大倉で出会った南三陸町の津浪の被害にあった人の話
この辺の被害は大きかった
今日大倉であった人は宮城県の人で志津川の人であった、今は南三陸町になっている
その人は土木関係の仕事をしているらしい
志津川で現実に津波で家が流されたという、そこに家を建てようとしても土台が問題で困っているとか言っていた
南三陸町も被害か大きかった
何かアメリカの友達作戦でフィリンピンから船がきて援助にきた
それは衛星からの写真で上陸地点をピンポイントで決めて上陸したという
気仙沼でも船が入れないが軍事用の船だと上陸する船が容易してあるからできる
つまり緊急時には日本でも自衛隊が橋を作ったりして道路を整備して車を通せるようにした、そういうことが軍隊ではできる
何かその人はいろいろ詳しい人だった、会津の阿賀野川から放射性物質が流れて新潟の河口に放射性物質が蓄積されて放射線量が高かったという
会津はたいして被害がないと見ていたがそういうこともあったのかとなる
阿武隈川の河口は放射線量が高かった
なぜなら放射性物質はセシウムなどが泥に付着して流れるからである
そこじ河口が異常に高かったのである
それと同じことが阿賀野川で起きたのか、でも会津はそんなに放射線の被害がないと見ていた、ただ実際は広範囲にあったともなる
あの辺の地形はすぐ後ろが山になっている、そこでその山を這い上がるように津波が押し寄せて上った、津波はこの辺でも坂があった所に津波がその坂を這うようにして高く上ったことに驚いた、だから津波は地形に影響されるのである
水の流れが地形によって予想もつかないものになっていたのである
1896年(明治29年)6月15日 明治三陸地震 - 岩手県綾里(現・大船渡市)で津波の遡上高38.2m、死者不明者22,000人。津波地震とされる。ハワイおよびアメリカ西海岸でも遠地津波が観測された。
1923年(大正12年)9月1日 大正関東地震(関東大震災) - 津波の最大波高は静岡県熱海で12m。数百人が犠牲となる。
1933年(昭和8年)3月3日 昭和三陸地震 - 死者・不明者3,000人。
この辺が非常に被害が大きかった、もともとここは津波の常習地帯でありだから女川の原発は5メートルくらい高くしてぎり4ぎりで助かったのである
そこはすぐ近くが明治にでも津浪で2万人くらい死んでいるのだから危機意識があった
石巻でもそうだが仙台から相馬地域とかいわき市の方になるとそうした危機意識がもてなかったのである
だから津波が来ないとして老人は逃げることもしなかったのである
そして400年前の津波の記録が二行だけ相馬藩政記に津波の後に学者が発見したのである
そこに津波でなく生波(いくなみ)で700人溺死と記されていたのである
その津波はたまたま伊達藩に来ていた三河藩の人たちがその津波を経験して伝えた
それ以後慶長津波となり津浪という言葉が普及したのである
ともかく女川原発はすぐ隣で明治にでも大きな津波の被害があったのだから危機意識をもったのである
宮城県でも石巻から仙台市の海側とか名取でも亘理でも山元町でも三陸のような危機意識がもてなかった
それは400年前とかになり忘れてしまっていたからである
とにかく三陸は湾がありそれが穏やかで風光明媚になっていた、でもそれが津波には弱い場所だったのである、陸前高田の広田湾でも南三陸の湾でも穏やかであり風光明媚である仙台からの海沿いにはそうした湾が入江がないことが景観としてものたりないものだったそれで南相馬市の鹿島区の八沢浦が前の入江になったときほど驚いたことはない
そこは明治以降に干拓されて田んぼになった場所だったのである
それが江戸時代の入江にもどったのである、穏やかな波が朝日がさしてけきらきらは寄せてきたのを見た時、奇跡が起きたのかと見た
ただその時その入江に家が浮かんで被害があったのでそこで被害にあった人からの抗議があった、それも当然だったけどとにかくたいがい津波は悲惨な光景しかなかった
でもそこは家がないのでそういう無惨な光景ではなかった
きれいな入江になっていたのである、もちろん湊という所では40軒が消失して村が壊滅したとかあったがどろどろとした津波の無惨な光景ではなかったのである
津浪原発事故から十年すぎると一昔であり忘れられる、何か報道があっても地元で被害があっても関心が薄れたのである、人間は忘れやすいのである
ただ原発事故の放射性被害とかは継続しているので関心がある
津波の被害自体は何か地元でも関心がなくなっているのである
次々にまた新しいことがコロナウィルスなどが起こり忘れられてゆくのである
それが人間の問題である、こうしうて災害も忘れてまた大きな災害にあい苦しむとなる
だから歴史を知るということが大事なのである
でも戦争で三百万人死んだというのも七十年過ぎるとそれが実感できなくなる
これは津波の被害より大きいのである、こんな大きな被害でも忘れてゆくのが人間だとなる、だから天災は忘れたころに来るという格言が生まれたのである