2020年12月30日

駅の“無人化”全国で広がる 利用者多い首都圏でも (無人駅のボランティアしたことをふりかえる)


駅の“無人化”全国で広がる 利用者多い首都圏でも 

(無人駅のボランティアしたことをふりかえる)

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人口減少に加え、新型コロナウイルスの影響で鉄道会社の業績が悪化する中、駅の“無人化”は全国でさらに進む可能性があります。

国土交通省によりますと、一日中、駅員がいない「無人駅」はことし3月末の時点で、全国に9465ある鉄道の駅のうち、48.2%にあたる4564駅にのぼります。

原告の1人で大分市に住む五反田法行さんは「無人駅だと万が一、ホームから転落しても誰がすぐに助けてくれるのかわからない。今回は裁判という形になってしまったが、可能なかぎり互いが話し合っていける場をつくっていきたい」と話しています。

無人駅にかかわって思ったことは無人駅になるとそれは誰も管理するものがいないから
勝手にされる、ちょうど空家のようにそこに勝手に利用したり荒らされたりする
それが日立木駅で起きた、あそこは本当に駅前でも店もなにもなく閑散としている
乗り降りするのは二人くらいなのである
そこで待合室の一部が壊されたり落書きされたりした
普通は待合室まであれほどひどいことはしない、そうなったのは駅前に人の気配も感じられないともなるからだ
つまり無人化するということは人目がないということになるからだ

それで私がボランティアになったのは最初どうして電車に乗るのかわからない人が地元でもいたからである、それで昼間の買い物帰りに寄っていたので教えたのである
他にも電光掲示板とかでもわからない人がいたのである
今でも外から来た人はわからない、地元でも一度も電車を利用しない人がいてわからない人がいたのである
それだけ鉄道は利用しなくなったのである

とにかく無人だということはこうして奇妙だけど勝手にされる、それをとがめる人もいないからである、例えば無人の荒野ではそうなる、そこに家を建てても何も言われないともなる、誰が所有者だかもわからない、すると誰の許可もなしに家を建て住むこともできるそして占有権というのがあり誰かわからない土地は最初に住んだ人が権利があるとなる
そして誰も利用しない荒れた土地はそれを利用しないとなるといつまでも所有権だけがあるのは理に合わない、誰かが利用して土地も活きるからだ
つまり利用しない土地の所有者は権利がないとなる、それで戦後は地主が土地を小作に貸していたが戦後は実際に土地を利用して耕作する人に与えられたのである

無人駅にも何かそうしたことと似ている面があると思った
誰も管理していない、すると何か勝手にする人もでてくる、それが自分だったのである
でも実際は無人駅でも勝手にしてはならないものだったのである
それで結局常に駅長とかににらまれてそんなことするなとなった
ゴミを投げる場所がホーム内にあり聞かれたので教えた、時々それでホームの中に勝手に入っていた
ところが監視カメラがありそれで監視して入るなと言われたのである

それから駅関係者だけではない、駅を利用する人にも言われた
お前は何をしているんだ、そんなことする必要はないと怒ってきた女性がいたのである
それは電車が風で遅れた時、困った人がいたので案内していたからだ
つまり無人駅で自分は何一つ認められたことは内、でも乗客は案内したときありがとうと言っていたのである
特に遠くから来た人はそう言っていたのである

そして誰かが検察に通告したのである、そして丁度イベントがあり人が集まる時
みんなの前で職務質問されたのである、あやしい奴だとしてそうされたのである
結局無人駅の問題はそこに案内するにしても勝手にできないものだった
JRの許可が必要でありまた乗客でもそうである、その人たちが認めないとしたらただの怪しい人になるだけである
ただ自分の場合は駅でいろいろな人と会い情報を仕入れことでもあった、そして意外と駅が外との情報を知る場所であることを知った

在る時、中学生が来てその人は間違って来た、それで腹減ったということで前の菓子屋から菓子を飼って与えた、まずこういうことはAIになってはできない
人情とか機械にはないからである、機械の限界は情がロボットでももてない、愛など持ち得ようがないことである、だから機械とロボットだけの社会になったら索漠としたものとなる、人間の情が通わない社会になるからだ

