母姉亡き後に家で偲ぶ短歌十首
(死者を愛することの意味ーキケルゴールから)
母座るところに我も座りつつしのびて冬の夜ふけにけるかも
我が家を姉の守りて鬼瓦強き女かな支えけるかも
玄関に写る枯木や母座るところに座りしのびけるかな
我が余生姉と母しもしのびつつこの家に暮らし生を終えなむ
もの言わぬ死者にありしも母いぬ目に見えぬも我に映りぬ
70年我が家にあり勤めけるその長さかな死してなおあれ
我が家にともにありにしその日々のかえらざるかな一人しありぬ
人は逢い人は別れぬさにあらず死ぬ人とも行きゆくものなれ
人は死に形は消えぬさにあれど死者を想いて愛は通いぬ
死者はなほ家にありたしそれ故に家を離れず目に見えぬとも
百才を生きて死ににし我が母の想いは家にそありにけるかな
死者を愛することは可能なのか?
それはキケルゴールが死者を愛せというとき死者を愛することは全く無私が要求される
それで本当に愛することを知れと説いている
本当に死者を愛することはまず全く反応がないから意気消沈することである
なんの報いもないのである、本当に死者は反応ない
そして依然として生者は死者に親だったら何かしてくれることを望んでいるのである
死者にお願い事をしている、自分もしている
でもそんなことを死者は関係しない、死者は冷厳であり反応しない、そんな願いなど聞き入れない,聴きもしない、ただ沈黙しているだけである
それだけから死者を愛せといっても無力感を感じる
徒労のように思う、それで長続きせず親でも忘れてゆく、もはや何もしてくれない死者に疎遠になるのである
愛と言っても人間が必ず報いを期待している、全く無私で愛したりできないのである
ボランティアにしても全く無私ではできない、何か報いを期待しているのである
それで何か自分でも強制的に相手に対して報いを要求するのである
それが経験でわかったのである
だから無私の愛というのは現実社会ではありえないともなる
親の子供の愛でも将来的に報いを期待しているのである
子供が成長したら親のために役立つことをしてくれるということで全く無私ではない
それが成長して重荷になる、それは常に人間の愛は対価を要求しているからである
無私の愛などほとんどないのである、親子の間でもないとしたらありえないとなる
他人ならさらに報いを要求するからである
それより私でも苦しんでいる時、金をまずくれたら助けてやるとかなった
何かしてもらいたいなら金を出せとなる、相手が苦しいことをいいことに脅迫するようなことをする、それが人間の実体なのである
金をもらわないなら小さな荷物一つもたないともなる、それが現実社会である
そういう人が事業して社長になるというとき社長という地位を得たいためでありその本人は他人のために小さな荷物一つも無料では運んでもくれない人だった
そういう人が社長になれるのか、それが疑問だった
ともかく確実なことは無私の愛は人間はもてない、自分自身でももてなかった
何かを報いを期待する愛である、何かをくれないなら金をくれないなら何一つしないというのが現実社会である
宗教だって賽銭を神様に与えてお願いする、常に人間は報いを期待している
百円賽銭を与えたら千円くれとかなっている
宗教団体でも対価があってしている、会員一人増えれば一票となり権力を得るとかなる
宗教自体が無私のものはないのである、絶えず宗教家自体でも報いを期待しているのである
ただ奇妙なのは障害者とかを世話している親は無私の愛なのかもしれない
なぜなら障害者は親に報いてくれないからである
でも50になっても世話しているのである、でも他の子どもは子供の時苦労して育てた
それでも医者になったとかなり報いちれているのである
障害者を世話する人は全く報いられていないのであ
またペットなどでもそうである、でも犬とかなれば飼い主に愛嬌をふりまくとか何か愛することで反応がある、ただ私の飼っている猫は反応がない
人に慣れない猫なのである、だからその猫を世話しても何か報いがないということで死者と似ている
私の家族が姉は死んで十年もすぎたし母も死んで四年とかすぎた、でもなぜ私は家族を思っているのか?それは生前特別良くしてもらったし60年とか70年とか一緒にいたことによっている、その長さが影響して思っている
それで私の母親が依然としてそこに座っている、それが本当にその存在を感じるのである嫁とは女に家なのである、嫁の座がありその座に依然としている
でも家のない人は何かそういう存在感を持てないのである
死者は長い間いた家に依然としている、墓にはいると思えないのである
墓は生前にいた場所ではないからである
ただ母のことは生前はほとんど思わなかった、姉の方を思っていたのである
だから死んでから母のことを想っていることが自分にとって意外であり不思議なのであるそれはやはり嫁としての座がありその影響が死後に現れたともなる
それは生前は意識されなかったのである、人間にとってやはり一つの座とか役割をもつことが大事だとなる、仕事でもそういう役割をもたされて存在感を持つのである
それでその座をもつことで死後もそこにありつづけたということがある
死んでから存在感を増すということもあるのだということに気づいたのである
わたしたちが愛において死者を想うことは最も無私な愛の行為である
もし人が愛が全く無私であるということを確信しようとするなら報いについてのあらゆる可能性を遠ざけなければならない、しかしこの可能性は死者とのかかわりにおいては完全に脱落する、にもかかわらず愛が持続するならば、その愛は真実に無私なのである
(わたしたちは愛においていかに死者を想うかーキケルゴール)
キケルゴールはむずかいけどここは理解する、ただ無私の愛は現実社会ではほとんどない何か報いを対価を要求する愛である、それは神にしかないともなる
そもそも人間の交わり自体がそういうものである、日々の経済活動でも何かを与えたから何かをしてやったらしてくれとかなって成り立っているのである
死者はもうそういうことが全く成り立たない存在なのである
ただ正直自分が死者を母をこんなに死後に想うことは意外だったのである
母のことは生前でも嫌に思うことがあった、生前には誰でも親だって嫌なことがあるからだ、だから死んでから母を想うことが自分にとって意外だったのである
それは死者を想うということもあるが70年も家にいたということが影響している
そこに母の座がありそれが死んでもそこの座にいるとなったのである
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