枯木、冬の月、年の暮
(死んだ母のなお家にいる不思議ー詩)
清浄の庭に月光寒夜かな
玄関に冬紅葉散り月の光
石に散る木の葉や安らぐ我が庭に
誰が訪うや玄関に散る冬紅葉
我が家に一人母想い年の暮
冬の薔薇なお一輪の咲くを見ゆ風のうなるや我が家にあり し
百才の生きにし母のここにいし玄関の戸に映る枯木見ゆかな
母の座っていた場所
母はそこにいつも座っていた
目立たない母だった
母はいつも寡黙にそこに座っていた
店をしていたときもその後もそこに座っていた
私はその隣にいつもいた
そうして長い歳月がすぎた
母のいることを私は心にとめなかった
いつもただ母は隣に座っていたのである
そうして死んでいなくなって
そこに私が座っていると
不思議に私が母になっていたのだ
玄関の曇りガラスに冬紅葉が写っている
そして散って枯木が写っている
私は母の座った場所に座り
その玄関を見ている
とにかく不思議は私が母の座っている場所に座り
私自身が母になっていたこと
人間の存在は死んでも消えない
誰かに受け継がれ活きてゆく
家の重みがそこにある
もしここに新しい人が住んでも
その存在は受け継がれない
70年以上も一緒にいたから一体化していた
それが家族というものである
何か家のこととか家族のことを書いてきたけどそれは家というのがただの建物ではなく
何か人間の根源的存在となっているからだともなる
そこで70年も一緒にいたことがただの建物だとなっていない
ただ親子でも家族でも離れ離れに暮らしていればそうはならない
やはり長く一緒に暮らしていたことが特別な想いになっている
それでも母の場合、生きている時は意識もしなかったのである
空気のようなものになっていた、でも一旦消えると不思議にその人を思うのである
庭という時、家庭というように庭と家は一体である、それで石がありそこに木の葉が散るそれを見守る、それはまるで家で看取るとかにも通じている
つまり家で死ぬのが幸せだとなる、ただその家でも親身になって介護する人がいればだとなる
ともかく家とはそこに住んでいた人がなおいる、長く一緒にいればそうなる
簡単に人は死んでも消えないということである、百年も生きた母であった
でも70年は自分の家で暮らしていたのである
その長さが影響している、なぜなら妻をもったり子供をもったらそうはならない
心は妻とか子供に向けられるからである
自分の場合は姉と母と長く一緒にいたことで違っていたのである
ただ母のことは生きているときは意識しなかったのである
性格的に内気であり目立たない人だったからである
いづれにしろ今年も終わる、家の修理するのも今年になるか、来年になるか、
この家の修理もこれまでも金がかかっていた、だから家を維持することは結構金がかかるでも何か家というのは物だけではない、そこで家族が暮らした歳月がありそれは簡単に消えない、そこに価値があるとなる、それは金銭的価値に換えられない
思い出とかはもう簡単に作れない、なぜなら思い出となるには時間がかかる
そしてその思い出となる時間がもう老人になると作れない
それで老人は記憶に生きるようになるからだ