2020年09月21日

敬老の日ー長生きではその意味が問われる (ただ長生きしても価値も意味もない―新しい老人観が必要)


敬老の日ー長生きではその意味が問われる

(ただ長生きしても価値も意味もない―新しい老人観が必要)

高齢化社会になると百歳以上も増えてくる、これまでは百歳生きたとなると凄いなとそれだけで価値が認められていた
でもこの数が多くなるとまた見方が変わってくる、百歳など普通でありいくらでもいるとなれば価値がなくなる
だから今やそういう段階に来ている
パークゴルフをしている人が多い、この辺でも広いパークゴルフ場が作られた
そこは広いから見晴しもいいからそこに老人が集まる、社交場にもなる
それをとやかくは言わないしそういう場があってもいいとなる

ただなぜ高齢化社会になって老人どうのこうのといろいろ言われるのはそれが今までの老人と違ったものになっているからである
今までの老人は人生50年とか70年でもそれで老人がとやかく言われない
その生きた人生を語れば死んでいたからである
だから長い老人の生を問われない、60まで70まで生きた人生を問われるだけである
ただ百歳となると今での人生とは違う、100歳まで生きる価値と意味を見出す、また社会に提供しなければならなくなる
ただ健康に長生きすれば価値と意味が生まれるとはならない時代になった

でも一般的にそういう価値と意味を作れるのか?

これが問題になるが会社を退職したら何をしてそれができるのか?
趣味とかもありそれで意味と価値を見出すこともありうる
ただみんな趣味に向いているわけではない、それで私の家族の一人が公務員を退職してから何もしなくなった、何か仲間で貼り絵などしていたがそれは向いていなかった
看護婦だったから人の世話に向いていた、でも一切何かそういうことをしなくなった
家事すらしてくれる人がいたのでしない
毎日何かテレビを見ているとかであり何か合ったこともしていない
ただ毎日怠けていたとなる、怠け人間になったとなる
ただ一緒にいてそのことに私は気づいていなかった

それに気づいたのは認知症になったときなのである
それでなぜそんなふうになったのか?病気でもあるがその原因が55歳くらいで役所を退職してから何もすることもなくなっていた、家事もしない、何か頭を働かせることもしない体も働かせない、怠け者になったのである
でも85才まで生きた、でも55才で退職したら30年もそうして何かやりがいもなくただ怠けていたとなる
せめて家事でもしていれば良かったがする人があったのでしなかったのである
そのうちボケて来たのかとふりかえり思うようになった
それは病気にしろボケた原因が認知症になった原因がそのように生きがいもない、家で何もすることがない、家事もしないということにあったのかもしれない
家事はしてみれば結構頭使うからである、その他趣味もなかったから余計に頭を使はないそうして認知症になったのかとふりかえり見る

認知症の原因はわからないにしてもそういうふうに退職して何もしない、趣味もない、家事もしない、ただテレビを見ているとかなると認知症になりやすいかもしれない
それが30年もつづけば相当に影響する、つまり退職してからの生活に問題があったとなるまず会社を退職するとその人の役割りは消失する、地域とかで何かボランティアなどするにもできない、地域社会自体がもうないからである
すると家族しかなく、妻の後をついてゆくだけとかになる
それで妻からもうざいとなり嫌われる
ただそれが70くらいまでならなにやかにやあってもそんなに問題にならない
百才まで生きるとなるとそうはならないのである
私はこう生きたとか語っているうちに死んでしまうからである

でも百歳になると新たなその年月の価値と意味を発見して作り出さなければならなくなるそれがパークゴルフとかで作りだせるのか?仲間とそこで楽しみまた動くことで健康にはいい、でも外部から社会全体からみる、若い世代から見てもパークゴルフに費やされる人生をどうみるだろうか?
一日遊んでいていい身分だとかともみる、でもその老人たちを養う金を年金を払っているのは若い世代だとなりそういうことをしている老人を価値ある、意味ある人と認められるのか?
これが70歳くらいで死んだら何も言わない、何かそうして見ている時間がないうちに死んでしまうからである
百歳まで生きるとしたらそうは見ないのである
そこで何のために生きているのか、ただ人の迷惑のために生きている人もででくる
切れる老人とかいろいろな問題老人が社会を歪める
ただ自分にしても百歳まで生きることがイメージできないのである
あと10年くらいは生きるだろうとはなっているが百歳となると長すぎるのである

だから高齢化社会というのは今まで経験していないことであり模範になるものもない
またその価値と意味も作りだされていない、だから金銭面だけではない、何か精神的にもそこまで生きる価値と意味を作りださなけれ社会ではただ下の世代にとって重荷とされるだけになる
私の場合は認知症になっても介護したのは特別世話になったからである
60まで食事でも用意してくれたし好きなことをさせてくれた
だから介護になったとき自分はそれが苦しくても当然だと思うようになっていてできた
完全ではないにしろ懸命に介護したのである
それで最後にわかってくれて本当に今になると良かったと思う
それだけ世話になった恩返しを少しでもできたとふりかえるからである
正直これからは親孝行したいとき親はなしにはならない
親の介護は必ずありその恩でも返さなければならない、報いなければならない
それがまた高齢化社会でもある、諺は時代を越えて通用するものだがこれは通用しない
親孝行したいとき親はなしでなく親の世話を強いられるとなる

