2020年09月12日

震災後、宮城県亘理町の干潟「鳥の海」「名取」などに定着したマツカワウラカワザンショウ (津波を知らせなかった地元のマスコミの責任)


震災後、宮城県亘理町の干潟「鳥の海」「名取」などに定着したマツカワウラカワザンショウ

(津波を知らせなかった地元のマスコミの責任)

カワザンショウガイ

本州〜九州,南西諸島
分布(国内)
朝鮮半島南部

ホッキ(北寄)貝の正式名称は、ウバガイ(姥貝)ですが、一般的にはホッキ貝の名で広く知れ渡っています。

その名前はアイヌ語に由来すると言われ、漢字の「ホッキ貝」は当て字といわれています。名前の由来は、北海道などで採れる「北に寄った」貝であるためホッキ貝と言われたという説もあります。

北方系の貝はどれも灰色ぽくて色彩には乏しいのですが、独特な形の物が多く魅力的です
「ウバガイ」はもとは福島から銚子当たりまでの呼び名。貝殻が薄汚れて見え、姥(老婆)を思わせるため。

「ウバガイ」はもとは福島から銚子当たりまでの呼び名。貝殻が薄汚れて見え、姥(老婆)を思わせるため。

自然しらべ2012「貝がらさがし!」 みえてきたこと


松川浦というとき太平洋岸に東京から仙台辺りまででもない、まず浦とか入江がない
だから松川浦は貴重であった、そして南相馬市の鹿島区の八沢浦が本当に江戸時代の裏にもどったときほど驚いたことない、この辺ではあのような入江がなかった
その浦も相当に奥に入った大きな浦だったのだ
それで港があり船が入ってきて物資が運ばれていたのである、入江は港となりやすいのである、小高でも津波が来た駅前まで広い入江でありそこに鎌倉時代から港が物資が入ってきてまた船で運ばれていたのである
そういう昔の状態が津波で再現された、例えば塩ア(しおのさき)に船着という地名がありそこは奥まった地域でももともと入江であり港となっていたからそういう地名がついたそして津波でその近くまで鉄道を越えて津波が来たことにも驚いた
あそこは土地が低いからあのように奥まで津波が来たのである

津浪で名取の海岸に新しく干潟が生まれた、そこに様々な生物が生息するようになった
そこにマツカワウラカワザンショウガイが50キロ離れて移動していたのである
津浪で生物が海を通じて移動していた、これも大きな自然の作用である
津浪で自然も大きく変化した、海はそもそも遠くまで生物でも移動しやすい

例えば南限の地として南相馬市の鹿島区の海老浜は有名だった、そのことを何度も古代史で述べてきた、ここが本当に不思議だけで天気予報を見ると温度でも天候でも境界になっていたのである、まずマルハシャリンバイでも奄美大島から種が流れて来ても温度に植物は作用されるから生育しない、それで原町区の・・・スダシイ神社がありスダシイは南方系の木であり照葉樹林帯の南限の地としてこの辺があった
つまり植物でも生物でも気候に左右される、だから最近温暖化で南方系の植物とか貝でも移動しているとなる
その南限の地として境界線としてみちのくの真野の草原(かやはら)の万葉集の歌が南相馬市の鹿島区に残された

でもこの草原(かやはら)は萱のことではなく地名だという説を私は述べた
何か詩的イメージ化するとみちのくにふさわしいとなるが実際は南方系として大和朝廷の支配地域に組み入れられた境界の地として歌われたのである
その歴史的境界として歌われたものが生態系としての境界と一致していたのである
だから草原(かやはら)はまぎらわしいのだけど地名説が有力だとなる
ただなぜみちのくー真野ー草原とすると真野郷が古代郷名で一致してもさらに草原が地名だとするとそんな狭い範囲が奈良で特に知られたということが疑問になる
でもそこが港だとかするとそれで知られたのかとなる
            
また不思議なのはカワザンショウガイの分布地域である

本州〜九州,南西諸島                              
分布(国内)
朝鮮半島南部

南方系として朝鮮半島の古代の伽耶国とかに分布していたとなる
そのことは古代史で述べた、伽耶国との関連として草原(伽耶国)述べた
何かこうして自然環境とか植物の分布とか生物の分布からも歴史は追求される 

