真野の草原は気候の境目
(石巻説は気候からみると無理)
陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを 笠女郎
天気予報を見ていると何か必ず真野の草原と万葉集に歌われた地点が境界になっている
この図では仙台辺りにもなるかもしれないがやはり真野の草原という地点にもなる
第一石巻説だと遠すぎるというのが他の人の意見でもある
そんな遠くとなると無理なのである、どうしても歴史的にも地理的にも天候でも合わないのである
雪降るにしても東京が降ったときここも雪がふる、かえって東北の北から雪がふるようで降らない
関東の方が雪るとここもふりやすいのである
それが気候のパタ―ンとなっている、それは変わらないとなる
確かに地名からするとそれに符号したものがありそれなりのものとして証明されることはある
でもやはりみちのくの真野の草原は奈良から大和朝廷が進出したみちのくの最果ての境目になる
地理と天候と歴史的なものから南相馬市の鹿島町が有力だとなる
それでも縄文時代の天候がどうだったかとなるとまた違っている
なぜなら縄文海進の時代であり海は奥深く入っていた
それで南相馬市の鹿島区の塩崎が入江となり海となっていた
塩崎という地名自体が海だったからついた
船が入ってきたので船着という地名が残っている
そのすぐ近くまで津波が来ていたことに驚いたのである
そこは低い場所だから津波か奥まで来たのである
そこには市庭とかの地名もあり市が開かれていた
それは今東北電子力の火力発電所のある所で鉄を生産していた、砂鉄をとり生産していてそれを船で運んだようである
そのために大内村に曽我船という地名が残っている、曽我(そが)とは遡るという意味である、そこを頻繁に往き来した船があり名付けられた
そして坂上田村麻呂が建てたという薬師堂が残っている、それは800年とあり古いのである、大内村はそれだけ古い場所だったのである
ともかくもともと海だった所が今回の津波で本当に海になったのである
ただ意外だったのは海老村は高い場所にあり避難場所にも指定されていたのに村が消滅したことである、そこには最近古墳が二つ発見されたのである
だから相当に古くから人が住んでいたのである
すると大きな津波がそこにあったとも推測できるがその証拠はない
その伝説もない、ただ八沢浦の奥の方に津波が来たという伝説は残っていた
だから津波の経験を語っていたのだがそれを注目している人はいなかった
津浪によって歴史が解明されたことがあった、地史も歴史でありその間隔が数百年とか長いから記録もなく忘れていたのである
笠女郎の歌は錯覚しやすいのである、真野の草原はやはり萱原ではなく地名だと思う
大伴家持を慕ったとしてもそこに萱原をイメージすることはない
ただ遠い果てまで行っても慕っています、面影に見えますよという解釈になる
どうしても草原が萱原に思えないのである
現実に大伴家持は多賀城に赴任した説があり本当にみちのくに来たということがあるともなるからだ、大伴氏一族がみちのくに来て跡を残しているからである
その証拠となるがここが気候的な境目になっていることである
マルハシャリンバイの南限の地となっていたのもそうである
比較的暖かい土地だからである、今でもその気候は変わっていないからである
気候は確かに変わるが代わるにしてもその期間は数千年単位とかにもなる、万年単位にもなるし億年単位にもなる
ただ地形とかは変わらないのである、だから縄文海進状態が津波で再現されたのである