敬老の日というときそれは今までのとは違うものになっている
敬老というときただ長く生きたものを敬うべきだとしていた
でも今までは長く生きても短い、70くらいだとまだまだ元気な人が多い
全然老人に見えない人もいる、髪も黒くふさふさしているのに驚く
個人差があるにしてもなんかあの人が老人なのかと見えないのである
私と同じ年なのにそうなのである

要するに老人観が変わってしまったのである、今までの老人観は通用しない
これだけは確かである、それでいろいろと誤解があり若い人も老人をどう見るか戸惑うとなる、それは老人がまた多すぎるからこんなに老人ばかり必要ない、税金とられるのも嫌だというのもわかる
第一そんな老人ばかりで社会が成り立つのかともある
ということは今や老人は今までのように社会から隠居するかにはなれない
社会の一員として価値と意味をもたないとただ無駄なものとして早く死んでくれと言われるだけになる
百歳まで生きてどうなるのだとか見られる、何のために生きているのだとか言われる
だからパークゴルフしてそれが社会にとって何んの意味があるんだともなる
ただ老人はそんなことで何も思っていない、当然の権利だと思っている
若い世代は老人に尽くせとしか思わないともなる

ともかくこれだけ老人が多いということは老人は長い生きしたからといって百才まで生きても敬われたりしない、今までの敬老は通用しないのである
だから敬老の日も何か時代に合わなくなっている、それはただ長生きしたから敬うという前時代の観念なのである
ただ正直高齢化時代、人生百年時代の社会がどうあるべきかを社会自体で示されていないしまた老人でも作りだしていない、それは人生百年とかの時代を経験もしいないからである、だから新しい老人像とか老人観とかを作りださねばならない時代になったのである
金銭的問題も深刻だが精神的な問題としても問われているのである

何か自分にとっては長生きすることはいいことである、今までしてきた探求追求してきたことを作品化したりもっと学問的にも芸術的にも深められるからである
まず「少年老い易く学なりがたし」とかあり

芸術は長く人生は短し

ヒポクラテスが医術について言った言葉。医術を修めるには長い年月を要するが、人生は短いから勉学に励むべきである、がもとの意〕 

何かを究める時、時間がかかるのである、その時間がたりないからこういう言葉が生まれた、人間は本当に何するにしても時間が短すぎるのである
60くらいあっという間にすぎる、遊んでいても何もしなくても過ぎる
自分の場合はただ旅していただけで過ぎてしまったのである遊戯三昧で過ぎてしまったからだ、ただそれも無駄ではなかった、それで旅を思い出して今作品化しているのである

これから会社を退職してからでも百才まで生きるとしたら人生が二つあることになる
ということは儲けものだともなるがまた重荷にもなる
ただ確かなことはいろいろと理解することが多くなることは確かである
人間はつくづくいろいろなことを知らない、経験するにしてもわずかなことしかしていない知識も膨大でありわずかなことしか知りえない、だから常に学ぶ必要がある
知識を広めるまた深めることが必要になる、すると時間がかかるから百才まで生きることはそれができるからいいとなる
でも百才の人生を有意義に他者かも若い人からも認められて生きれる人はそんなにいるのかとなる、何もすることがなくボケる、認知症になるという人も増えて来る

平成29年度高齢者白書によると、2012年は認知症患者数が約460万人、高齢者人口の15%という割合だったものが2025年には5人に1人、20%が認知症になるという推計もあります。

これも恐ろしいことである、こんな社会がどうなるのか?まさに悪夢である
認知症の人を介護することは経験したからもう地獄になるからだ
私は二年半で終わったから助かったけどそれが長引いたら地獄になる
隣の原町で認知症の母親を殺した50代の男性がいた、こういうことは頻繁に起きて来るから高齢化社会の暗黒があり悪夢になる
なんらかこの認知症を治す方法があるのか?これはコロナウィルスより怖いともなる
これはなんとか治まるとして認知症は治まらないからだ
90以上になったら半分は認知症になる、その症状はさまざまでもやっかいな病気だからそれが介護負担となり家族まで崩壊するから怖いのである
自分自身がその家族崩壊を経験したからである  

こうなると敬老どころではなくなる、老人は殺せ始末しろとかまでなる
何でもいい面と悪い面がでてくる、ただ百歳人生というのはイメージできないのである
そういう社会は何か今までの老人観とか通念では理解できないものである
だから新しい老人観を高齢化社会の見本を作りださねばならないとなる
ただそういうふうに社会でも老人でも自覚していない、パークゴルフでもしていればいいとかくらいである、でも会社退職してからでは何かそうした人生百年には備えられない
精神的にもやはり若い時から備えねばならないともなる
会社員としての人生があったとしてももう一つ60から40年の人生があるとしてそれに備えねばならないともなる
ただ人間が老人になるとわかる、それはいくら長生きでも死ぬということである
死を常に感じる、すると今生きているということが本当に貴重だとなる
なぜなら明日はもうここにいない、また明日はもう人とも永遠に別れて二度と合わないという意識になるからだ、常に死を意識するから若い時とは全然違った感覚になるのである


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