2021年04月03日

奈良の桜の俳句(奈良が語る歴史−京都との相違)


奈良の桜の俳句(奈良が語る歴史−京都との相違)



三重塔雀や奈良に蓮華かな

桜咲き奈良の夕暮れ古き壺

築地塀古りて門あり落椿

大仏に春の恨みや蝦夷鎮む

堂塔の跡の礎石や花の影

奈良なれば掘れば遺物や春の暮

(西の京)

夕桜奈良の昔や西の京

朝たずぬ唐招提寺や燕来る

春日没る薬師寺の塔古きかな  


奈良めぐる近鉄の駅春の暮

秋日和猫の眠れる奈良の駅


奈良俳句集
http://musubu.sblo.jp/article/8619460.html



奈良を旅したのもずいぶん前である、30年とかそれ以上過ぎている
そうなると記憶もあいまいになる、だから今になると記憶することが大事なのである
なぜなら記憶が蘇らなければもうそこに行ったという旅したということもわからなくなるそこにいたということすらわからなくなる
でもこれだけ時間がたつとどうしても記憶があいまいとなる
それが意外と大きな問題だった、結局人間は何を記憶したが人生となる
だから一番印象に残ったことを延々と老人は語る、認知症になると戦争経験したことを千回も聞かされたとなり聞く方もうんざりしたとなる
でもそれが一番印象に残ったことだから語りつづけたのである

ともかく奈良とか京都とか大阪でも歴史が古い、その歴史があって桜が咲く、するとその歴史を知らないと感じないと何も感じないとなってしまうのである
外国から来た人は日本の歴史がわからない、するとなぜ大仏があるのかとその由来もわからない、大仏は鎮護国家のために作られたのである
奈良とは大和が興った場所であり日本国家の起源の場所でありそれが違っている
ローマだったらまさにローマがローマ帝国の起源の場所だったのと同じである

唐招提寺というときこれも名前のごとく唐を招くであり鑑真和尚が中國から海を渡ってきて仏教を伝えたからこの名がある、そういう簡単なことを見逃していた
人間は歴史的なことがつくづく簡単なことでもわからないことがあるのだ
そして大仏には蝦夷制服で殺された人々の魂を鎮めるものだったのである
靖国神社でも戦争で死んだ人の魂を鎮める場所だったようにである
そういうふうに歴史を知らないと何か今だけ見たら感じるものがないのである
ただこれだけ時間がすぎると奈良自体も変わる、朱雀門とかが再現されたりしているからである、平城宮も私が行った時は枯野だった、芒がなびいて何もなかったのである
だからそこがどうしても平城宮があったということが感じられなかったのである

月の出て平城宮跡枯野かな

こんなふうになっていた、だから今度訪ねて見れば感覚的相当に違ったものになる
当時の華やかさが多少再現されるとはなる
奈良とは何か印象として違っていたのは田舎だったということである
回りが田畑であり田舎の風景があった、そこが意外だったのである
それがまた京都との大きな相違だった、京都は千年都とてしつづいた
今にも継続している都である、でも奈良は日本の国家の起源となった奈良時代で日本の歴史の最初のページを飾ったがあとは京都が中心となり平安京となり次に鎌倉時代があり
さらに戦国時代には大阪が商都となりまた秀吉の大阪城が中心となった
その継続として大阪と京都が交通的にも新幹線でも走り奈良ははずれた地域となり実際に関西では田舎になったのである
だから奈良は田舎だよなと関西の人は言っている、実際に奈良から京都はそれなりに距離がある、一時間くらい電車でかかったような気がする
つまりそれなりに離れているのである

だから田舎だという時、奈良のはずれの方に三重塔がありそこは野原であり田畑があり
すずめが三重塔に群れてとまりレンゲが咲いていたのである
レンゲとなると何か田舎的だからである、桜と梅は奈良でも京都でも咲くがレンゲとなる田んぼとか畑が似合うとなるからだ
そもそも万葉集とは奈良時代の遺産だがそれはまさに都会ではない、田舎の暮らしを歌ったものである、奈良の山とか自然を歌ったものである
自然で暮らす人々の歌なのである、平城宮があったとしてもそれは一部の貴族のものである、その貴族にしても平安京の京都とも違う、それはローマの貴族がもともと農民でありその名前に野菜の名が多いというときそうである  

もともと農民だから質実剛健でありローマ帝国の兵士となり大帝国を築いたのである
それと似ていて奈良の貴族は平安京の貴族とも違う素朴なものを原始性をもっていたとなる、だからこそ万葉集と古今集がなぜあれほど違うのかそれを示している
古今集の短歌は何か貴族の遊戯と化しているからである
宮中とか御殿の中での生活である、枕草子とか源氏物語の世界になる
万葉集の主なものはほとんど野に生活する人々を歌っているから本質的に違っていたのだそこに万葉集の価値がある

第一飛鳥でも藤原京でもそこは田畑になっている、藤原京の跡は田んぼであり秋にたずねたときは刈田になっていた、それでここが藤原京なのか都跡なのかそう思えなかったのである、それとにて奈良でもそういうことがあったが奈良はやはり都会であり平城宮跡があった、でもそこはただの空地とあれ荒野になっていたのである

ローマとか昔の外国の遺跡だとその跡が石の建築だから残っている
それで今でもローマでは地下であれいたるところにそのローマ時代の石の建築を利用して建物がある、日本ではそうした古い遺跡は消えてしまうのである
だから奈良の都にしても何もなくなってしまっていたのである
ただ大仏殿は日本国家形成の起源の記念として残ったとなる

いづれにしろ人間にとって記憶がいかに大事か、最後に残るのは記憶したものである
奈良でも京都でもローマでもたずねたから何か比べることができる
それでも記憶があいまいとなりわからなくなる、それが問題になる
歴史を知るというときやはり何度もその場をたずねないとわからないとういこともある
関西に住んでいればそれができるが東北だと遠いからできない
つまり人間の記憶は歴史は場所に刻まれているからである
だからその場所に立たないと記憶が蘇られないのである
奈良と言えばいまでもともかく発掘がつづけられて何かしら新しい発見がある場所である

土うもれ欠片(かけら)の語る昔なれ平城宮(ならのみやこ)の春のくれかな

日本は桜前線とか桜の国だけど桜は一二週間で散ってしまう、するといくら桜の名所が日本中にあっても桜は見れないのである、その見る場所が限られてくる
これだけ日本全国を旅しても桜を見たのは自分でも限られてくるからである
narakyotosakura.jpg

奈良から京都の色合いはこんなふうになる、京都となるとその色合いが濃くなる
そもそも万葉集には桜の歌は少ないのである、ただ今見ている桜はソメイヨシノでありこれは江戸時代のものであり
もともと桜は野生種であり今見ている桜とは違っていたのである
そこが誤解しやすいのである


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