2020年10月24日

真野川の土手の岸の木が切られた (合歓の花の木と藤の木も切られたのが残念)


真野川の土手の岸の木が切られた

(合歓の花の木と藤の木も切られたのが残念)

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これは作った写真である
実際はこういう藤の花ではなかった
ただこれらは全部切られてなくなた

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霧の中に合歓の花が咲いていたこた




昨日真野川の土手の木々が根こそぎ切られていた、そこは浪江の復興住宅の人も水をさえぎるから危険だと言って切ってもらいたいと要望していた
それで切ったのかもしれない、それは前々から水の流れを悪くするから切る予定があった
でもそこには合歓の木と藤の木があった、だからその花を見ていいなと見ていたのであるまた橋の所には前から合歓の木があり花が咲いていて気持ちよかった
それまで切ってしまったのが残念である

何か藤の木と合歓の木は残すべきだったとみる、ただ他の木は何か花も咲かない木だから切ってもいいとなっていた、下の方はそうである

でも何かこうして自然というのは無造作に破壊される、私はいつも自然を見ている
鹿島から深野にでる高平の所にも高い木がありそれが春になると芽生えて風にそよぐとき気持が良かった、その樹々は高いからである、でもそこも切られていたのである
そこは気を切って何にするのかわからない、それも残念だとみる

ただそれを残念に見ているのは自分だけだともなる
他の人は自然とか花でも無関心なのである、何か用があるときとか金になるものとなると注意して守る、でもそうした実用がないと関心がなくなるのだ
ただ邪魔だという感覚になるのである

それでも森などは木材と利用している時の方が間伐などして森は守られていた
つまり実用として森があるときかえって森が守られていた
ただ森が鑑賞するものとして美的にあるものだとかなるとかえって森の木でも利用されず荒れるということがあった

ただ人間というのは実用にならないと金にならないと関心がなくなる
なぜあそこの木が切られたのが残念だったかというといつも買い物に行く道であり日常的な道だからである、だからそこに花が咲いているとなごむとなる
つまり日常的な場所に自然があるとなると違うのである
それは人間の生活と一体化するからである
ただそういう配慮はない、当然洪水があるから流れを良くするのが先決だからである

でも何か日本人は意外と自然に無頓着であり自然保護というときそういう観念はない
日本がではむしろ雑草が常にはこびって苦しめられている
だからどうしても農薬を使う、使わざるを得ない、それでヨ−ロッパ中心に農薬に厳しくなって日本の果物とかでも輸出が制限されるようになった
農薬なしの有機栽培の食料でないとだめだとなるようになった

とにかく日本の食料には薬を使いすぎるのである、食べ物でもいろいろな薬が入りすぎている、それにも日本は無頓着なのである
日本では雑草でもすぐに繁茂するから自然はやっかいなものだともみている
そもそもそういう自然だと自然保護という感覚は起こりにくい
日本人は自然に恵まれていて自然に無関心だともなっている

だから金にならないものは実用とならないものは無視される、花などはそうである
でも花でも金になり売れるとなると別なのである
おそらくあそこの土手の道を歩いてそこに合歓の花が咲き藤の花が咲いていいなと見ていたのは自分だけかもしれないからだ

ただ言えることは身近にある自然は貴重である、それはいつも日常的に接して見るものだからである、まず都会だと日常的に接する自然が少ない、都会から離れないと自然に接することができない、その差が大きいのである

posted by 老鶯 at 17:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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