2020年11月27日

人は経験からしか学べない (聖書でもいくら読んでもわからない-農業もわからない・・・)


人は経験からしか学べない

(聖書でもいくら読んでもわからない-農業もわからない・・・)

経験が人間を作るのであって知識とかではない、いくら知識があっても経験しないとわからない、それで失敗したのは海外旅行だった
50歳から海外旅行したので遅かった、それまで外国についての本は読んでいた
でも外国を知るには外国に実際に行ってみることである
百聞は一見にしかず...なのである
例えば日本に来た人が富士山はきれいだよと伝える時いくら伝えられてもわからないのである、写真を見てもわからない、百聞は一見にしかず・・になってしまうのである
だからこれほど海外旅行が盛んになった理由もわかる
いくらテレビで放送されても実感できないからである

経験しないとわからないことがこの世にいくらでもある、結婚していない人にとって結婚とは何かもわからない、子育てしない人でもそうである
そこに経験がないから理解できないのである
職業が違うとその職業が経験しないからわからないのである
医者の人を理解するにしても医者としての経験もないのだから理解しようがないのである患者としてみてもらうだけであり医者の人の気持ちとかその職業がどういうものか理解できないのである
農業でもそうである、農業がどれだけ大変な仕事なのかその仕事をしてみなければわからないのである、ただ農業をしていた人に経験した人に直接聞いたのでその苦労がある程度はわかった、でもこれも実際に農業してみて農業とはどういうものか知る   

こういうことは経験かしか詩にもできない、そこには語り尽くせない何かがある
それは経験者しかしらないものがあるからだ
スーパーでただジャガイモを買っていてはそれを生産する人のことなどわからない
だから食料が貴重なものだということもわからない
ただ安いか高いかうまいかうまくないかとかしか見ないからである
つまりそれを作っている人の気持ちは農業だけではない、何でもそうだとなる

それで山尾三省が東京暮らしから屋久島で極貧で農業をした、その経験を詩にしたりしたそこに農業をしている人は普通にいてもその経験が新鮮なものだったのである
何か畑に実りがある、そのことに深く感激して土地と自然と一体化する喜びを詩にした
まさにそれは経験して理解したのである
本当に自然と一体化するアイディンティティ化するには農業を実地にしてみないとわからないといことである、その時人間は自然と深くコミットして自然を理解するのである
その理解は経験から生まれたのであり経験しない限りわからないのである
つまり本当に大地とは何か自然とは何かを体で知ったとなる
ただ実際は相当な過酷なものであり妻は60前に死に本人も62才くらいで死んでいる
パンは贅沢だとなると普通の生活ではないからだ

じゃがいもを掘る
そのじゃがいもは
わたくしの最終の 悲しみと憤りであり
最終の共感と連帯である
祈りである
はだしの足を 土の中に突っ込んで
びろう葉帽子の下で一鍬一鍬 じゃがいもを掘る


経験という時奇妙なのは私がした無人駅のボランティアだった、たまたま無人駅となり人にわからないことを聞かれたから教えていたのである
それで駅長とかJRの人とかかわったのである
そしてわかったことは駅長とかは駅のことを知らない、現場を知らないということであった、そこにいつもいないからわからない
駅でわかったことは上りと下りのことが意外とわからないのである
だからそのことを良く聞かれた、それで跨線橋にその行く先を記すものを示した方がいいとJRの人に駅長に言ったらそういう表示をするものを作ってくれたのである

それが同じように線路をまたいで向かい側の待合室にも上りと下りの表示をしてくれたのである
都会だと必ずそれは何々行きとして表示してあるが田舎駅ではない場合があるのだ
それは久ノ浜で自分自身が下りて上りと下りがわからなくなった
表示するものがなかったからである、つまり意外と上りと下りがわからないのである
それで不安になる、久ノ浜では今でも誰も言わないので表示されていないのである

この現場とその現場にかかわらないことは東電のような巨体企業でも起きている
現場の電気関係者が千人とか働いていていろいろ現場のことを知っていたのである
技術者もいて配管が老朽化して危ないとか指摘して原発は危険だと警告していた
でも現場の人から言わせると何かを上の人に言えなかったという
なぜなら仕事をもらえなくなるからだと言っていた、決めるのは上の人であり現場の人ではないからである
こういうことは他にある、社長だからといって何でも知っているわけではない、かえって現場のことはわからない、駅長だから駅のことをすべて知っているわけではなかったのである、つまり社長でもすべてを経験できないからそうなっているのである

人間を作るのは経験である、例えば聖書でも隅から隅まで読んでもわからない、神学部に入ってもわからない、そして聖書は学問ではない、何か現実に起こったことを神の事績として記した書なのである、つまり経験されたことを記したのである
だから奇跡が多いという時それが現実に起きたことだからである
まず奇跡がなかったら聖書も成り立たない、つまり神が人間のことに関与して奇跡を起こした物語が聖書なのである、そして聖霊がくだらない限り理解不可能である
そのことによって全能の神がいることを理解するからである

こういうことは別に聖書だけではない、優れた作家とか何か指導者とかでもそうである
何か実地に経験したことから書いているから訴えるものがある
第一悲しむとしても本当に血の涙を流すような経験しないと悲しむということがどういうことかわからない
本当はキリストを理解するとしたら十字架で血の涙を流すほかないという厳しさが要求されるともなる
何か人生でも最も重要なことは経験しなければわからない
なぜ戦争のことがわからないものとなったのか?
それは戦争を経験していないからだとなる、戦争という異常なことはいくら聞いても理解できないのである、人を殺したり殺されたりすることが日常になる世界は理解できないのである

ただ正直人間の経験は極わずかである、職業にしても無数にあるとき経験しているのは極わずかである、すると相手のことが理解できないとなる
自分の場合は引きこもりのようになっていたから社会的経験がなく親の介護で塗炭の苦しみにあった、それは今のニートとか引きこもりが親が死んだ時自分と同じようになる
本当に誰も助けない、そて親子共倒れになる地獄になる
それはすでに予想されるものだったのである
ただこれも奇妙なのは引きこもり一つの経験だったということである
なぜなら社会から隔離して人と会わないという生活はまさに隠者の生活であり
禅僧のように寺に引きこもるとにていたのである
それは精神的修養であった、だから何であれ人間は経験なのである
引きこもりだってプラスに働くものがあるから人生のことは何がいいとか決められないのである

ただ結局人間は何かを理解するには経験しない限り理解できない
津浪でもこれも経験しないかぎりわからないものだった、それを経験した時その恐ろしさを知った、原発でも事故など起きないと安全神話を信じていた
それももろくも打ち砕かれて経験から知ったが時遅しとなっていたのである

つまり結局人間は経験からしか学べない、その経験を伝えるものが歴史なのだが津波に関しては何も伝えられなかった、相馬地域では700人溺死としか記されていなかった
その詳細は全く不明である、つまり誰もその経験した人が語り伝えられなかったのである歴史は簡単に言えば経験を人に語り伝えることなのである
何かしら人生で人は経験する、それを語り伝えることなのである
語り伝えるだけでは歴史は消失するから文書で残すということなったのである
津浪に関してその文書すら二行しか残されなかったのである
そうした経験が語られ伝えられていればこなん大被害にはならなかったのである
だからこの辺で起きた原発事故でも語り伝えなければそんなことなかったとまでなる
そして原発は安全だとまでまたなってしまうのである
やはり十年も過ぎると人間は十年一昔であり忘れやすいのである
何か地元でも関心がなくなるのである、今はコロナウィルス一色だから余計にそうなったのである


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