平和とは何なのか?ー原発事故で失われたもの
(揚羽舞い芙蓉に実り鳩の来る)ここに平和があった
人間はこのように美しくまた実りがある場所には寄ってくる、山鳩も来て平和だなとつくづく思う
実りとは食料とかになるものがある、生活がある、その地域で成り立っているとか見る
田んぼがあり実りがあればこの土地に実りがあると見る
ただ現代のおかしなのはその土地土地でとれたものを利用していない
米にしても全国から入ってくるからいい米を買って食べる
今は地元の米を食べていない、栃窪は山の方で水がいいからと前は食べていた
今はそうとはならない、農家では食べていてもみんなそうはなっていない
そして原発事故以後この辺の米は飼料米になっている
それはもともとうまいという米でもなかったこともある
米でも全国の競争にさらされて地元の実りがそのまま地元の生活につながらないのであるそれは野菜類でもはそうである、果物でもそうである
グロ−バルに全国的な競争の中で売られているからだ
だから土地と人間が分離しているともなる、それは何か不自然なのである
ではまずい米を食べろとなると地元の人でもできない、農家の人すら遠くでとれた野菜でも買っているとなるからだ
要するに食料でも全国的分業になっている、それで長野県のキャベツ農家は億の金をかせいだとかなる、昔だったらその土地土地で自給するほかなかった
それは江戸時代から戦前とか戦後まもなくでもそうだった
交通の発達でグロ−バル経済になり地域経済ではなくなったからだ
それで小農が多かった、わずかの土地でも利用して畑にして田んぼにしていたのである
そういう小農は成り立たなくなった、だから全国で膨大な耕作放棄地が生まれている
農業といっても簡単にできない、土地があっても簡単に収穫できない
農業というのは土地が資本であってもそこに道具や機械や労働の手間が大きいのである
それと農業はまたいろいろ揃えてもソフトの面がノウハウの面が重要になる
これも簡単に覚えられないし身につかない、それで素人がちょっとした畑をするにもなんにもとれず終わることが多い
そのために農業は代々の農家が継ぐのが有利なのである、そこでは農業するための経験が積み重ねられているからだ、何もない所から始めるのは至難だとなる
江戸時代だとほとんど親の職業についていた、それは江戸時代はあまり変化がない時代だからそうなっていた、職人ですら十何代もつづいていた、その系譜もあるのを見た
だから結婚するにしても同じ職業の人と結婚することが多かった
職人仲間は職人と農民は農民とか商人は商人同士の結婚になる
そうなると安定した生活になる、経営では経営コンサルタントが商人の娘を雇いというときがそうである、全然違った職業になるとなかなか理解できなくなるからだ
でも不思議なのは江戸時代でも離婚は多かった、金銭でやはりもめて離婚になっていた
だからいかに結婚自体がどれほどむずかしいものか知る
ともかくこの俳句でも平和とは何かというとき平和平和とか叫ぶことでもない、カルト教団のように絶えず集まり示威行動することでもない、平和とは日常の状態でありそこに平和がある
山鳩が来る、実りがあり芙蓉が花が咲いている、その時調和した風景をみて心がなごむのである
それを特に感じたのは飯館村だった、原発事故で田畑は荒地になり草ぼうぼうになり放射性廃棄物の積まれた村となり平和な光景が全く失われた
何か先祖が眠る墓まで嘆いているという感じになったのである
そして村人は補償金で分断されて住まなくなった、50億円で5人のために学校を作っても肝心のその子供は村に住んでいないし若い世代も住んでいないのである
平和な光景が全く失われてしまったのである、何か戦争があって荒廃した村のようになってしまったのである
飯館村というとき草深く森深く花が隠され咲いて村は貧しくても何かひっそりと隠されていたとなる、それが荒廃してしまった、飯館村の責任ではないが現実にそうなってしまったということである、そこにはもうかつての平和な光景がないのである
飯館村では山鳩がふさわしいと見ていた、森が深いから森に山鳩が帰る、それが平和に感じられたのである、ただ別に山鳩が飯館村にいなくなったわけではない、でも人間の営みがなくなったとき山鳩とか自然まで影響したのである
