助の観音
塩の道
春が来ない廃屋 車が埋もれている
あいの沢の水芭蕉
栃窪の耕作放棄地
春日さし塩の道行く飯館へ
椿咲き助の観音に休むかな
春風の頂上に吹き峠越ゆ
春風の山のかなたより吹きて行く
春の日に斜面を上る山の雉
入り乱れ蝶の飛びかう山の道
山の道いぬふぐりにそ蕗の薹
木の根にも春の日さすや飯館村
大石やここに住みつき蕗の薹
春日さし寄りそう石の五つ六つ
飯館に石重なりて芽吹きかな
春は来ぬ廃屋一つ冬芒
紅梅の匂いて夕べ走り去る
紅梅の匂いの良しや夕べかな
山里や紅梅匂う夕べかな
美しく空地を充たすレンゲかな
紋様の違ふ三羽の蝶山路にそ交わり飛ぶや我は来にけり
塩の道殿様道も春の日や去年の落葉にうもれけるかな
飯館に飢饉のありぬ供養塔去年(こぞ)の落葉を踏みて見るかな
根づく木の根も露わにそ供養塔ここにありしも春の日さしぬ
春の日や家の前にそ媼いて我と語りぬ飯館の道
我が家の前にそあわれ媼いて村なつかしむ春の日さして
栃窪から塩の道をたどり飯館村まで行った、さらに高く登ってゆくと北から春の風が吹いてくる、普通浜通りでは春は東風(こち)で海から吹いてくる、山では北から吹いてくるこの道は久しぶりで通った、何か山頂の方に春風吹いて気持良かった
ただこの道は途中で大きく崖崩れがあって通れない、自転車でも通るのに難儀した
途中助の観音で休んだ
相馬市から塩を運んでここで泊まったということもあった
一日馬で来てこの辺で日が暮れたとなる
今来た道は新しい道であり塩の道は沢沿いを来て森の中に通じている
途中に馬繋ぎ木とかありいかにも馬がつながれて休んだ場所がしのばれる
ただそこを行くことは荒廃して難儀でありずっと行っていない
でも何か道が細く危険な場所である
だから牛転がしとか馬転がしとかの地名がつく、道が細く下を見ると谷間になっていて怖いのである
地名めぐり・町名めぐり
https://history.riok.net/chapter04_section04.html
助の観音で休んだ、そこに椿が咲いていた、そして塩の道がここから通じている、森の中に入る、そこに道が二つに分かれていた
殿様道というのがあったのだ、それは平民と殿様が通る道に分かれていたのだ
なぜそうしたのか?平民と殿様が合うとまずいということで二つの道を作ったのである
これも江戸時代の厳しい身分制の歴史を示している
その道は去年(こぞ)の落葉に埋もれていた、この塩の道をたどるのは今でも危険であり難儀である
そこからもまだ山の道はつづきようやく飯館村に出た
道の駅の後ろでばあちゃんがここは風が強いと言っていた、新しい家に住んでいる
でも家が少ないからまともに風を受ける、また標高が高いから風を受けやすいということである、ただ別に平地でも北風が吹くから風は受ける、ただ北風がここではまともに受けて寒いしここでしか感じられないものが気候には必ずある
飯館村は冬は寒いのである、それで宝暦の飢饉は悲惨なものになったのである
この寒い所で米をとることはかなりむずかしい地域だったからである
その後ろの道は塩の道だった、前に書いたが塩の道の宿だったという蔵ある家があった
その人は前の土地をもっていてその土地に新しい住宅が建てられたから金が入ったとされる、だから新しい家を建てた、ただそのばあちゃんは私は財産などなかったからたいして補償金もらえなかったとか言っていた
この補償金の差がまた大きいのである、だから必ず不満な人がででくる
その塩の道を行く隣に新しい家の前でばあちゃんが休んでいた
それで話しかけたら私は福島市に住んでいてここに時々来ている
ここは私の家です、でも住んではいないんです
今飯館村で誤解しやすいのは新しい家があるから人が住んでいるように見えるのである
てっきり住んでいると自分も思ったからだ
そのばあちゃんは車を持っていたが返納したという、そういう人が本当に多いのである
第一飯館村のような広い場所では車はもう必需品である
今はスーパーすらないのだから隣の川俣村に買い物に行くにもバスがでているとしても車がないと不便であり生活もできなくなる
そのばあちゃんは85にしては若く見えた、肌が若い、一方もう一人のばあちゃんは65なのにふけて見えた、85なのかとも見えた
何か年齢で60以降は計れない、若い人は若いし老ける人はふける
その差が大きいのである、
20才も差があるのに20歳上の人が若く見えたのである
飯館村では森の中に石がありその石を見る、いろいろな形があり石がよりそい春の日がさしてそれが人間に見えるのである
そこに住んでいる村人に見える
何ひか暇な老人が何人か集まる場がある、そのように人に見えるのである
ただ問題は何か飯館村でも建物は立派になっても人が住んでいないことが最大の問題なのである
いくら立派な建物を建てても活かすそこに住んでいる人間だからである
確かに外から来た人がかなりいる、大倉の方に郵便を配達ひてきた人は外部から移り住んだ人だった
でもまた移り住む人も老人が多い、となると未来の村を担う人がいなくなり将来どうなるのだろうとみる
時々新しい家があり昔をなつかしんで帰ってくるという光景も不思議なのである
そして飯館村で考えることは人は住むこと自体に大きな価値があるということである
こんなこと普通は意識しない、でも人が住まない町とか村になると住むこと自体が相当な価値あることになる
今まではそんなことを感じなかった、むしろこのような不便な村を出たいということがあった、そのために補償金をもらい若い世代は福島市などに流出した
逆にそうなったとき村に残り住む人はここで生きること住むこと自体新たな大きな価値を生むことになった
人間は住まない限りその村のその土地の一員となることはできない
時々なつかしんで住んでいた村に家に来てもその村の一員にはなれない、生活は別な街でしているからである
それで
大石のここに動かず蕗の薹
こんなふうになる、動かないここに住んで動かないということでその石も活きているとなるからだ、そしてここにも芽吹きがあり蕗の薹がでてくる
そして山菜料理をここで食べている時ここに住む価値がある
だから心とはココのことでありその生きている場所と一体化することなのである
だからこの辺ではありえないことが起きていろいなことを見直すことになったのである
なんとかまた飯館村の大倉にでて栃窪に出た、この時バッテリがきれていたから苦しくなった、でもバッテリー無しでもなんとか走れるから自転車はいいのである
バイクとかでも燃料がなくなれば走れないからである
ただこの電動自転車は楽に走れるので遠くまで行けるのである
栃窪村では紅梅が匂い夕べになっていた、その耕作放棄地にレンゲが咲いていた
自然は空虚になった場所をうめる、美てもって覆う、このレンゲが美なのである
それが自然の作用なのである、美があるから救われるのである
それで津波で八沢浦が入江になったときほど驚いたことはない
確かにそこでとがめられた、でも美しい入江になった、津浪でも闇黒をもたらしたが一部では美をもたらした、海岸地帯は湿地化して釧路湿原のようにもなったからである