ホッキ(北寄)貝とは姥貝のことであり漁業関係者はホッキ貝と呼んでいた、それは北に寄る貝という意味でありまたアイヌ語から来たともしている
この辺ではホッキ飯(メシ)は有名だった、津波以降は北海道の方から仕入れて作っていた
姥貝は関東まで呼ばれて共通している、ということはその辺は一つの文化圏を形成していたとなる                  

津浪では津波の被害が大きかった太平洋岸が一つの地域としてつながりある地域として見るようになった、松川浦から鳥の海から名取の海からさらに仙台湾から石巻までもまた
岩手県の宮古とか三陸までも津波を共有する場となったのである
だから相馬地域で津波が400年も来ないから津浪は来ない地域としたことが大問題だったのである、海も陸もつながっている、境界がない、だから人為的に境界を作ることはできなかったのである 
磯部の寄木神社の由来も石巻から事情があって移り住んだ人が先祖になっているのもそうである

宮城県の海岸はすぐ隣だからである、そこが郷土史でも見落とされていた
宮城県の海岸に津波の伝承が多い、だから津波が来るとして警告していた市井の学者がいて本を出して警告していたが受け入れられなかったのである
ただ小名浜の原発は当時の副社長が10メートルの高さだったのを5メートル高くした結果辛うじて助かった、それは三陸だと津波は明治時代にも来ていたから危機感をもったからである、それは伝説だけではない、すぐ近くに津波で甚大な被害を受けていたから違っていたのである

そして東電は東京電力であり相馬地域は離れている、それでも科学者は十数メートルの津波が来ると警告していた、そのことを知っている人はこの辺でも専門以外の人は関心もなかった、ますマスコミは福島県でも東電から宣伝費とかもらうから忖度して何も知らせないとなっていた
福島民報は県の出資が50パーセントだから県と国のいいなりなのである
もしこの十数メートルの津波が来るということを大々的に警告して知らせていたらかなりの命が救われたということもあった
だから報道は大事なものである、原発事故になったのも報道がその役割を果たさなかったからである 

郷土史とは地域研究とかは何か重要ではない、好事家のすることであり趣味だともなっていた、でも意外と津波や原発事故で命にかかわることがあると認識されたのである
危険を知らせるとか命にかかわることがある、それは原発事故でもそうである
そういう役割を地域のマスコミでも担っていた、でも全くそういう役割りは果たさなかった、それは全国規模のマスコミでも莫大な宣伝費をもらっていたため原発の危険を言わなかったのである、知らせなかったのである

ただ一番その当事者のそこに住んでいる人たちがあまりにも金になるからと受け入れたことも問題だった、積極的に経済的問題を優先して誘致したからである
ただ誰に責任があったかとなると戦争と同じでむずかしくなる
ただ上に立つ人は権限があり権限をもたない人には責任がないともなる
上に立つ人は決定できるからである、本当は津波の被害を受けない高台に原発を作る予定だった、でもコスト面とか不便だからとわざわざ土盛したのを削ったのである

それを決めたのは誰なのか?

それが問題なのである、そうして決めることができる権限をもったのは誰なのか?
何も権限がないものに責任はないのである
マスコミだってテレビ局だって大きな権限を与えられていた、六局しかテレビ放送できない権限を与えられていたがただ宣伝費をもらうから危険を警告していなかったのである
そして検察でも海上保安上でも上の人は天下りしていた
特権階級は東電に天下りして何ら責任もとらないのである
原発事故では誰一人上の人は責任をとっていないのである
ただ必ず戦争でも今回の原発事故でも責任をとらされる、故郷に住めなくなったとか関連死が実際は思った以上が多いとかなった

いづれにしろ震災から十年もたつのに復興はない、津波の被害地は宮城県などでは名取などは復興している、でも原発事故の避難区域などは何ら復興していないのである
それだけの甚大な被害だったということである

posted by 老鶯 at 10:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係
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