自然と調和した村だとすると村が荒廃して自然まで影響されてそうなった
もし自然のままの原生林だったらそうはなっていない、それはそれで純自然を見て感嘆するとなっていたのである、一旦人が住むと人の営みがなくなると自然まで荒廃した感じになるものだとつくづく見て思った
それは南相馬市の鹿島区でもそうである、前にいい古い松原があり実りがあり調和していた、それが根こそぎ松原が流された、そしてソーラーパネルとか風力発電の場であり全くその面影すらなくなったのである、これは津波の結果であり人間の罪ともならない
ただ今では海岸地域も稲穂が実っているからある程度回復したが松原はと戻ってこないともなる
とにかく生業を返せとか裁判したことでもわかる、生業とは何か生まれてある業だとなると農業とか漁業とか林業とかになる、それは自然と密接に結びついてあったのである
職人の仕事でもそういうことがあった
それか根こそぎ失われたということがある、その時平和も失われた
与えられたのは補償金でありそれで平和な光景は回復しなかったのである
ただ遺産争いのように村自体が分断されてまた家族すらばらばらになったのである
それで小高の復興住宅で孤独死があったとかなる、他でもある
そこにかつての平和な光景がない、もちろん昔が理想だとかはない、ただ今と比べると平和な光景があったことは確かなのである、それが飯館村に一番象徴的に現れたのである
それが原発事故のむごさだったのである
とにかく芙蓉が咲き蝶が舞い、実りがある、山鳩が来る、この光景に本当に平和を感じた芙蓉というとき飯館村ににあっていた、大きい花で大らかに咲いていたからだ
人間が自然と調和するとき本当は美しい平和がそこに実現していたのである
とても大都市とか工場地帯に平和を感じないのである、それをすべて否定できないにしてもそうである、それが光景としては平和に見れないのである
ただ現実問題としてそうした村とか飯館村とかで住むとなると苦しい
不便だから住めないと実際はなっていた、時々外部から訪れるだけだからいいとなっていたのである、第一病院すらないのだから不便だとなる
だからまず車がない人はとても今は辺鄙な場所には住めないのである
畑にそ実りのありて花々も美しく映えて平和のあらむ
まず実りがあって花々も映える、その実りが生業でも消失したとき平和は失われた
別に原発事故がなくてもこの辺では耕作放棄地が特に多い、それは全国的で後継者がいなくてそうなった、それは全国規模の経済で農業があるようになったからである
すると一地域でその土地を活かすということができない、でも長野県のキャベツ農家のように実際に全国的に成り立つところは億の金を稼いでいるのである
そして実際は8割の農産物はこうした大規模の農家で作っているのである
だから小規模な農家は経営的にはもう成り立たなくなっているのだ
それが地域地域を荒廃させているともなる、グロ−バル経済で日本の森がこんなに豊富なのに荒廃したと同じである
だからこういう経済は何か不自然であり歪みをもたらしたのである
それは観光のことでも外国人が優遇されて肝心の日本人が優遇されないというのもそうである、それはグロ−バル経済だったらどこの国でもそうなったのである
温泉宿は農民の疲れを癒すものとして東北だったら湯殿とかに湯治に村人が行ったのである、それが外国人相手になったのが現代である
それがコロナウィルスでぱったりと来なくなって困ったとなる
何かグロ−バル経済とかこうした広域経済には問題がある、それがコロナウィルスで見直されたことも不思議だとなる、関所まで必要だとなると昔に戻ることにもなる
昔の様な生活をしなければならないとまでなったからだ
いづれにしろ人間は介護で四苦八苦したが家族が苦しいとか困ったかとかそういう場にはよりつかなくなる、それはみんな経験している
何かそういう人とかかわる被害を受けるし苦しみを受けるし損だと思うからである
でもそこに実りがあり花が咲いて山鳩でも来る、それが平和な光景であり観光客でも来るとなる、もう飯館村とかには行きたくないとなるのが人情だからどうにもならない
荒廃した村で心も荒廃してしまうということである
原発事故の罪深さはそこにあった、平和な光景を壊してしまったのである