりのものに当たりそれで今はインタ−ネットで編集する
出版社の編集者のようなことができるようになったのである
知識のネットワークができているからそういうことができる
いづれにしろ昔を偲ぶというとき何か手がかりが必要になる、戦前の暮らしとか戦後十年は燃料は炭であり山では炭焼きをして暮らしていた
それから全国的にも養蚕が盛んであり生糸を作ってアメリカなどに輸出していた
それは戦後の日本が電器製品を外国に売り高度成長した時代と同じである
生糸を輸出することでそれが日本の財力となり軍事にもその金を使い拡張したのである
そういう時代が戦前だったのである、梁川でもそうして生糸生産で豊かになったということがある
山の中でも養蚕が行われていてそれで金になり山の中でも暮らしていけたということがある、時代が変わり山で暮らすことが容易でなくなり過疎化している
材木でも外国から輸入するから森があっても木材があっても活用されないからである
ともかく時間軸でその土地を知るのと空間軸で地理からその土地を知る
この二つがあってその土地の理解を深めることができる
だから地歴だとなる、それでできれば歩いて旅するとか最低限でも自転車で旅するとかすると地理がわかる、電車でも車でも峠を越えるという感覚がもてない
電車だとトンネルをくぐるということでトンネルの向こうは雪国だったとかなる
でも江戸時代ならみんな峠を歩いて越えたのである
そういう旅は体で記憶しているから忘れないのである
私の場合は飯館村へ長い坂をのぼり峠を越えることをしているから峠を意識する
丸森だとやはり必ず峠を越えて相馬の方に帰る、その時春だといつも夕桜になっていて
心に染みるとなる
山に遮られているから山を歩いてでも越えるということでその地理を体で理解す
相馬藩玉野村の境界争いはなぜ起こった?
相馬藩、伊達藩、会津藩の攻防
http://musubu.sblo.jp/article/33335256.html
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