何か鉄道が交通の要になっていたときは駅は人情がある人間的な場所だった
今でもそうである、それは人を送ったり迎えたりするからである
そこに出会いと別れがあり自ずと人情がしみこんだものとして駅があった
電車とかは何か人間的なものがある、それは車とかバスとかは違っている
それは高速道路のSAがあるがそこに行っても鉄道の駅とはまるで違ったものである
そこに出会いとか別れというものを感じないのである
ただみんいな一時的に寄って食事したりトイレを利用したり買い物をするが何か鉄道の駅のようなものを感じない、利便的なものしか感じないのである 

上野駅「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにいく」石川啄木

鉄道には何か人間的なものがしみこんでいた、そういう場所だったのである

こういうふうに上野駅ですら明治では訛りを聞けるとして行っていたのである
そこには人間的なものがかもしだす場だったのである
そういう雰囲気は今やなくなった、利便性だけが追及される場になる
そして鉄道を利用する人が減るばかりである、だから本当に電車に乗る方法すら知らない人が普通にいたのである
それだけ車社会になっているからもう北海道だと鉄道はなくなるとまでなる
道東になるとそうである、まるで歯がぬけるうに路線が廃止されているからだ
将来はもう北海道から鉄道のほとんどが消えるとなる

無人駅で人情もなくなるというとき障害者などは無視されるのもそうである
盲人の人が通っていたがその人はわざわざ隣の駅に連絡して来てもらったりしていた
盲人は危険にもなるから無人化に反対している
でも障害者のために存続もできない、コストの面でそうなる、そこで人情もなにもない
索漠とした風景になるのが現代なのである

ただ模擬駅員として一時的にもできたのは良い経験だった
なぜならまず職業は簡単に経験できない、それで社会のことがわからないのである
いくら本を読んでも知識があっても本当に経験しないと実際はわからないことが多すぎるからだ、でも何か経験することは本当にできない、だいたい学校を卒業していくつかの職業を経験してもそれは極限られたものなのである
でも社会は実際は職業を経験した時実感してわかることが多い
でもそれができないのである、だから社会をでも他人でも理解できなとなっているのが現代である、現代は余りにも多様な職業に従事ている社会だからである

だからいろいろあったが経験したということでは良かったのである
結局人生とは何を経験したかなのである、経験からしか人生を語ることはできない
だからアメリカで十五年も仕事したとかの経験となると外国を肌で知っているから違っているのである
自分は鉄道の旅が長いし鉄道好きである、だから一時的であれ駅員のまねごとしたのは良かったのである、まずそういうことができないからだ
人生とは経験したことでありそれを語るのが人生だとなるからだ
その人の一生とは何かを経験したことなのである
だから引きこもりも実は経験なのである、引きこもりもマイナスとだけ働くとは限らないのである、私は30年間引きこもりだったけどそこで修行僧のようになり禅僧のようになり自然と同一化することをしてきた、木や石とかと一体化かすることをしてきたのである
それはなかなか社会で勤めていたりしたらできないことなのである
それは家族に恵まれてそうすることができたとなっていたのである

ただ正直駅にこんなにいろいろなことがあるとは思わなったのである
そのことでわかるように駅でも駅員になればそれがわかるのである
それは経験しない限りわからない、ただ乗客となっているだけではわからないのである
医者と患者がいるが医者のことをその気持ちでも医者になってみないとわからない
また医者でも患者になってみないと患者のことがわからないともなる
先生でも先生になってみないとわからない、だから教育実習とか大事になる
なぜならその時子供と直接に接するからである
その体験が大事なのである、それも自分にはできなかった
確かに一時期したことがあるがそれも失敗だった、つまり経験を積むことができなかったのである
どう子供に教えるとかは実際に子供と接しているなかで上達するからである

とにかく今年も終わりである、結局確かに満月だったのだがその満月に暗雲が流れていたそして晴れなかった、まさにそういう感覚で今年は終わる、コロナウィルスが晴れないのである

満月に暗雲流れ年終わる





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